エピソード8 『引きこもり(その参)』
僕とヤーさんが悟空さんを訪れた頃には、途中の夕立で雨宿りをしたせいもあって、すでに辺りは真っ暗でした。
「雨なんぞ怖がっておったら警官なんぞ勤まらんぞ?」
「怖がっているのではなく、あれ程本降りだとびしょびしょになってしまいますよ」
「良いではないか、人間とはまっこと面倒じゃのう」
「申し訳ありません」
ヤーさんは相変わらず僕の頭の上で胡座を組んでいます。
僕は周りの山道を見ながら恐る恐る聞きました。
「あの、この間と道が違いませんか?」
「近道じゃ」
「え?」
ケロッとしたヤーさんを見上げて僕は体を縮めました。
流石につい先程あんな事があったばかりなので、怖くないとは言えません。
翔さんの気持ちが痛いほど分かります。
木々は雨滴に濡れ、雲の影から覗く膨らみ始めた半月の光に照らされています。
時折顔に当たる木の枝は冷たく湿っており、僕を引き留めるかのように引っかかった枝は、離れる時にぽんっと反動で雫をまき散らします。
足元は膝まである草花を掻き分けているため、ズボンがびしょ濡れでした。
「あの…どうして同じ道でいかないんですか?」
怖々ヤーさんに尋ねますと、ヤーさんは尻尾をくるりと丸めて言いました。
「ワシには道が一本だと考える方がどうしてかわからん」
「は?」
「道なんぞ、歩くところは全て道じゃ。
ワシは今なんぞ空中も道じゃ。同じ道がどこだったか思い出す方が難しいわい」
言われてみれば、確かに…。
僕は肩を竦めて小さく返事をしただけでした。
木々の間を抜けると、先日来たあの泉が見えてきます。
膨らんだ半月が水面にゆらりゆらりと漂います。
その上には、ぽっかりと装飾の施された窓から、緩くほのかな明かりが漏れていました。
「あいつも今忙しそうじゃからのう」
ヤーさんはドアをコンコンと叩きました。
ややあって悟空さんの声がすると、また勝手にぎいっと開きました。
昼間とは随分趣が変わっています。
まるで、恋人達のレストランの様です。
「夜分遅く失礼します。
先日お伺いしましたノロマサですが…悟空さんいらっしゃいますでしょうか?」
今回、ヤーさんはとても静かで何も言いません。
僕はそれを不思議に思いながら頭の上を見ますと、そこではこっくりこっくりと船を漕いでいるヤーさんの姿が有りました。
一体これ程短期間の間に、いつ寝てしまわれたのでしょう?
有る意味、これも職人芸です。
僕は仕方ないと溜息を着いてドアの中へ入りました。
中はあちこちがランタンで照らされており、オレンジ色の柔らかい光がほんわりと点っています。
その中で、悟空さんは机に向かって見た事もない道具を駆使しながら設計図らしき物を描いていました。
僕を見ると、片手を上げて挨拶します。
「おう、お巡りさん。
どうした?あれ?もう月が膨れちまったかな?」
そう言いながら、不思議そうに空を覗き込みました。
「あ、いえいえ。今回は別の事件でして…」
「…事件?」
悟空さんの顔色が曇ります。
ゴーグルみたいな物を外して僕に椅子を勧めてくれました。
軽く礼を述べそこへ腰掛けると、悟空さんもすぐ前の台に足を組んで座ります。
「まさか…俺が作った物に不良品が出たとか?」
彼の言葉ににっこり笑って首を振ります。
彼の固かった表情が、ふっと元の明るさを取り戻しました。
職人気質と言いますか、自分が手を掛けた物に万が一の事があったら言い訳できないと強いこだわりを持って仕事をされている様です。
「吃驚したぜ。
念には念を入れてるが、そんな事あったら信用もがた落ちだ」
悟空さんはふうと息を吐くと、パフォーマンス的に肩を竦めて見せました。
僕も笑って頭を掻きます。
「お騒がせして申し訳ありません。
ちょっと別の事件を捜査している途中なんですが、そこで貴方の名前を伺ったものですから」
「俺の?どんな?」
面食らった顔で僕に顔を近づけます。
僕はイケメンな彼に自分の顔をまじまじ見つめられて恥ずかしくなり、さっと手帳を開き覗き込む振りをしました。
「ええと、現在亀の池の調査に当たっておりまして。
亀の池はご存じですか?」
「ん?あ、まあ」
悟空さんの目が一瞬泳ぎました。
どこか罰の悪そうな顔です。
「あそこにおられる方と仲は良いのですか?」
「仲って程では…知り合い程度だよ」
「どんな方と?いつごろから?
