2.母のいない生活
母の姿がもうどこにもない客間で、ヴィクトリアは遺されたノートをそっと広げている。ノートに目を落とせば、表紙には丁寧な筆致で『生存戦略ノート』と記されていた。
ヴィクトリアはため息交じりに、ページをめくっていった。
「……お母様、もう本当にいないのね」
声に出してみても、どこか他人事のよう。でも、胸の奥がじくじくと痛むのを止められなかった。
ページに並ぶのは、懐かしい母の筆跡。少し丸みを帯びた、優しい文字。
母の温もりを探すように読み進めていく。そこには、様々な生きるための情報が書かれていた。病弱で、ふんわりした空気をまとっていたエルミナからは想像もつかないような、お金に関する話。しかも、どう投資したら儲かるのか、どのように選んだのか。そんな投資に関するノウハウが書かれていた。
「これ、本当にお母様が書いたの?」
お金と、何処か浮世離れしたような雰囲気を持つエルミナが結びつかず、困惑しかない。そのとき、コンコンとノックの音が響いた。
「ヴィクトリア、起きているかい?」
「どうぞ」
静かに扉が開き、クラレンスが顔を覗かせる。帰宅後も何かと忙しそうだったが、ようやく一段落したのだろう。
「明日でもよかったんだけどね。手続きが全部終わったって、伝えておこうと思って」
「もう?」
思わず目を見開く。
「もともと、君がロンドリック男爵家を継ぐように準備はしていたから。エルミナからも、亡くなったらすぐに頼むって、言われていたんだ」
まるで当然のことのように言う伯父に、ヴィクトリアは申し訳なさそうな顔をした。
「でも、本当に私でいいのかしら……?」
クラレンスには息子と娘がいる。今は国外で暮らしているとはいえ、自分がここを継ぐのはおかしとしか思えなかった。
「ん? エルミナから何も聞いていないのかい?」
クラレンスは不思議そうに首を傾げる。
「え? 何を?」
「この男爵位は、エルミナが子爵家に嫁いだからこそ与えられたものなんだ。つまり、最初から彼女の子に継がせる前提だった。だから、僕は中継ぎなんだ」
「それは初耳なんだけど……」
呑み込めずに、呆気にとられた。知らないことが多すぎて、今さらながら、母にもっと聞いておけばよかったと思ってしまう。
クラレンスは小さくため息をつきながら向かいの椅子に腰を下ろした。
「まったくあいつは。ちょっと話そうか」
「ええ、お願い」
ヴィクトリアは真面目な顔をして頷いた。
「うちの家系は、聖国の神官の一族だ。この国の人間じゃないんだよ」
聖国の神官一族と聞いて、呆気にとられた。聖国は小さいながらも、影響力の大きな国だ。国王が国王であるためには聖国の承認が必要となる。その凄い国の一族だと聞いて、受け入れきれない。
「……お父さまと結婚したのは政略じゃないの?」
「違う。エルミナの一目惚れだ」
(嘘でしょう? お父様に一目惚れする要素って、まったくないんだけど)
先日、初めて会った子爵を思い出して、首を傾げた。少なくとも、今の彼に惹かれる要素はどこにもない。第一夫人を制御できない気弱な人という印象だ。
母の気持ちは考えてもきっとわからない、とヴィクトリアはそれ以上考えるのをやめた。
「つまり、君には聖国の神官にも、男爵家当主にも、なれる。そういうことさ」
「信じられないわ。なんにでもなれるのに、お母様はどうしてひっそりと暮らしてきたの?」
ヴィクトリアは今までの生活と、自分の血筋が上手く整理できず、眉間にしわを寄せる。
「はあ……まったく、あいつめ。ちゃんと説明していないとは」
「お金の稼ぎ方はちゃんとノートがあるわ」
「やっぱり金か。あいつは、神官になるのが嫌でこの国に飛び出したからな。そこで出会ったのがハリントン子爵だ」
「そうなの?」
思わぬ両親のロマンスに、目を丸くした。そういう事情なら、何かしらのときめく要素があったのかもしれない。
「聖国の神官一族は、他国では王族と同等だ。だから、エルミナがこちらに嫁いできたときに、この国は男爵位を与えたんだ」
「お母様がこの国に来ただけで?」
「神官一族はほとんど他国に出ないからね。一人、国にいてもらうだけでも、扱いが違うんだ。そうだ、もっと高い爵位にしようか? 欲しければ、今すぐにでも手続するけど?」
ちょっと意地の悪い笑みを見せて、聞いてくる。
