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死に損ないたちの岸辺  作者: ぜろ
第4章
17/20

始まった共同生活

 三人でファミレスを出たあと、電車で二十分ほど揺られ、ある駅で下車した。そこから七分歩いた住宅街の一角に、あたしの住むアパートがある。

 築十三年の三階建てで、新しくも古くもない建物だ。雨だれの筋が薄く壁に残り、角の塗装はところどころ剥げている。年月なりの痕跡だけが、はっきりと刻まれていた。


 あたしは部屋の鍵を開け、ドアを押した。

 物珍しそうに視線を巡らせる瀬奈。その様子を気に留めるように、アルトがちらりと横目で見る。


「どうぞ、入って」


「おじゃまします」


 アルトは静かにそう言って中へ入った。


 瀬奈はその後ろに続き、口をぽかんと開けたまま、きょろきょろと室内を見回している。


「瀬奈」


 低い声で名前を呼び、アルトが彼女の肩をぽんと叩いた。


「あっ。えっと、おじゃまします!」


 瀬奈ははっとして言い、慌てて姿勢を正した。そのやり取りは、世間知らずな娘と、それを嗜める父親のようにも見えた。


 アルトは一拍置いて身体の向きを変え、上がり(かまち)に沿うように靴を揃えて脱いだ。動きは滑らかで、無意識に近い。誰かに見せるための所作ではないことが伝わってくる。

 対照的に瀬奈は、ドアを背にしたまま、流れに任せるように靴を脱いだ。


 あたしは二人に順番に視線を向けながら、簡単に間取りの説明をした。玄関を入ってすぐにトイレがある。その隣が洗面所とバスルーム。廊下を挟んだ向かいの部屋は、今は物置として使っている。


「今日は瀬奈はリビングのソファで寝てもらうけど、この物置部屋を整理したらあんたの部屋として使ってもらうから」


「わあ。ありがとう」


「急で悪かった」


 喜ぶ瀬奈の隣で、アルトが言った。


「ま、しっかりと働いてもらうよ」


 あたしが言うと、瀬奈は大きく頷いた。


「うん。頑張る!」


「で、突き当たりがリビング」


 説明を続けながらドアを開け、二人を中へ通した。


「その隣の引き戸開けたらあたしの寝室」


 ローテーブルを囲んで腰を下ろし、あたしが出した紅茶を一口飲んでから、アルトが言う。


「瀬奈、ここまでの電車覚えたか?」


「うん、覚えた」


 瀬奈の即答に、アルトは眉を顰め、疑いの視線を向ける。


「本当かよ」


「私ね、電車だけは強いんだ。よく、夜に家を抜け出して、あてもなく電車に乗って、いろんなところ行ってたから」


「瀬奈ってずっと都会っ子なんだ?」


 あたしは聞いた。


「都心からは外れの方だけどね」


「十分都会だよ。あたしなんて山しかないようなところで育ったから」


「なんか意外かも」


 瀬奈が言った。


「あたしはさ、小学生の頃から性自認が女だから、服装もそんな感じで、髪も伸ばしてた。名前変わってるってのもあって、辺鄙な田舎町だと結構目立ってて」


「せいじにん?」


 首を傾げる瀬奈に、あたしは言う。


「自称女ってこと」


「あー! そうかー!」


 突然、霧が晴れたような表情で瀬奈が声を上げ、あたしを見る。


「え、なに?」


 唐突な大声に、あたしは反射的に身を引いた。


「瀬奈」


 アルトが制するように名前を呼ぶ。


「あっ。ごめん」


 瀬奈は気まずそうに謝った。


「だから、なに?」


「あの……。神羅って美人だから最初は女の子だと思ってたんだけど、それにしては超背高くて、声もハスキーでカッコよくて、なんだか途中から、性別がどっちなのかわかんなくなっちゃって」


「ああ。あたし、ずっと性別不詳だったのね?」


 笑いながら言うと、瀬奈はこくりと頷いた。


「ずっと気遣わせちゃってた感じ? まさかアルトも――」


「俺は別に」


「あ、そ? んじゃ、改めて自己紹介ー。上村神羅(かみむらかむら)! 本名! 野比のび太の厨二病(ちゅうにびょう)版みたいで気に入ってるー! そんで性別は男、性自認は女! そんな自分大好き!」


「本名だったのか」


 アルトが、少し驚いたように言った。


「うん。この変わった名前のおかげで一発で存在認知されるから、便利だよ」


 その言葉に、アルトの瞳がわずかに見開かれる。


「あんたは? 本名。アルトって源氏名でしょ?」


「ああ。俺、本名嫌いなんだ」


 苦痛を隠そうともしない表情だった。その理由を尋ねるのは躊躇われた――


「どうして?」


――が。瀬奈は小首を傾げ、まっすぐな目でアルトを見て、迷いなく尋ねた。


「俺も変わってんだよ、名前。いや、変わってるとかいう次元じゃねえな」


「なんて名前なの?」


 瀬奈はさらに踏み込む。アルトは一度大きく息を吸い込み、覚悟を決めたように口を開いた。


哀流聖(あいるしょう)


「「え?」」


 あたしと瀬奈の声が、同時に重なる。


「まあみんな、百パー、その反応」


 うんざりしたように言い、続けて漢字を説明する。


 自分の名前を語る間、もともと生気の薄いアルトの目は、さらに光を失っていった。その声には、絶望と、どこか憎悪に近いものさえ滲んでいるように思えた。

 さすがの瀬奈も、彼の異様な雰囲気を察したのか、それ以上掘り下げることはしなかった。


 彼もまた、複雑な生い立ちを背負っているのだろう。


 あたしはその場でパソコンを立ち上げ、就労規則や生活のルールをまとめたものを作成して印刷し、瀬奈に手渡した。仕事と生活について、一通り説明する。


「神羅って、彼氏いるの?」


 書類を受け取りながら、瀬奈が唐突に聞いてきた。


「もう二年いない」


 そう答えると、瀬奈は露骨に安心した顔になる。


「ならよかった。もし付き合ってる人がいたら、私って超邪魔者じゃんって思って」


「ふーん。そういう気は使えるんだ」


 正直なところ、何も考えていないタイプだと思っていたので、少し意外だった。


「瀬奈は? 恋人」


 紅茶の入ったマグカップに手を添えながら、あたしは聞く。


「いたことないよ」


 首を横に振って、瀬奈は言った。


「ふーん。まあ、アルトはたくさんいるだろうね」


 そう振ると、アルトは肩をすくめる。


「特定の女はいない」


「あっそう。じゃ、みんなフリーね。色々動きやすいわ」


 その後、アルトは物置部屋の片付けを少し手伝い、帰っていった。


 去り際、玄関で「あいつをよろしくお願いします」と言って、深く頭を下げたことを、瀬奈は知らない。


 アルトがホストとして瀬奈をカモにするつもりなら、金を生み出さない未成年の彼女に、ここまで関わる理由は本来ない。体裁だけなら、優しい言葉をかけるだけの、一時的な救済で終わるはずだ。

 それでも彼女に、まともに働くことを提案した時点で、彼はそこまで信用できない人間ではないような気がしていた。


 そして、この深々とした礼を見て、その感覚は確信に変わった。


 こうして、あたしと瀬奈の共同生活が始まった。

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