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理想の従者

 夕日が射す放課後の中庭。風に揺れる木々の向こうから、かすかに高鳴る声が届く。


「九条さんのことが、ずっと好きでした!」


 またか。

 何人目だろう。美しく、真っ直ぐな目をして告白する女子生徒。

 その言葉が響いた瞬間、私は木陰のさらに奥――生け垣の向こうに身を潜めた。


 従者としての行動と言えば聞こえはいい。だが、今この場所にいるのは職務ではなく、もっと個人的で情けない理由からだった。

 私は見てしまいたかった。聞いてしまいたかった。


 女子生徒は緊張しながら、でも精一杯の想いを込めて告白していた。

 よく通る声。素直で、真っ直ぐで。彼に相応しい、そう思わせるものがあった。


 そして、彼は。


「申し訳ありません。今は勉学の方に集中したくて……」


 柔らかな断り。優しい拒絶。

 それは告白した彼女を傷つけないためのものでありながら、同時に誰の心も完全には受け入れないという宣言だった。


 私は息を飲んだ。そう、彼はいつも完璧だ。

 ……………だけど。


「(……どうして、あんな顔をするんですか)」


 断るという行為に、どうしてそこまで心を砕くのか。

 どれだけ優しくあろうとしても、拒まれた側は傷つく。それは不可避だ。


 なのに響希様は、いつも心をすり減らすように優しさを演じてしまう。


 私はその姿が悔しかった。

 そして、その優しさを向けられる彼女が羨ましかった。


「(響希様。どうか、誰かの理想じゃなく、貴方自身でいてください)」


 そう願っても、私はその言葉を口にすることはできない。





 西日が廊下の床を橙色に染めていた。空気は静かで、風の通り抜ける音だけが耳に残る。


 その静けさの中で、私はそっと柱の影から二人の姿を見つめていた。

 響希様と早乙女樹――クラスでも控えめな男子生徒が、肩を落としながら話している。


「……俺、自信ないんだよ。付き合っても、絶対にうまくいかない気がして……」


 早乙女の声音には本気の悩みが滲んでいた。

 そして、それを受け止めるように響希様は静かに笑ってみせた。


「ただ、ちゃんと相手のことを見て、自分の気持ちに嘘をつかないようにする。それが一番大事だと思う」


 その言葉に、早乙女は深く頷いた。

 私は黙ってそれを見つめる。だが、胸の奥は波打っていた。


「(……誰にでも、そういう顔をするんですね)」


 優しくて、穏やかで。それでいて、どこか達観していて。

 だからこそ、誰もが彼を信じる。頼る。そして惹かれる。


 でも、その優しさの代償として彼が一人でどれほどの疲れを抱えているのか、彼らには分からない。

 きっと気づかれもしない。


「(なら、私は。誰よりも彼の疲れに、先に気づきたい)」


 それが従者としての務めであると同時に。

 何よりも、誰よりも近くにいたいという私のエゴだった。





 お昼、校舎裏の自販機前。空気は穏やかで、生徒たちもまばらな時間帯。

 私は階段の上から、何気なく――いや、確信的に視線を落とした。


 そこにいたのは、響希様と糸瀬夏芽。

 静かな雰囲気の女の子で、あまり目立つタイプではない。


 だが今、その彼女に向けて響希様が笑っている。

 それも、教室での理想の姿とは少し違う……柔らかく、少し素のにじんだ微笑だった。


 胸がちくりと痛んだ。


「(……どうして。どうしてその顔を彼女に…………)」


 私は日常の全てを彼に捧げているつもりだった。

 食事の準備も、身の回りの世話も、全て。


 それなのに。

 そんな風に自然に、肩の力を抜いた顔をして――他の誰かと、話している。


 嫉妬。焦り。でも、そんな感情を剥き出しにしてしまえば、私はただの女になる。


「(私は、従者………)」


 自分にそう言い聞かせても、指先は微かに震えていた。





 夜更け。リビングの照明は落とされ、カーテンの隙間から街灯の明かりが微かに差し込む。

 私は静かにグラスを置き、窓辺に立って暗がりに沈む庭を眺めていた。


 響希様は、今日も誰かに告白されていた。

 相変わらずだ。整った顔立ち、淀みない言葉、柔らかな所作。そのすべてが理想を体現している。


 ……でも。


 私は知っている。その瞳の奥にある、疲れと虚無を。響希様は演じている。誰かの理想、誰かの期待、家の名に恥じない存在を。

 そして、その仮面の奥で本当の自分を閉じ込めている。


 私が彼の側に仕える理由はそれを守るためだ。

 だけど──それだけじゃない。


「(貴方がもし、誰かに「普通の男の子」として扱われたら、どう思うでしょうか)」


 私はときどき、そんな妄想をする。


 もし貴方が肩肘張らず、誰かの前で笑ったり、拗ねたり、怒ったりできたなら。

 もし誰かが、貴方の孤独に気づいて手を伸ばしてくれたなら。


 私ではなく別の誰かでも。それでも、少しだけ……嫉妬してしまうかもしれない。

 貴方の素顔を見られるのが、自分だけではなくなることに。


 だけど、私はその程度の感情で響希様の側にいるわけじゃない。

 私の感情よりも貴方の幸せの方がずっと大事だから。


「(響希様。どうか――あなた自身の願いに、素直になれますように)」


 ふと、物音。廊下から足音が近づいてきて、私は自然と背筋を正した。


 響希様だ。あの柔らかく整った気配は、私の全身が覚えている。

 私は再び従者としての表情を纏う。


 だけどその奥で、誰にも言えない想いが今夜も静かに灯っていた。


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