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1.プロローグ

 母、エルミナが亡くなった。


 眠るような穏やかな顔。棺の中に、ピンクのガーベラをそっと置く。

 母の髪――華やかなピンクブロンドは、いつもよりくすんで見えた。でも、まだ温もりが残っている気がして、しばらくすればあの美しい緑の瞳を見せてくれるのではないかと、じっと見つめる。だけど、いつまでたっても、瞼は閉じたまま。


「お母様……」


 頬を一粒の涙が伝う。ヴィクトリアにとって、エルミナは良き母だった。ハリントン子爵家に第二夫人として嫁ぎ、正妻の嫉妬にさらされながらも、娘をしっかり守り育ててくれた。別邸を勝ち取り、母娘二人で十五年の歳月を共に過ごしてきた。


(お母様は、さっさと離縁してしまえばよかったのに)


 その言葉が喉まで出かけたが、ヴィクトリアは唇を噛みしめて飲み込む。わだかまりは消えない。今はただ、静かに母を見送るしかなかった。

 彼女の隣で、母の兄クラレンス・ロンドリックが静かに祈りを捧げている。赤みを帯びた金髪に白が混じるその姿には、母と同じ血を感じた。

 そして――母の夫、つまり父はとうとう現れなかった。


(お母様が亡くなっても……お父様はやっぱり来ないのね)


 胸に氷のような冷たさが広がる。父の顔を一度も見たことがない。ただ、ハリントン子爵であるという事実だけが、彼を知る全てだった。

 神父の祈りが終わり、棺が埋められていく。ヴィクトリアは立ち尽くし、ただ見つめた。

 そんな肩に、そっと手が置かれた。顔を上げると、クラレンスの緑の瞳が悲しみに潤んでいた。


「ヴィクトリア、うちに来ないか?」


 それは、ハリントン子爵家を離れるという意味だった。


(それも悪くないかもしれない)


 ヴィクトリアは本邸に一度も足を踏み入れたことがない。第一夫人の機嫌を気にしながら、目立たないように生きてきた。母がいないのだ、子爵家からは距離をおきたい。


「……迷惑じゃない?」

「心配いらない。僕は独身だし」

「じゃあ、お世話になる」


 ロンドリック男爵家は領地こそないが、商会を営み裕福だ。今は少しだけ甘えようと、ヴィクトリアは頷いた。


 葬儀のあと、別邸に戻った。古びたが手入れの行き届いた石造りの別邸は小ぢんまりしていて、母とヴィクトリアが暮らすには十分な大きさだった。

 門の前にはハリントン子爵家の紋章入りの馬車が停まっていた。ヴィクトリアは眉をひそめる。


「今さら、何の用かしら」

「本邸まで出向かずに済んだと思えばいい」


 門前で待っていたのは、四十代の男性。茶色の目立たない髪、澄んだ青い目。


(目の色が私と同じ。お父様だわ、たぶん)


 意外にも心は静かで、見知らぬ他人を見るように挨拶した。


「はじめまして。お父様」

「エルミナに、よく似ている」


 父は泣き出しそうな顔で呟いた。


(気が弱そう。よく、第二夫人なんて娶ったものね)


 さり気なくヴィクトリアを守るように、クラレンスが背後に立つ。


「お久しぶりです、ハリントン子爵」

「ああ、クラレンスか」

「約束通り、ヴィクトリアを我が家に連れて行きます。いいですね?」


 ハリントン子爵は顔色を曇らせ視線を落とした。だが、反論はしなかった。ヴィクトリアはそれを見て、心の中でほっとする。

 その時、馬車の扉が開いた。降りてきたのは、けばけばしい赤のドレスを着た夫人。栗色の髪に羽の飾り、太めの金のネックレスが悪目立ちする。


「あなた、早く用を済ませてしまいましょう」

「お父様! 私も何か欲しいわ!」


 夫人と同じ顔の少女――茶色の髪、琥珀色の目をした異母妹も続いた。場も考えず明るいピンクのドレスを着ている。


 クラレンスが目を細めた。そして、子爵に目を向ける。


「どうやら時間はないようだ。どうぞ、お帰りを」

「まあ、何を言っているの。この別邸はハリントン子爵家のもの。使っていた女が亡くなったのだから、ここにある物は私たちのものだわ」


 形見目当てと気が付き、ヴィクトリアは体が震える。怒りと同時に、あきれが込み上げる。


「葬儀が終わった直後に来るとは……ハリントン子爵夫人はよほど切羽詰まっておられるようだ。ヴィクトリア、エルミナの宝石を少し譲ってあげようじゃないか」


 クラレンスの声に、ヴィクトリアは苦笑した。嫌味の意味が分かったのか、夫人の表情が強張る。


「そうですね。生前、お母様が気に入って、お知り合いと会う時にはいつも身に着けていたネックレスがいいかもしれません」


 はっきりと誰の持ち主かわかる遺品がいいと言ってみれば、夫人は顔をひきつらせた。


「ふ、ふん。そんな縁起の悪いものはいらないわ。アデラ、馬車に戻りなさい」

「え? お母様、今来たばかり……」


 二人してエルミナの宝飾品を漁る気でいたのだろう。だが、出鼻をくじかれてそそくさと馬車に乗って戻っていった。


「何をしに来たのよ、本当に」


 思わず零れた言葉に、ハリントン子爵は顔色を悪くして、頭を下げた。


「すまない。あの二人は置いてくるつもりだったんだが……」

「いいえ。気にしていません」

「ヴィクトリア」


 切なそうに名前を呼ばて、彼を見る。


「エルミナの希望だ。君をクラレンスに預けるよ。だが、私は君の父親だ。何かあったら頼ってほしい」

「わかりました」


 今まで一度も会話をしたことはなかったが、こうして優しい言葉をかけてくれる。もしかしたら、知らないところで守ってくれていたのかもしれない。

 そんなことを思いながら、頷いた。

 こうして、ヴィクトリアは、ハリントン子爵家を去ることになった。


 部屋に戻り、荷物をまとめる。そして、引き出しの奥からノートを取り出した。

 母が亡くなる直前に渡してくれたもの――『生存戦略ノート』。

 あの時は深く考えず受け取っただけだった。今は少し、後悔がよぎる。


「お母様、子爵家からは出ることにしたわ」


 目を閉じれば、母の声が脳裏によみがえる。

 ――幸せになるのよ。世界は広いのだから。

 ヴィクトリアは扉の前で足を止める。


「世界が広いなら、お母様こそ逃げればよかったのに。私、うまく幸せになってみせるわ」


 決意を告げるように呟くと、荷物を持って部屋を後にした。

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