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理想の仮面

 部屋の照明を少し落とし、ベッドに背を預けて天井を仰ぐ。この時間がいつも一番“僕”を思い出す時間だ。

 

 学校では完璧でいなければいけない。家では御令息として少しの隙も見せないように育てられた。

 演じることはもう癖のようなものだ。誰にでも優しく、穏やかに。どんな場面でも期待を裏切らないように。


 完璧でいろ。

 皆の理想であれ。

 期待を裏切るな。

 九条家の名に恥じないように。


 それはずっと背負ってきたものだった。

 息苦しいと感じたことは何度もある。だけど、それが自分の価値だとも思っていた。


 そうしなければ誰かに失望される気がして。

 そうしなければ僕は何者でもない気がして。


 だから崩してはいけない。理想の仮面を外すことは怖い。


 ――なのに、最近。


 糸瀬さんといるとその仮面の縁がじわじわと緩んでいく。


 最初は偶然だった。

 図書室で目にして、自販機でばったり会って、傘を差し出して……そのすべてが、偶然の連続だった。


 でも、それが重なるにつれて、僕は彼女の存在を偶然で片付けられなくなっている。


 彼女は物静かで、どちらかといえば目立たない生徒だ。だが、その分よく見ている。話をちゃんと聞いて、言葉を受け止めてくれる。


 それが、少し怖い。


 僕が優しい言葉をかけたとき、彼女は遠慮がちに微笑んだ。冗談を言えば驚いた顔をしてからふっと笑う。


 それがあまりに自然で。……気を張るということを僕はいつの間にか忘れていたのかもしれない。

 彼女の前では無意識に気が抜けてしまう。言ってはいけないはずの本音が、ぽろっとこぼれてしまう。


 例えば――「僕も、こういうのは慣れていないので」なんて。


 どうして言ってしまったんだろう。誰にも見せないようにしていた顔を、気づけば彼女の前で晒していた。


 これは良くない兆候だ。

 理想を演じることは僕の役割であり、生き方だ。

 それを崩せば、誰かを裏切ることになる。家の名も、僕を信じてくれる人たちも。


 でも……彼女といると、少しだけ息がしやすくなる。演じている仮面の留め具が緩まってしまう。


 だからこそ、彼女が僕の仮面の奥に気づいてしまうのではないかという不安がある。

 そして、仮面の向こうの僕を彼女が受け入れてくれるかどうかなんて……分からない。


「……糸瀬さんは、僕にとって……なんなんだろうね」


 思わず漏れた言葉に、自分でも苦笑する。


 ”好き”とは言えない。だが、“特別”だとは確かに思う。春先、図書室で君の姿を見たときから。

 その微妙な感情が今の僕をいちばん揺らしていた。

 

