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3.パトロン「マダム・モリー」

 秋の柔らかな陽射しが、サロンの高い窓から差し込んでいた。淡いクリーム色と若草色でまとめられた室内は、しんと落ち着いた気配に包まれている。

 ヴィクトリアが香り高い紅茶を楽しんでいると、クラレンスが外出から戻ってきた。


「おかえりなさい、伯父様」

「ただいま。手続きはすべて完了したよ」


 少し疲れた様子で、クラレンスはコートを脱ぎながら椅子に腰を下ろす。


「ありがとう。案外、時間がかかるものなのね」

「まあね。金額が金額だから。資産評価と税の計算で、少し骨が折れた」


 ヴィクトリアは軽く微笑み、侍女に紅茶を頼む。


「ところで、エルミナのノートには、もう目を通したかい?」

「ううん、まだ。最初の数ページだけ」


 ヴィクトリアは脇に置いていた革装丁のノートを手に取った。

 ずっと傍に置いていたのは、読むためではなかった。母の想いが染み込んだ遺品として、ただ触れていたかったのだ。

 ぱらぱらとページをめくっていくと、『マダム・モリー』という項目を見つけた。


「ああ、そのページからちゃんと目を通してほしいな。マダム・モリーの活動が細かく書かれているはずだ」

「そうなの?」


 言われた通り、ページをめくっていくと、投資記録がびっしりと並んでいるページになった。一覧には、聞き覚えのある企業名がずらりと記されている。


「え、なにこれ?」


 世間に疎いヴィクトリアでも耳にしたことがある大手企業の名が、ずらりと並んでいた。


「投資一覧だ。売却のタイミングまで、エルミナの指示が詳細に残っている」


 クラレンスが紅茶を口にしながら淡々と答える。


「すごい。でも、どうしてお母様が、これほどの財を?」


 ヴィクトリアの問いに、クラレンスは少しだけ笑った。


「うーん、それも聞かされていなかったのか。じゃあ、簡単に説明しよう。エルミナ――つまり、マダム・モリーは、聖国の神官一族の出身ながら、表には出ず、裏で投資活動を行っていたんだ。鉄道、鉱山、工場……分散投資で目立たぬように動き、情報源には――家の諜報機関を使っていた」

「え……嘘でしょう?」

「嘘じゃないさ。僕はただの代理人さ。動かしていたのは彼女だ。だから、マダム・モリーという名は、伝説の投資家として密かに名が通っている」


 クラレンスはさらりと続けた。


「それに、神官家系の立場を生かして、商会との独占契約や地方自治体の借款にも密かに関わっていた。保守的な資金運用と、大胆な投資判断の両方を兼ね備えていたんだ。君に引き継がれた財産は、その集大成さ」


 まさか、あのおっとりした母に、そんな顔があったなんて。

 ヴィクトリアは再びノートに目を落とし、投資の一覧表を見つめる。一つ一つの投資額はそれほど大きくないのに、数があまりにも多すぎる。


(少額に見えるけど、この規模は明らかに異常だわ)


 彼女は軽く頭を振った。


「無理もないさ。でも、これは間違いなく君のものだ。これからは君が管理することになる。分からないことは、何でも聞いてくれていい」

「ええ? こんなにたくさんあるのよ? 管理なんて無理よ」


 ヴィクトリアの声は、もはや半分叫びのようだった。


「焦ることはないよ。日々の暮らしに困るようなことはないし、基本的には資産が勝手に増えていく構造になっている。無茶な使い方をしなければ、それこそ一生分、困らない」

「そうかもしれないけど、でも、ずっと遺産に頼って生きていくなんて、どうかと思うわ」


 エルミナの想いが込められたこの財産。母を亡くしたヴィクトリアにとっては、ありがたさと同時に、同じことを求められているという重圧を感じさせた。


「ノートの後半に目を通すといい。エルミナが、次に目をつけていた分野だ」


 クラレンスの言葉に、ヴィクトリアはパラパラとページをめくっていく。途中でクラレンスが指を差して止めた。

 そのページには「画家」と書かれている。


「……画家に投資?」

「パトロンとして、次世代の芸術家に投資を考えていたようだな」

「ふうん」


 その言葉にふと、道具屋で出会ったあの男性の姿が脳裏に浮かんだ。

 少しくたびれた服装に、不思議な雰囲気。銀髪の、どこか目を離せない画家。道具屋にまで描いた絵を売りに来ていたのなら、間違いなく生活に困っているのだろう。


「ねえ、パトロンって何をするの?」

「簡単に言えば、経済援助。それから作品の注文・買い上げや人脈の提供だな」


 確かにそれだけあれば、画家は生活に困ることはないだろう。結果は、もしかしたこちらのアプローチ次第か。


「――ここから選べば、大きく外れることはない?」

「たぶんね。全員に会ってから決めてもいい」

「それは、まだちょっと勇気がないわ。この一番上の人にする」


 ヴィクトリアは一覧表の最上段を指差した。クラレンスは頷き、立ち上がる。


「じゃあ、手続きを進めよう」

「お願いね」


 ただ指を置いただけなのに、胸の奥にどっと疲れが押し寄せてきた。けれどその重さは、不安だけではなく、確かな一歩を踏み出した実感でもあった。



 緊張で、心臓がやけに速い。

 パトロンになると決めて数日後。ヴィクトリアは街角の小さなカフェ、その奥まった位置にある個室にいた。クラレンスが手配した場所は、平民でも気軽に立ち寄れる親しみやすい雰囲気で、石畳の通りに面した窓からは人々の賑わいがかすかに伝わってくる。値段も手ごろで、木目調の家具と香ばしい焼き菓子の匂いに、心がほっとする――はずだった。

