触れてしまった傷
ソファで、瀬奈の耳の手当をする。
すべてのピアスを外した耳が、痛々しく腫れ上がっている。ひとつは、固まった膿が金属の軸に貼りついて、ピアスが微動だにしない。無理に引けば肉が千切れそうで、俺の手つきはさらに慎重になる。
苦労したが、なんとか外れた。
消毒液を含んだコットンボールをピンセットでつまみ、患部にポンポンと押し当てた。
「お前これ、病院行ったほうがいいんじゃねえの」
「このくらいで病院なんて行かなくても大丈夫だよ。小指骨折した時だって、病院行かなくても治ったよ? ちょっと曲がっちゃったけど」
瀬奈はケロッとした様子で左手の小指を見せてきた。
明らかに歪んでいるその指を見て、俺は言葉を失った。
「それに私、病院ってこの前初めて行ったばっかりでよくわかんないし」
「……骨折でも病院行かねえやつが、どんなことあったら病院行くわけ」
聞いてはみたものの、答えを聞くのが恐ろしくなった。
「家にあった風邪薬を何種類か、一気にたくさん飲んだんだ」
「……オーバードーズでぶっ倒れたのか」
「うん。帰宅した親が、気を失ってるの見つけたみたい。気づいたら病院にいた」
「そりゃさすがに救急車呼ぶよな」
「ううん。あとから妹に聞いたんだけど、救急車は目立つからって、お父さんとお母さんで車に乗せて運んだって。長女の17歳の誕生日に、本人は家に置き去りで、家族でテーマパークで一日中遊んでて、帰ってきたら長女が家で死んでました、なんて……あの人たちにとっては、いちばん都合の悪い話だから。
世間体が何より大事な母は、近所で噂になるのを恐れて、救急車は呼ばなかったんだと思う」
「かなりハードな誕生日だったんだな」
「死んだら死んだで、きっと厄介払いができるって内心思ってたんだと思う。あいつ、目を覚ました私に向かって『なんだ、死なないの』って――」
淡々と話していた瀬奈の瞳から、見る見るうちに覇気は失われていった。
「あの日は誕生日なんかじゃなかった。私が死んだ日」
ああ、もう――。
瀬奈の言葉にいちいち既視感を覚え、胸がざわつく。
そう。あの日俺は死んだ。
確かに、その音を聞いた。
呼吸が荒くなるのを感じ、俺は再び深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
「退院した日の夜に、家出てきたんだ。それが2ヶ月前」
「お互い、変な親には苦労するな」
俺はソファの背もたれに身を預けた。
「アルトの親も、変なの?」
「変。変質」
目を閉じて深呼吸する。母親の話題は、気を抜くと呼吸が乱れる。
「私は自分の親が変って最近やっと認識した。二度と会わない」
「俺も17からずっと会ってねえわ」
「アルト、私と同じなんだ」
「つーかお前さ、仕事はもう少しマシなのにした方がいいぞ。俺に言われたかねえだろうけど」
「その日暮らすお金がすぐ必要だってこと、昔同じ状況だったならわかるでしょ」
「でも今の稼ぎ方はリスクも負担でけえだろ。早いとこ足洗った方がいいぞ」
「無理だよ。それに身分証も持ってない住所不定の家出娘なんて、どこも雇ってくれないよ。何するんでも親の同意がいる」
「そんなもんどうとでも――」
言いかけた時、ふと、ある人物の存在が頭に浮かぶ。親の同意とか面倒なこと抜きで、その日暮らす金が稼げて寝床と飯があるところ――。
「……明日、連れてくとこがある」
「風俗売られる感じ? まあ、割に合うならいいけど」
「バカ」
「違うの? 児相に通報とか無理だよ! 今すぐ出てく!」
瀬奈は急いでその場に立ち上がった。
「いいから座れ。心配しなくても売ったり通報したりしねえから。とりあえず家の中で好きに過ごしてて。寝室は、廊下出て右な。朝俺が来るまで外には出んなよ」
「アルトって、何でこの家に住まないの?」
「いつ追い出されるかわかんねえ場所でくつろげるかよ。家っつーか寮みたいなもんだしな」
「アルトなら余裕じゃん? シャンパンコールって、私初めて見た。キラキラしてて、なんかすごい世界だなって」
「金のためだ。あんなもん苦痛でしかねえよ」
「お店で接客してる時と全然性格違うよね。俺の大切な姫ーとか愛してるよーとか嬉しそうにマイクで言ってたじゃん」
「あれは営業モードだからな。毎日吐き気と寒気抑えながらアルトやってんの。ホストなんて、こいつどうやったら金落としてくれっかなーってことしか頭にねえよ」
「私こっちの素のアルトのほうがいいと思うけどな」
「こんなん見せたら一瞬で降格だよ」
「そっかなあ」
「あ、そういや連絡先教えといて」
俺はポケットからスマホを出した。
面倒ごとに巻き込まれそうだから、本当は連絡先なんて交換したくない。でも、職場もこの場所も、俺からバラしてしまった。もう手遅れだ。