「いらない。私も自由に生きたい」
即答だった。クラレンスは笑いながら頷いた。
「だと思った。でもまあ、もし必要になったら言ってくれ。身分なんて、後からどうにでもなる」
「そんなに簡単なことじゃないのに……」
あきれたように言いながらも、ヴィクトリアはほんの少しだけ笑った。何もかも急すぎて、頭が追いついていないのは確かだ。けれど。
(お母様、私のためにいくつもの道を準備してくれたのね)
ちょっと――だいぶ、ずれているけど、娘のために用意してくれていたのは間違いない。母の愛を感じて、胸の奥が温かくなる。
でもその温もりに触れようとするたび、手のひらからすり抜けてしまうようで――少しだけ、涙がにじんだ。
◆
母を失った悲しみに浸っている時間もなく、ヴィクトリアは忙しく過ごしていた。エルミナの遺産を引き継ぐ手続きや、それから何よりも学園が始まる。
この国では、貴族は学園に通う義務がある。十六歳になる年齢から十八歳までの三年間だ。ヴィクトリアはあと二か月で、入学だ。
「い、忙しい……」
目が回りそうなほどの忙しさ。エルミナが娘のために残したものが多く、その引継ぎをしながら入学の準備をするのは想像以上に大変だった。
「でも、まだましなのよね」
エルミナがヴィクトリアに施していた教育は最上級のもので、学園程度ならすでに身についていた。第一夫人のこともあって、エルミナは社交をほとんどしていない。本人の仕事はしていたが、子爵家としての務めはなかった。だから、エルミナがヴィクトリアに教育する暇があったのだ。
ようやく屋敷に戻ってきたヴィクトリアは体をソファに預けた。お茶でも、と考えているうちに、クラレンスがサロンに顔をのぞかせる。
「お、ここにいたのか。じゃあ、出かけるぞ」
「今、外出から戻ってきたばかりなのに」
「もう少し頑張れ」
「ええ……どこに行くの?」
もう疲れていて動きたくないヴィクトリアは嫌そうな顔をする。クラレンスは困ったような顔をする。
「どこに、って。今日は防御の魔道具を見に行くと言っておいたじゃないか」
「……そうだった」
学園では護衛が付かないため、防御の魔道具だけは持つことが許されていた。もっとも、ロンドリック男爵家の娘になったヴィクトリアには護衛すらもいないのだが。何かあった時にはやはり持っている方が安心感がある。重い体を叱咤して、立ち上がった。
「忙しいのも今だけだ。学園に入ったら、青春を謳歌すればいい」
そんな簡単な話ではないのでは、とつい恨めしい目で見てしまう。
「すでに、子爵家を出てしまっているんだから、学園に拘らなくても」
「必要な時が来るかもしれないだろう? 卒業証書はあっても邪魔にならないさ」
そう言われると思っていた。だけど、不満が顔に出てしまう。
「はは、不満なら、スキップ制度を使えばいい」
「スキップ制度?」
「そう。卒業試験を受けて合格すれば、即卒業だ。エルミナのことだ、十分に教育しているはずだ」
クラレンスに言われて、考え込む。
「さて、出かけるぞ」
クラレンスに促されて、ヴィクトリアはなんとか立ち上がった。
からからと音を立てて、馬車が進む。行先は街の中心部から少し離れた道具屋だ。
魔法使いにまで成れる人は少ないが、魔道具を使うことは誰にでもできる。ヴィクトリアは自分の魔力がどの程度あるのかはまだ調べていなかった。ごく普通に令嬢として生きたので、必要としなかったのだ。
さりげなく、そのことをクラレンスに話せば、彼は小さく頷いた。
「必要としなかったというよりも、エルミナがそこまで考えていなかったんだろう。神聖力なら調べようと思うかもしれないけど」
「……お母様がふんわりしているのは、神官家系で育ったからかしら?」
子爵家本邸で過ごしていたらまた違っていたかもしれないが、別邸の護られた範囲でヴィクトリアは暮らしてきた。エルミナしか知らないが、今までの経緯を知ると自分に常識があるのか不安になる。
「そうだね。ヴィクトリアは学園生活を楽しむんだよ」
「伯父様はそればかりね。学園って、そんなにいいものなの?」
「大抵の人にとっていい思い出の場所になるんじゃないかな? それに、小さな社交界だからね。同世代と交流することは悪くない」