 だが今のヴィクトリアに、そんな余裕はない。


(うう、緊張する。パトロンって、どんな話をすればいいの? 気の利いたことなんて思いつかない)


 待つあいだ、胃のあたりがじくじくと痛み始めていた。用意された紅茶にも手をつけられず、ただ背筋を正して座っている。

 そしてついに、扉が静かに開いた。


「待たせた」


 クラレンスの低い声に、ヴィクトリアはぱっと顔を上げる。彼の背後には、もうひとり人影が――思わず立ち上がった。


「えっ……」


 その人物を見て、ヴィクトリアの目が見開かれる。

 くたびれたフロックコートに、細身の体。整った顔立ちと、どこか人を遠ざけるような静かな気配。だが、何より目を引いたのは――。


「そのリボン」


 彼の長めの銀髪は淡い緑のリボンで緩く結ばれていた。そこには、銀糸で小さな花の刺繍。


「ああ、君か。道具屋で会ったよね」


 彼も思い出したのか、穏やかに微笑む。


「おや、知り合いか?」


 クラレンスが不思議そうに問いかける。


「伯父様、道具屋の前で絵をくれた方よ」

「ああ、そう言えば、そんなこともあったな」


 クラレンスも思い出したように軽く頷く。


「ヴィクトリア、彼がジュリアン。知っての通り、画家だ」

「はじめまして。ヴィクトリア・ロンドリックよ」


 名乗ると、ジュリアンは静かに頭を下げた。


「はじめまして、ロンドリック男爵令嬢」


 形式的な挨拶のあと、三人は席に腰を下ろす。ジュリアンは物怖じすることなく、真正面からヴィクトリアを見つめた。


「驚いたな。パトロンが君のような若い女性だったとは」

「ええ、私もなるなんて思っていなかったわ」


 正直に答えると、ジュリアンは楽しげに目を細めた。


「でも、嬉しいよ。君なら無理なことは言わなそうだ」

「無理なこと? 例えば?」


 パトロンの役割についてクラレンスから一通り聞いていたはずだが、意味がわからない。


(もしかして、納期とか、もっと綺麗に描けとか? 無茶な注文をする人がいるのかしら)


 首をかしげるヴィクトリアに、クラレンスが咳払いした。


「あー……つまりだな。男女の仲を強要してくるご婦人もいるってことだ」

「えっ!?」


 衝撃に目を見開き、思わず声が裏返る。


「マダム・モリーの名前で君は動いてるからな。ジュリアンが勘違いしても無理はない」

「え、そ、そんなこと絶対にしないから!」


 顔を真っ赤にし、うろたえながらも、必死で否定する。ジュリアンはくすりと笑った。


「うん、大丈夫。その反応で安心したよ。でもロンドリック男爵令嬢は、パトロンという言葉の意味を、ちゃんとは知らないみたいだね」


 その様子に、ヴィクトリアはぱちぱちと瞬く。


「ええ、そのつもりだけど。何か問題があるの?」

「……これは言ってもいいのかな?」


 ジュリアンが困ったようにクラレンスを見ると、彼は肩をすくめた。


「もちろんだ。本人がパトロンになりたいと言ってるんだ。隠すことはないさ」

「何か、まずいことがまだあるの?」

「まずい、というより」


 ジュリアンは言葉を選ぶように少し間を置く。


「僕が勘違いしたように、君も誤解される側になる、ということ」

「……?」


 奥歯に何か挟まったような言い回しに、首を傾げる。


「うーん、心配になるな。貴族のご婦人が画家のパトロンになる――それはつまり、愛人を持つと同義なんだよ」

「はあっ――!?」


 あまりのことに、ヴィクトリアは思わずひっくり返りそうな声を上げた。


「やっぱり理解していなかったな」


 クラレンスが仕方がないと言わんばかりに呟いた。そんな伯父に、思わず噛みつく。


「そんな誤解されることなのに、お母様はどうしてパトロンをしようと思っていたの!?」

「そりゃあ、純粋に応援するつもりでいたからさ」

「え、でも、今、ジュリアンは……え? え?」

 

 よくわからなくて、言葉が出てこない。クラレンスがため息をついた。


「落ち着け。細かいところは、後で教える。今は、ジュリアンに集中しろ」

「はっ! そうだった」


 舞い上がった気持ちを大きく息を吸って落ち着かせる。そして、改めてジュリアンを真正面から見た。


「えっと、もし私で不満でなければパトロンになりたいと思っています。条件は伯父様……クラレンスから聞いていると思いますが、生活全般と、それから画材費用、あとは売り込みです」

「売り込み? 君が?」

「流石にそれは無理なので、クラレンスが担当します」


 ジュリアンは納得したのか小さく頷いた。


「うん、問題ないよ。これからよろしく」


 ふわりと柔らかく微笑まれて、思わずヴィクトリアの心臓はドクンと跳ねた。


(彼のこの笑顔、絶対に勘違いする女性を量産している……! トラブルに巻き込まれる未来しか思い浮かばない!)


 まだ社交界に出ていないヴィクトリアは本当に彼のパトロンをしてよかったのかと、ちらりと頭の片隅に浮かんだ。

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