「私スマホない」
「マジかよ……じゃ、いいや。名刺持ってんだろ?それに書いてる番号繋がるから、なんかあったら下にいたコンシェルジュに頼んで連絡して」
「こんしぇるじゅ?」
「ロビーのデスクにいたろ、人」
「ああ。わかった」
瀬奈がスマホを所持していなかったことに内心ホッとしつつ、マンションを後にした。
翌日瀬奈を迎えに行くと、リビングに姿はなかった。玄関に靴はあったので、まだ寝室で寝ているのだろう。
来る途中に寄った、朝からやっているカフェの紙袋を、アイランドキッチン横にあるダイニングテーブルに置く。
程なくして、瀬奈が寝ぼけ眼でリビングへやってきた。
「おはよう」
俺の声に、瀬奈は嬉しそうな――でも戸惑いも混ざったような顔で、微笑む。
「……おはよ」
――昨日見た表情だ。
瀬奈は今まで、朝「おはよう」と声をかけてもらったことがなかったのだろう。
「アルト、髪下ろして私服だと、誰かわかんないね」
瀬奈は、珍しい生き物でも見るかのように、俺をまじまじと見た。
ワックスをつけていない髪をセンターで分けるだけのゆるい髪型。
黒のパーカーに、細めの黒いパンツを合わせ、中に着た白いTシャツの裾だけが、少し覗いている。全体的に色味はモノトーンで、特にこだわりもない。ただ動きやすい格好を選んだだけだ。
「よく言われる。オーラなくなるって」
「なんか急に人間味出たね」
「瀬奈、起きてすぐ朝飯食える人?」
「うん」
「サンドイッチでいいなら」
俺は紙袋を持ち上げて言った。
「……もし、私がサンドイッチじゃイヤって言ったら、どうなるの?」
「何お前、朝は米派? だる。下のコンビニで買っては来れるけど」
瀬奈はクスクスと笑い出した。
「朝からサンドイッチ食べられるなんて最高だよ。いつも選択肢与えられてる妹がいつも羨ましかったから、嬉しくなって聞いてみただけ。私、朝ごはんはトースト以外食べたことないから」
瀬奈の笑顔を見て、踏み込んだ後悔と、生い立ちから簡単には逃れられないその既視感とが、同時に胸に差し込んできた。
食後にコーヒーを淹れたり、デザートにフルーツをだしたりする度に、瀬奈は嬉しそうな、照れ臭そうな顔を見せて、無邪気に喜んだ。
野良猫に餌をやり続けてしまっているという焦りは常に付き纏っていた。もう後戻りはできない。俺は腹を括った。
「私、あんなふかふかのベッドで眠ったの初めて」
カットフルーツを食べながら、瀬奈は言った。
「寝具には金かけたからな。眠れたか?」
「今までで一番熟睡したかも」
「それはそれは」
俺はコーヒーを口に運んだ。
「……あ、お前さ、昨日右耳膿んでやばかったから、右はしばらくピアスつけんなよ」
自分の右耳を人差し指でトントン、と触れてジェスチャーをした。
「……アルトって、なんてゆーか、お母さん」
「はあ?」
「私が母という生き物に抱いていた憧れそのまま。怪我したら手当してくれて、朝起きたらおはようって言って朝ごはん用意してくれて。面倒くさそうにしながらも、心配してくれたり――」
頼むから、それ以上その無垢な光をこちらに向けるなと、胸の奥で必死に祈っていた。
「誰が母ちゃんだ。ほら、準備したら、出かけるぞ」
俺はこいつが苦手だ。
彼女の内面に触れる度、水底に沈めていた澱が掻き回されて、見たくもない光の方へ浮き上がってくる。
俺はただ、過去を失くすためだけに今を生きてきた。
痛みも、汚れも、ふいに抱いてしまうあの微かな希望さえも――
消せるのなら、生き方なんてどうでもよかった。
だが、瀬奈と出会ってから、心の震えが止まらない。
積み上げてきた防波堤が、いつか音を立てて崩れ落ちる予感がしていた。
エレベーターでロビーへ降りると、エントランスから人が入ってくる。
「アルトさん。お疲れ様です」
同じ店の後輩、No.1の優雅が会釈する。
その隣には、No.3の咲夜がニヤついた笑みを浮かべて立っていた。
「おお、お疲れ」
短く返す。アルコールの匂いが漂ってくる。
おそらくアフターでオールしていたのだろう。
咲夜が俺と瀬奈を交互に見て言った。
「ロリコンアルトくーん。未成年店呼んだあとは枕営業? No.2の座守るのってそんな大変なのー?」
鼻にかかった声で、茶化すように笑う。
「はあ? 何あんた」
俺は臨戦態勢の瀬奈の背を軽く押し、促す。
「ただの酔っ払いだ。行くぞ」
歩き出すと、
「未成年淫行ハンターイ」
まだ背中に声が投げられる。
瀬奈は勢いよく振り返った。
「アルトは私のお母さんだし! ガキに興味ないんだから! 豊満ボディのお姉さん限定だよーだ! バーカ! ハーゲ!」
洗練されたロビーに、瀬奈の幼稚な罵倒が響き渡った。




