扉の向こう
高層マンションの並ぶ住宅街を、俺たちは歩いていた。
午前の日差しが街路樹の葉を透かし、ガラス張りの建物の壁面には空の青と流れる雲が淡く映る。
「お前、なんだよあの小学生レベルの悪口」
俺は苦笑を噛み殺し、呆れた視線を瀬奈に向けた。
「嫌な感じでムカついたんだもん。……でもアルト、私といるとロリコンの変態ホストって噂広まっちゃうかも。だってお店でも色んな人に見られたし」
「そう思うなら最初から来んなよな」
「だって、あの日名刺くれたじゃん」
「俺の名刺は命の相談窓口カードか?」
俺はため息をついた。
「……まあ、店には親戚で通してるし、レイジさんがOKした以上、店のやつは下手に騒げねえよ」
「あーあ。世間は、未成年に厳しいよね」
「まあ、18になりゃもう少し自由効くようになるよ」
「あと半年なんて遥か未来のことだよ。私生きてるのかな」
「さあな」
気づけば、周囲の建物は商業ビルに代わり、看板の数が増えていく。
開店準備の忙しない物音に、シャッターの軋む音が重なる。
そこへ通勤する人々の足音が流れ込み、通り全体が、ひとつの生き物のように呼吸していた。
背後にあるタワーマンションは、すでに別の街の風景になっていた。
「お前って高校は行ってたの?」
「地元の公立通ってたけど最初の1週間行っただけ。出席日数的に、多分もう退学になってる。アルトは?高校」
「通ってたよ。それまで優等生の陽キャ演じてたのに突然失踪した俺について、母親が学校にどう伝えて処理したのかは知らねえけど」
「へえ、優等生アルトかあ。今からは想像つかないね。捜索願は出されてないのかな。警察に見つかって、連れ戻されたりとかさ」
「あー……。多分それはねえな。母親クスリやってたから普段から警察避けてたし」
捜索願で見つかったとしても、母にとって都合が悪いのは明らかだった。
俺が消えた理由を、警察に掘り下げられることだ。
逮捕されるかどうかは、本質じゃない。
ニュース沙汰にでもなって、底辺を這っている現実を父に知られること――それが、あの人には何より耐えがたい。
父が捨てた女とその子供は、父がいなくても人生を楽しんでいなければならない。
間違いなく、“幸せな側”でなければならない。
母は、そう思い込むことでしか生きられなかった。
それがあの人を縛り続けてきた呪いだった。
俺は心拍数が少しずつ上がっていくのを隠し、平然を装いながら歩いた。
「それにもう成人だしな。見つかったところで拒否権あるから」
「拒否権?」
「捜索されても、居場所知られたくない俺みたいなやつのための権利」
「ふうん」
通りの脇にある店の半開きのシャッターからは、重なった段ボールが見えた。その上には、夜の賑わいで力を使い切ったかのようなネオンが、ただ静かにぶら下がっている。
風に転がされた空き缶がカラカラと音を立て、俺と瀬奈の間を通り、あのトランクルームのあるビルの前で止まる。
「午前中だし、いねえかもなあ」
「ねえ、誰かに会うの? やっぱ風俗なんじゃん?」
瀬奈は近くにある看板を見て言った。それに釣られるように視線を看板に移すと、バニーガールが、胸を寄せてこちらを見ていた。
「だから売らねえって言ってるだろ。とりあえず入るぞ」
ビルに入り、郵便受けの並ぶ共用部を抜けて、突き当たりの会社名が記された扉を開ける。
カーペット敷きの床に、足音は吸い込まれるように鈍った。同じ高さの白いドアが整然と並んでいる。人の気配はなく、機械的な静けさだけがフロアを支配していた。
「わー、ここなに?」
「貸し出し倉庫みたいなとこ」
「ふーん。アルト、なんか取りに来たの?」
「いや俺が――つーかお前声デカすぎ。俺が倉庫借りてるわけじゃないけど、会いたいやつがいて」
「ふーん。なんかぎっちりドアが並んでて漫喫みたいだね!」
「だからお前、声が――」
「ちょっと、何? うるさいんですけどー!」
俺が瀬奈の声量を制する前に、個室の中から声がした。
「作業に集中できないから静かにしてー!」
聞き覚えのある、ハスキーボイスだ。
「あっ……。ごめんなさい」
瀬奈は、ハッとした表情で口を押さえ、声の主に謝った。
「おい、ちょっと出て来てくれ」
俺は声のする個室のドアを叩いた。
「えっ。アルト!喧嘩しちゃダメ」
瀬奈は慌てて俺の腕を掴んだ。
「何? あんた誰?」
明らかに面倒くさそうな声が、ドアの向こうから返ってくる。
「俺、この前会ったホスト。荷物運ぶの手伝ったろ。ちょっとあんたに相談があって」
少し間を置いてから、扉が解錠された音がした。ゆっくりとドアが開き、わずかな隙間から、あの時の古着屋がこちらの様子を伺うように覗いている。
「え、何? 手伝ったから金よこせとかそういうの?それとも変な宗教の勧誘?」
「いや、そういうんじゃなくて。ちょっと、場所変えられねえ?時間取らせねえから」
隙間から見える薄いブラウンの目は、訝しげに俺を見たあと、一歩後ろにいる瀬奈に向けられた。
「……なんかトラブルの匂いがするから嫌だ。それに今、梱包作業とメールの返信で忙しいし」
古着屋はドアを閉めた。
「わかった。じゃあ、その作業手伝う。終わったら10分だけ話聞いて」
しばらくの沈黙の後、再びドアが開き、じっとりとした視線が、隙間から覗く。
「……すんごい量だけど?」
「ああ、いいよ。瀬奈、お前も手伝うぞ」
「え? う、うん……?」
古着屋は無言でドアを押し開け、顎だけで中へ促した。
中の作業台の上にはたくさんの古着が置かれている。その下にある数個の段ボールは、おそらく発送用だがまだ封をされておらず、ビニールに包まれた衣類が入っているのが見えた。
瀬奈は状況を掴めず、戸惑ったように個室内を見回していた。
「じゃ、2人ともこの手袋はめて。これから教える手順で梱包してもらうから。中には高額な物もあるから丁重に扱ってね」
その古着屋は、俺と瀬奈に白い布の手袋を手渡すと、作業工程を淡々と説明しはじめた。
服を扱うその手つきは丁寧で、ひとつひとつの動作に迷いがない。
俺は時折頷きながら耳を傾けた。
さっきまで所在なさげに立っていた瀬奈の背筋が、少しずつ伸びていく。
その変化を、俺は黙って横目で見ていた。




