生き延びた野良猫
深夜のタワーマンションのガラス張りのエントランスは、夜気をわずかに含んだ冷たさを宿していた。
夜勤のコンシェルジュが「おかえりなさいませ」と頭を下げる。小さなデスクライトの光だけが制服の縫い目を淡く照らしている。
大理石の床を踏む二人の靴音が静かに響いた。
「瀬奈、あんまりキョロキョロすんな」
「すっごいね。アルトこんなとこ住んでんの?」
「店名義で数部屋用意されてて、連続でナンバー入りしたら部屋与えられるシステム。俺は女連れ込む時に使ってる程度で、普段はここからタクシーで20分くらいの賃貸借りて住んでる」
「へえ。すごい世界だね」
「とりあえず今夜はこの部屋貸してやるから、朝まで大人しくしてろ。明日迎えに来るから」
エレベーター前でカードキーを翳すと、落ち着いた電子音が鳴った。
ほとんど音のしない動きで到着したエレベーターに乗り込む。
扉が開くと、廊下に漂う空気はひんやりとしている。
一定間隔の間接照明が足元を照らし、影が長く伸びた。
部屋の前で再びカードをかざすと、パネルが淡く光り、短い認証音が響く。
重厚な扉がゆっくり解錠された。
玄関には自動で淡い光が落ち、白い壁がまっすぐ奥へ続いている。
靴を脱ぐスペースは広く、段差のないフロアがリビングへ滑らかに伸びていた。
「わあ……」
瀬奈はその場で、ぽかんと口を開けて周りを見回していた。
「人んち上がる時は、お邪魔します、な」
スリッパを瀬奈の足元に出す。
「おじゃま……します」
瀬奈はそう言うと、鼻を膨らませ、歪んだ笑みで俺を見た。
「変な顔。なんだよ」
「初めて!」
「は?」
「初めて言ったの。おじゃましますって」
「さてはお前碌な教育受けてねえな?今まで人んち無言で上がってたのかよ」
「自分の家以外一度も上がったことがないから、言う機会がなかったの」
「……そんなことある?」
言葉に詰まった。どんな育ちをすればそうなるのか、まるで想像がつかない。
「友達なんていたことないし、うち親戚は疎遠だったし。唯一関わりのあるじいちゃんとばあちゃんは、正月にうちに来るくらいの付き合いだったから」
「へえ」
短く相槌を打つ。
「瀬奈、上着」
上着を受け取り、ハンガーに掛けて玄関脇のフックに吊るした。
20畳のリビングダイニングには、低いソファと、薄いガラストップのテーブルがある。
「適当に座っといて」と言ったが、瀬奈は落ち着きなく室内を歩き回っている。
「……人んち舐め回すように見るのもマナー違反なんだぞ」
呼びかけは届かない。壁の大判アートをじっと眺めている。
俺は小さく息をつき、冷蔵庫を開けた。
「あー、酒しかねえな。水でいいか」
ウォーターサーバーの水をグラスに注ぐ。
瀬奈は今度は窓の前にいた。天井までのガラスに両手をつき、顔が触れそうな距離で夜景を覗き込んでいた。
「おーい、そこのガキー。ガラスベタベタ触んのもマナー違反だぞー」
やはり反応はない。
グラスを持って隣に並ぶ。
大きな窓が夜景を切り取り、街の灯りがちらついている。
「はい、水」
「ありがと」
「ありがとうは言えんのな?」
意地悪く言ってやると、瀬奈はじとっとした目を向けてきた。
「この窓って開くの?」
「この窓は、はめ殺しだから開かねえよ」
「なにそれ?なんかエロい」
「バカ、一枚で枠に嵌ってて開けられねえ作りってことだよ。けどお前、あっちのバルコニーは開くから飛び降りんなよ」
「あはは!良いこと聞いたー」
「バカやろ、飛ぶならここ以外で飛べ。迷惑だ」
瀬奈はきゃっきゃと笑う。
「何がそんなに面白いんだよ」
「アルトって超適当だよね」
「俺はペテン師だからな。基本なんでも適当だ」
まだクスクス笑っている。
「つーかお前、その耳すげえよな。そんな開けて痛くねえの?」
瀬奈の耳のピアスを指差す。
「痛いこともある。でもアルトだってピアス開いてんじゃん」
「俺は両耳に一個ずつだし。瀬奈、お前それ何で開けた?」
「ふつーに安ピンとか画鋲とか?」
「うわ、消毒とかしてんのかよ」
「してない」
「絶対やべえだろ。なんか赤くなってねえ?」
「変な膿出てくる時もあるよ」
引いた俺を見て、瀬奈は言う。
「リスカと同じなの。穴開けたら落ち着く。生きてるって実感する」
「ふーん。そういうもんか」
立ち上がる。確か、リビング脇の収納に救急箱があったはずだ。
「あはは!また適当」
腹を抱えるほど笑い出した。これが箸が転んでも可笑しい年頃ってやつか。
「おい、消毒すんぞ」
救急箱を手に言うと、瀬奈の笑い声がぴたりと止まった。
「ねえ、アルトってやっぱり私とやりたいの?」
「何回言わせんだよ。興味ねえって」
「じゃあなんでこんなに優しいの?」
「優しかねえけど。野良猫に一度餌をあげちまった責任もあるしな。クソめんどくせえけどお前がのたれ死んだら後味悪いし」
「餌って、コンドームのこと?」
「いや……あれは、ライターのお礼にチョコ渡したつもりだったんだよ。あの後やろうとしたらゴムなくて焦った」
「馬鹿じゃん!あのコンドーム、マジで意味不明で困惑したんだから。それで死ぬ気失せたし」
知らないところで、俺の馬鹿げたミスが瀬奈の選択肢を変えていた。
あれから今日まで生き延びてきた瀬奈の笑い声が、濁り切った俺の心に落ち、静かな波紋を広げていった。




