理想と下校
午後になってから空模様が怪しくなっていたのはわかっていた。でも、まさかここまで降るとは思っていなかった。
昇降口の前で立ち尽くす私の横を、次々と傘を差した生徒たちが通り過ぎていく。ざあざあと容赦なく降る雨。風もあって、雨粒が斜めに吹き込んでいた。降り続ける雨の音が鼓膜の奥まで響いてくる。
傘を……忘れた。私はただぼんやりと取り残されたように立ち尽くす。
「糸瀬さん」
突然名前を呼ばれて振り返ると、そこには九条さんがいた。
制服のボタンを上まできっちり留めて、手には落ち着いた色の傘を一本。その佇まいは教室にいた時と変わらないのに――いや、それ以上に整って見えた。
「傘……お忘れですか?」
私はこくりと頷く。
「……うん。今朝、晴れてたから……」
「でしたら、ご一緒にどうですか?」
そう言って、彼は傘をすっと差し出した。
「え……えええ!?そ、それは悪いよ……!一緒に入るのは、流石に……」
戸惑って言いかける私の言葉を、彼は穏やかに遮った。
「大丈夫ですよ。当分止みそうにありませんし」
そう言って差し出された傘。その柄をそっと持つ手に、迷いはなかった。
「で、でも、雪平さんとかは…………」
「ああ、伊織の方は用事がありまして先に帰ってしまったんですよ。だから心配はご無用です」
私の断る理由も潰され、九条さんはどうぞというように傘を開いて待っている。もう断れるわけがない。というか、夢みたいで心の整理が追いつかない。
「……それとも、僕と同じ傘が嫌でしたか?」
冗談めかしたその言い方に、顔がぱっと熱くなる。
「ち、違うよ!? 嫌なんてそんなこと言ってないよ……!」
「ふふっ、では決まりですね」
そうして傘の下に招かれて、私は彼の隣に立つ。
思ってたよりも距離が……近い。いや、そうなるのは分かってたんだけど。分かってたけど!
「……ありがとう」
「いえ、構いませんよ。僕も傘を忘れることはありますし」
「えっ、九条さんが……?」
思わず驚きの声をあげてしまった。だって、彼なら忘れ物とかしなさそうだし。
「ふふっ、僕だって人間ですから」
そう、九条さんは柔らかく微笑む。
というかやっぱり、傘、思ったより……狭い。
いや、多分普通なんだけど。一人用の傘だし、流石に二人だと近づかなきゃ濡れるし………ちょっと近づくと……結果、肩が。肩があたってる……!
「糸瀬さん、傘、遠慮しなくて大丈夫ですよ。もう少しこちらへどうぞ」
「だ、大丈夫……わたし、縮めるから……っ!」
「……糸瀬さん、それは縮こまるの意図ですか?」
「…………そう!」
言い間違いを突っ込まれて、もはや顔から火が出そう。
「それでは心配です。片側だけ濡れてしまいますよ?」
「あう……」
何この会話!?冷静な敬語で心配されるの、心臓に悪すぎるんだけど……!
というか、こんな美少年と相合傘とか滅多に体験できない事だし、周りの視線がまあ痛い。それどころか微かに触れ合う肩とか、すれ違う人の視線とか、いちいち気になってしまってまともに歩けない。
――でも、ちょっとだけ、何か優越感。隣にあの九条響希がいるという。
「ところで糸瀬さん、身長、おいくつですか?」
「えっ……?」
突然の話題に、少し傘を持つ手が少しぶれた。
「いや、こうして傘を持つと調整が難しいですね。身長はほぼ一緒なのですが、二人になるとバランスが………」
「そ、そんなに気にしなくても……っていうか、傘私が持つよ!九条さん、傘貸してくれた訳だし……あ、確かにバランスが……」
「すみません、それは僕の調整ミスですね。……こうでしょうか?」
ぐいっと、傘の角度が変わって、思いがけず二人の距離がぐっと近づいた。
えっ、えっ、近……! 顔、ちょっと動かしたら、絶対当たる距離……!
「……………」
「……………」
気まずい沈黙。九条さんもこの距離からなのか、少し気まずそうにしている。
「…………え、えっと、かさ、持つよ?」
この空気を何とか破ろうと私は言葉を切り出す。
「………ありがとうございます」
そうして九条さんから傘を受け取り、また沈黙が続く。傘にあたる雨の音が妙に大きく感じた。
傘を受け取ったのはいいけれど、手が震えてる気がする。
たかが傘。されど傘。その下にいるのは、学校で一番の優等生。誰より整ってて、誰より理想に近い人。
なのに今、その人と同じ傘の下。しかも私が傘を持ってるという構図。責任重大すぎる。
と、とにかく歩こう。歩かないと余計に変な間ができちゃう……。
一歩、二歩……。
――あれ?なんか、歩きにくい。
「あの、糸瀬さん?」
後ろから優しい声が届いた。振り返ると、少しだけ足を止めていた彼が困ったように微笑んでいた。
「歩幅、合ってませんね。すみません、僕が遅すぎましたか?」
「い、いえっ!私の方こそちょっと早く歩きすぎて……!」
変に考えすぎていたせいか、足元を気にしていなかった。だから全然歩幅を気にしていなかったのかも。
「……僕の方が合わせますよ。焦らず、ゆっくりで大丈夫です」
その言葉に、なんだか余計に緊張してしまう。
「ご、ごめんね……ほんとに……」
「謝る必要はありません。僕も……こういうのは慣れていないので」
「えっ……?」
思わず顔を上げると、九条さんはほんの少しだけ目を伏せた。
いつも完璧な彼が、ちょっとだけ不器用に笑う。その姿に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……じゃあ、一緒に練習……ですね」
「ふふ、そうですね。では、右から始めましょうか」
掛け声に合わせて、一歩。
右、左、右。
おかしい。たったそれだけなのに、心が浮ついてどうしようもない。でも、少しずつ歩幅が合ってきた気がする。
こうして並んで歩くのが、なんだか自然に思えてきて――。
「……ちゃんと歩けるようになりましたね」
「うん……そうだね」
雨音の下、心の奥に小さな幸せがしみ込んでいくような気がした。
嬉しい、なんて思っていいのかわからないけど。
――この雨の日が、好きになれそうな気がした。