理想の恋
綺麗な恋愛をしてみたい。
私、赤松杏佳がそう思うようになったのは、中学の頃からだ。
ドラマやアニメで見た恋愛モノ。別に特に好き好んで見ていた訳では無かったが、時折目にとまっては再生してしまう。
その中で見る恋模様はとても綺麗なものばかりだった。そりゃフィクションなんだから当たり前と言われればそれまでなのだが、そんな綺麗な恋愛を見続けている内に、いつしかそれに憧れを抱いてしまった。
好きになって、想いを伝えて、少しずつ距離が近づいて。
手をつないで、目を見つめて、名前を呼び合って。
きっとそんな風に、心がほんのり温かくなるような恋が私にも訪れると思っていた。
いつか自然とそういう誰かが現れて、私の心を揺らしてくれるんだろうって。
……でも。
現実はそんなにドラマチックじゃなかった。
中学の頃に告白して付き合った初めての彼氏。私は初めての恋愛に浮かれ、夢見ていた綺麗な恋が始まったと思った。
好きって言われて、嬉しくて、恥ずかしくて、でもちゃんと「私も好き」って返した。
放課後、一緒に帰って駅までの道を二人で歩いた。
手をつなぐのにドキドキして、相手の顔をまともに見られなくて、それが妙にくすぐったかった。
まるで、あのドラマの主人公みたいに思えた。
でも、それはほんの一瞬のこと。
数週間も経たないうちに、彼は他の子と話すことが増えていって私のメッセージには既読すらつかなくなる。
その理由を問いただす勇気もなくて、ただ通知が鳴るのを待ち続けて、結果として私たちは自然消滅した。
いや、“自然”なんかじゃなかった。
私が一人で勝手に終わらされたんだ。
「ごめん、なんか冷めたかも」
そう送られてきた一言が、私の初恋の結末。
綺麗な恋なんてどこにもなかった。
温もりなんて残ってなくて、ただ心の奥に冷たい空洞だけがぽっかり空いた。
それ以来、私は綺麗な恋をもう一度探し続けている気がする。
あのとき叶わなかった想いを。
あのとき味わえなかった幸せを。
もう一度、今度こそちゃんと掴みたくて。
だから私は、九条さんに惹かれた。
誰にでも優しくて、誠実で、理想を絵に描いたような人。
私の綺麗な恋はきっと彼と付き合えたら叶えられるって、どこかで信じてしまった。
……でも、また夢は終わった。
今度は始まりすらしなかった分、痛みは少ない。
けど、虚しさは前よりも深かった。
だって、想いを告げるだけで終わる恋なんて、何も始まっていないのに終わってしまったってことだから。
まあでも、確かに勝算の低い告白なのは事実。特段仲が良い訳でもないし、会話は何度かあるけど所詮友達止まり。
九条さんは一年の頃から誰とも付き合ってないし、告白も全部断っていると聞く。
私もその中の告白できるだけすごいよって。どんまいって笑ってくれた夏芽。いつものように、穏やかで優しいその目。
こうした友人の存在が今ならより一層ありがたく感じた。
「本当、親友様々だね〜。一人ならだいぶキツかったよ」
塩気の効いたおにぎりを頬張りながら、私は自販機に飲み物を買いに行った親友の帰りを待ち続ける。
「……あ、戻ってきた」
ドアのほうをちらりと見ると、夏芽が緑茶を片手に帰ってきた。
何気ない表情。いつもの歩幅。でも、よく見ると、少し頬が赤い。
「おかえり〜。緑茶か、夏芽っぽいね」
そう声をかけると、夏芽はほんのり照れたように微笑んで、こくんと頷いた。
「まあ、ご飯食べる時は無難にお茶か水じゃない?」
「安定志向だね〜。否定はしないけど」
私は笑って、手元のおにぎりを一口。夏芽は私の向かいのベンチに腰を下ろし、キャップを外して緑茶を一口。
その瞬間、彼女の瞳が少し震えて、ふっと視線を逸らしたのが見えた。
……ん? なんだろう、今の。
一瞬の違和感。でも、たったそれだけ。
ほんの些細なことなのに、私は何故か心のどこかがモヤっとした。
「……どうかした?」
自分でも不思議なくらい自然に声が出る。
私の言葉に、夏芽はほんの一瞬ピクリと肩を揺らした。
「え?な、何が?」
「いや、なんか顔赤いなーって。飲み物買いに行っただけで照れることあったっけ?」
冗談っぽくそう言って、私はおにぎりをもう一口頬張った。
そして夏芽はちょっと笑って、視線を逸らしたままお茶をもう一口。
「……ちょっと、日が暑かっただけ。ほら、日差し強いじゃん、今日」
「ふーん?」
日差しねぇ。確かに春先にしてはちょっと暑いけど、頬がそこまで赤くなるほどかな?
私は食べ終わったおにぎりのラップを畳みながら、なんとなく夏芽の表情を観察する。
──彼女の目は笑っている。けど、その奥にほんの少しだけ動揺があった。
「(どうしたんだろう。…………もしかして)」
「夏芽ってさ、誰か好きな人とかいたりする?」
ふいに、そんな言葉が口を衝いて出た。
自分でも、意図したわけじゃなかった。ただ、気づいたら言葉になっていた。
あまりに唐突で、私自身が驚く程に。
夏芽はわずかに目を見開いた。
そして、笑った。
いつものように、柔らかく、穏やかに。
だけど、その笑顔はどこかで誤魔化しの匂いがした。
「んー、どうだろうね。いたら杏佳には真っ先に話してると思うけど?」
「……そっか」
私は笑い返す。
これ以上踏み込むのは野暮だって、どこかでわかっていた。
だけど、私の胸の中には何か得体の知れないざらついた感情が残った。
──例えば、もし。
もしも、私が惹かれた人を夏芽も同じように想っていたとしたら。
それって、友情と恋愛、どっちを選べば正解なんだろう。
なんて。自分でもバカみたいだと思う。
私の恋は始まりすらしていなかったくせに。誰のものでもなかったくせに。
なのに、何かを取られたような気がしてるなんて。
「ねえ、杏佳」
突然、夏芽が口を開いた。
私は思考を切り替えて彼女を見た。
「うん?」
「今度、またカラオケ行こ? 二人でさ。久しぶりに、あのアニメの曲とか一緒に歌いたくなったから」
その言葉に、私は少しだけ拍子抜けして笑みがこぼれる。
「うん、行こう。約束ね?」
「うん、絶対」
私たちは、何事もなかったかのように笑い合った。
だが、その笑顔の奥に互いにまだ口にしていない“何か”があったことを、きっとどちらも気づいていた。
──それでも、私たちは今、まだ“親友”だった。
それがどうしようもなく切なくて、同時に、どこか安心でもあった。
「(だけど……いつまでこのままでいられるんだろう)」
私はそっと、空に視線を上げた。
風がふわりと吹いて、春の匂いを運んでいく。