「………ああ、駄目だ。考えすぎるのはやめよ」


 頭がパンクする。これ以上思考を回していると頭痛さえしてきそうになる。

 静かな夜の空気に沈み込みながら、目を閉じて深く息を吐いた。


 目を閉じ、眠りにつこうとしたそのとき――。


「私の愛しの弟の寝顔を拝見しにきたよ~」


「……は?」


 ドアが唐突に開いた。

 何の予告もなく、当たり前のように入ってきたのは見慣れた黒髪をふわりと結い上げた、部屋着姿の姉。


「あら、起きてたの?ちょっと夜の息抜きに弟の顔でも見ようと思ってきたのに。……なに?なんか難しい顔してた?」


「……いや、姉さん。なんで人の部屋に当然の顔で入ってくるの」


「だって響希、最近ちょっと様子変じゃない?ぼーっとしてること多いし、伊織ちゃんからも妙に静かだったって報告きてたし」


「報告制度やめて……」


「で、誰のこと考えてたの?……糸瀬さんとか?」


「っ……! ……っげほっ……!」


 言い当てられて思わず咳き込んだ。

 なんで姉さんってこういう勘、異様に鋭いんだろう。おまけに臆面もなく言ってくるから質が悪い。


「図星?」


「……違います」


「嘘つくと眉がぴくってなるの、昔から直ってないよ?」


「……監視しすぎじゃない?」


 姉はどこか愉快そうに笑って、僕の部屋のベッドの端に勝手に腰を下ろした。

 まるで自分の部屋かのようにくつろぎながら、枕に肘を立てて僕の方を見る。


「ま、いいんじゃない?人を好きになるって、人生における立派なイベントだし」


「別にそういうのじゃないよ」


「ふうん?じゃあ“特別”なだけ?」


「…………………」


「うわ、黙った。かわいいかよ」


「やめて。ほんとにやめて」


 僕が顔を伏せると、姉はくくっと喉を鳴らして笑った。

 この人はこういうデリカシーのなさというか、良くも悪くも自由なところがある。まあそれも僕限定だけど。だから僕の仮面もあっさり貫通してくるのだ。


「……でも、響希」 


 少しだけ、真面目な声になった。


「演じるの疲れたらやめてもいいんだよ? 誰か一人でもそれを受け止めてくれる人がいればね」


「……」


「ま、私は姉だから。弟の仮面なんてとっくに見破ってるし、何があっても響希の味方だけどさ。……それでも、その仮面を脱がせる相手がちゃんと現れてくれるといいよね」


「……何その急にしんみりした流れ。さっきまでかわいいかよとか言ってたくせに」


「それはそれ、これはこれ♪」


 そう言って、姉さんはベッドの中に潜り込んでくる。そして僕の手を握り、一言。


「じゃ、弟成分補給しまーす。……何かあったら、すぐ報告してね?響希を泣かせるようなことがあったら、即取り締まるから」


「……いや、何その謎の家族内警察……」


「良いでしょ?防犯レベルは最大だよ」


 手を握りこむ力が強くなる。人肌の暖かさが心地よいと感じる。姉さんは僕の隣で何も言わずに、ただそっと手を包んでくれていた。

 強くもない、弱くもない。だけど、確かにそこにいると分かる温度。


「……姉さん」


「なに?」


「……もしさ、仮面を外した僕が全然かっこよくなかったらどうする?」


 不意に口から出た問いに、姉は一瞬だけ黙り込んだ。

 それから少しだけ体を起こし、僕の額におでこをくっつけて言う。


「うーん、そうだね。じゃあ…………」


 耳元でいたずらっぽく囁く。


「そのときは、私が貰って養ってあげるよ」


「……は?」


 その表情は蠱惑的で、思わず言葉が詰まった。


「ん~?良いじゃん。私優秀だよ?将来有望株だよ?」


「まあ、それは……………いやまず、僕たち姉弟なんですけど」


「それはそうだけどさ。というか響希が自信なくす姿なんて、ちょっと想像できないけど。……でも、もしそうなっても私が味方だからって話」


 その言葉に息が漏れた。呆れ半分、安心半分。肩の力が抜けて、クスッと笑ってしまった。


「……姉さんってずるいね」


「ずるくて優秀で最高なお姉ちゃんですから!」


「そういうのは自分で言わないものなんだよ。その自信、少し分けて欲しいくらいだけど」


「だーめ。これは私の特権だから」


 そう言って姉さんは笑い、僕の頭に手を置く。


「じゃ、そろそろ寝まーす。おやすみ響希。変な夢見たら、明日の朝また聞かせてね」


「……そんな報告いらないでしょ」


「いるよ。可愛い弟の記録は毎日ちゃんと更新しておかないと」


 先ほどまで渦巻いていた思考のざわめきが、今はほんの少しだけ静まっている気がした。

 僕が仮面を脱いでも、こうして隣にいてくれる人がいる。それだけで少しだけ救われる気がした。


 明日はいつも通りの仮面をつけて学校へ行く。

 でも、その仮面の内側には今日の姉の声とぬくもりがちゃんと残っている。


「明日も頑張ろっ」


 姉の存在。それは僕の支柱でとても大きい。

 もし――その支えとは違う誰かの前でもほんの少しだけ仮面を外せたなら。

 そんなことを思った自分に、少しだけ驚いた。


「というか何勝手に一緒に寝ようとしてんだこの姉は!」


「え?え?だって空いてるじゃんここ」


「僕のベッドだよ!!」


「あ~あ、怒った顔もかわいい……はい、今日の記録っと」


「記録ってなに!?やめて、ほんとやめて」


 どっと疲れが押し寄せてくる。だが、さっきまでの苦しさよりはずっとマシだった。

 騒がしくて、めんどくさくて、でも……こんな夜も悪くない。そう思える程度には心が少しだけ楽になっていた。


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