一応、ロンドリック男爵家を継ぐことになっていても、領地も何もない。あるのは、商会ぐらいだ。『生存戦略ノート』に書いてある投資の仕方などは、さっと目を通したが、それぐらいしかまだしていない。
「お母様も学園に行くように言っていたから行くけど……お母様の残した財産についても、まだ理解しきれていないのに」
「焦らず、ゆっくりと引き継げばいい。僕はしばらく君の補助をするしね」
クラレンスは気持ちが落ち着いてからでいいと、ヴィクトリアに告げた。まだ、エルミナを失って間がない。その上、学園の準備と忙しいことを心配した彼の配慮だった。
「うん、ありがとう」
一区切りついたところで、馬車が静かに止まった。
「着いたようだな」
クラレンスは先に下りると、ヴィクトリアに手を差し出す。彼女はその手を取って、馬車から降りた。
「ありがとう」
お礼を言って、彼にエスコートされて歩き始める。物珍しそうにあたりを見回していれば、少し離れたところを歩く一人の男性がいた。ひょろりとした長身で、大きな帽子をかぶっている。くたびれた服を着ていたが、後ろ姿がとても目を引く。
(どうしてこんなに目が離せないんだろう。……長い銀髪が珍しいから? それだけじゃない気がする)
自分自身でも何故気になるのかが不思議で、目が逸らせない。そうしているうちに、男性が何かを落とした。
「あっ」
彼は気づかないようで、そのまま歩いていく。
「伯父様、ちょっと待っていて」
ヴィクトリアは慌てて男の方へと向かった。そして、落ちた紙を拾い上げて、声をかける。
「落とし物をしましたよ」
「え?」
心持ち大きな声で呼び止めると、男は驚いたように振り返った。大きな帽子が影になっていて、形の良い唇だけが見えた。彼の顔が見えずに、がっかりする。
(がっかりだなんて……何を考えているのよ)
男はヴィクトリアの持っている紙を見てから、自分のスケッチブックを広げた。
「ああ、すまない。上手く挟めていなかったみたいだ」
ヴィクトリアは広げたスケッチブックの絵を見て、目を見開いた。とても素敵な風景画だった。淡い色合いだが、滲むような温かさがある。
「素敵……」
「褒められるほどの物じゃないよ。道具屋に持ち込んだけど、売れなくてね」
褒め言葉を素直に受け止められないのか、そんなことを言う。
「道具屋? 絵を売るのに?」
「うん。あの道具屋、偏屈らしいんだけど、何でも一度は見るって有名なんだ。まあ……僕の絵はどれもお眼鏡にかなわなかったけどね」
そう言って肩をすくめる。ヴィクトリアは自分が拾った紙に目を落とした。そこにもスケッチされていて、とても素敵だった。
「私はとても素敵だと思うわ。温かさがあって、胸がポカポカしたの。はい、これ」
ヴィクトリアは自分の感想を添えて、拾った紙を差し出した。男はしばらくそれを見下ろしていたが、やがて笑みを見せる。目が髪で隠れていて表情がはっきりとしないが、とても嬉しそうに見えた。
「気に入ったのなら、君に上げるよ」
「え? でも……」
「あの道具屋が買ってくれなければ、誰も買う人がいないからね。拾ってくれたお礼」
その言い方がおかしくて、ヴィクトリアは笑った。
「拾ったものをお礼にもらうなんて……本当にいいの?」
「もちろんだ」
「……それじゃあ、私はこれを」
ヴィクトリアは一瞬だけ迷ったが、そっと髪をほどくと、リボンを外した。銀糸で小さな花の刺繍が施されている、上質な布でできた緑のリボンだ。ヴィクトリアのお気に入りのひとつ。
彼は不思議そうにリボンを見下ろした。
「それを? いいのか?」
「ええ。たいしたものじゃないけど……この絵のお礼よ」
しばし無言のままリボンを見つめていた彼は、やがてふっと微笑んだ。
「そう。ありがとう」
彼はそう言って、リボンを受け取った。先ほどとは違い、嬉しそうだ。
ヴィクトリアは満足そうに頷く。彼はリボンを指に絡めながら、ゆっくりと背を向けた。
その後姿を見送ってから、クラレンスの側に戻った。
「伯父様、お待たせ」
「それ、貰ったのかい?」
「ええ。売れなかったんですって」
クラレンスは小さく頷くと、じっと絵を見つめた。ヴィクトリアはそんな彼を促した。
「さっさと用事を済ませて、早く帰りたいわ」
「そうだね」
二人は目的の物を手に入れるために、道具屋へと入っていった。




