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死に損ないたちの岸辺  作者: ぜろ
第3章
12/15

生き延びた野良猫

 深夜のタワーマンションのガラス張りのエントランスは、夜気をわずかに含んだ冷たさを宿していた。


 夜勤のコンシェルジュが「おかえりなさいませ」と頭を下げる。小さなデスクライトの光だけが制服の縫い目を淡く照らしている。

 大理石の床を踏む二人の靴音が静かに響いた。


「瀬奈、あんまりキョロキョロすんな」


「すっごいね。アルトこんなとこ住んでんの?」


「店名義で数部屋用意されてて、連続でナンバー入りしたら部屋与えられるシステム。俺は女連れ込む時に使ってる程度で、普段はここからタクシーで20分くらいの賃貸借りて住んでる」


「へえ。すごい世界だね」


「とりあえず今夜はこの部屋貸してやるから、朝まで大人しくしてろ。明日迎えに来るから」


 エレベーター前でカードキーを翳すと、落ち着いた電子音が鳴った。

 ほとんど音のしない動きで到着したエレベーターに乗り込む。


 扉が開くと、廊下に漂う空気はひんやりとしている。

 一定間隔の間接照明が足元を照らし、影が長く伸びた。


 部屋の前で再びカードをかざすと、パネルが淡く光り、短い認証音が響く。

 重厚な扉がゆっくり解錠された。


 玄関には自動で淡い光が落ち、白い壁がまっすぐ奥へ続いている。

 靴を脱ぐスペースは広く、段差のないフロアがリビングへ滑らかに伸びていた。


「わあ……」


 瀬奈はその場で、ぽかんと口を開けて周りを見回していた。


「人んち上がる時は、お邪魔します、な」


 スリッパを瀬奈の足元に出す。


「おじゃま……します」


 瀬奈はそう言うと、鼻を膨らませ、歪んだ笑みで俺を見た。


「変な顔。なんだよ」


「初めて!」


「は?」


「初めて言ったの。おじゃましますって」


「さてはお前(ろく)な教育受けてねえな?今まで人んち無言で上がってたのかよ」


「自分の家以外一度も上がったことがないから、言う機会がなかったの」


「……そんなことある?」


 言葉に詰まった。どんな育ちをすればそうなるのか、まるで想像がつかない。


「友達なんていたことないし、うち親戚は疎遠だったし。唯一関わりのあるじいちゃんとばあちゃんは、正月にうちに来るくらいの付き合いだったから」


「へえ」


 短く相槌を打つ。


「瀬奈、上着」


 上着を受け取り、ハンガーに掛けて玄関脇のフックに吊るした。


 20畳のリビングダイニングには、低いソファと、薄いガラストップのテーブルがある。

「適当に座っといて」と言ったが、瀬奈は落ち着きなく室内を歩き回っている。


「……人んち舐め回すように見るのもマナー違反なんだぞ」


 呼びかけは届かない。壁の大判アートをじっと眺めている。


 俺は小さく息をつき、冷蔵庫を開けた。


「あー、酒しかねえな。水でいいか」


 ウォーターサーバーの水をグラスに注ぐ。


 瀬奈は今度は窓の前にいた。天井までのガラスに両手をつき、顔が触れそうな距離で夜景を覗き込んでいた。


「おーい、そこのガキー。ガラスベタベタ触んのもマナー違反だぞー」


 やはり反応はない。

 グラスを持って隣に並ぶ。


 大きな窓が夜景を切り取り、街の灯りがちらついている。


「はい、水」


「ありがと」


「ありがとうは言えんのな?」


 意地悪く言ってやると、瀬奈はじとっとした目を向けてきた。


「この窓って開くの?」


「この窓は、はめ殺しだから開かねえよ」


「なにそれ?なんかエロい」


「バカ、一枚で枠に(はま)ってて開けられねえ作りってことだよ。けどお前、あっちのバルコニーは開くから飛び降りんなよ」


「あはは!良いこと聞いたー」


「バカやろ、飛ぶならここ以外で飛べ。迷惑だ」


 瀬奈はきゃっきゃと笑う。


「何がそんなに面白いんだよ」


「アルトって超適当だよね」


「俺はペテン師だからな。基本なんでも適当だ」


 まだクスクス笑っている。


「つーかお前、その耳すげえよな。そんな開けて痛くねえの?」


 瀬奈の耳のピアスを指差す。


「痛いこともある。でもアルトだってピアス開いてんじゃん」


「俺は両耳に一個ずつだし。瀬奈、お前それ何で開けた?」


「ふつーに安ピンとか画鋲とか?」


「うわ、消毒とかしてんのかよ」


「してない」


「絶対やべえだろ。なんか赤くなってねえ?」


「変な(うみ)出てくる時もあるよ」


 引いた俺を見て、瀬奈は言う。


「リスカと同じなの。穴開けたら落ち着く。生きてるって実感する」


「ふーん。そういうもんか」


 立ち上がる。確か、リビング脇の収納に救急箱があったはずだ。


「あはは!また適当」


 腹を抱えるほど笑い出した。これが箸が転んでも可笑しい年頃ってやつか。


「おい、消毒すんぞ」


 救急箱を手に言うと、瀬奈の笑い声がぴたりと止まった。


「ねえ、アルトってやっぱり私とやりたいの?」


「何回言わせんだよ。興味ねえって」


「じゃあなんでこんなに優しいの?」


「優しかねえけど。野良猫に一度餌をあげちまった責任もあるしな。クソめんどくせえけどお前がのたれ死んだら後味悪いし」


「餌って、コンドームのこと?」


「いや……あれは、ライターのお礼にチョコ渡したつもりだったんだよ。あの後やろうとしたらゴムなくて焦った」


「馬鹿じゃん!あのコンドーム、マジで意味不明で困惑したんだから。それで死ぬ気失せたし」


 知らないところで、俺の馬鹿げたミスが瀬奈の選択肢を変えていた。


 あれから今日まで生き延びてきた瀬奈の笑い声が、濁り切った俺の心に落ち、静かな波紋を広げていった。

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