出来たら詳しくお聞かせいただけないでしょうか?」
ぽんぽん飛び出した質問に、悟空さんは微かに目を伏せただけでした。
「あ、すみません…尋問口調になってしまって。
お話の中に貴方のお名前が出てきただけですので、あくまで参考程度にという事なのです。
本当に…申し訳ありません」
僕はせっついてしまった事をとても後悔しました。
どんな繋がりがあろうと、相手の心の奥に土足で踏み入るようなことは最低です。
僕はすみませんと小さな声で謝って頭を下げました。
「まだ詳しい事は全然解っていないのです。
今は、生活していくのすら難しい世の中になってきているんでしょうか…
僕には何も出来る事がないのかと、悔しくて」
悟空さんは視線を落としたままです。
「まだまだ勉強しなければならない事だらけです」
「…人間と霊体と相手に…大変だな」
「そんなことはありません」
僕は悟空さんの目をしっかりと見つめて言いました。
「こうやって悟空さんやヤーさん、李衣乃さんや翔さんに会えてとても良かったと思ってます」
「…辻のじいさん、元気か?」
僕はいきなり出てきた名前に驚かされ、目を丸くしました。
まじまじと悟空さんを見てから、ああ、そうか。と納得しました。
悟空さんはチンパンジーです。
野生のチンパンジーは日本にはいません。
悟空さんも、恐らくは動物園にいたのでしょう。
僕はフラミンゴさんの事やボートを借りに行った時の事などを詳しく話しました。
その間、悟空さんはじっと黙ってそれを聞き、時折微笑むような瞳をしていました。
ランタンの揺れる灯りが悟空さんの毛並みを金色に輝かせ、透き通る姿はそれはそれは美しかったのです。
辻さんにも見せてあげられたら…と思わずにはいられませんでした。
彼は今、皆にとってなくてはならない程頼りにされ、それを誇りに思っている好青年です。
そして、辻さんの事を心配しています。
僕はその見えない思いに涙ぐんで、しわしわのハンカチをポケットから出して鼻をかみました。
「アンタ、本当に変な奴だな」
悟空さんは長い腕で無造作に目を擦ると、へへっと笑いました。
「アンタが聞きたいのは、亀の池の『タ・トール』て奴だろ?」
「え、あ、そうです。ご存じなのですか?」
僕達は自然とお互い囁く限りの声で、息の詰まりそうな気配をぐっと押し殺しました。
「あの方が、悟空さんの所へ出入りしていたと聞きまして…」
「…俺を疑って?」
「そうではなくて…いえ、正直ちょっとだけ何かあるのではと思ってしまいました。
申し訳ありません」
意気消沈して頭を下げる僕に、悟空さんは何て事はないと手を振ります。
「あいつ、引き籠もってるんだろ?
実際に俺のせいなんだよ」
「え?」
情けない声を出した僕に、悟空さんは苦笑いしながら静かに言いました。
「俺が悪いんだ」
「あの」
「あいつがここに来だしたのは、もう半年以上前になるかな」
悟空さんは長い腕でランタンみたいに見える光を引き寄せると、静かに語り始めました。
タ・トールさんは目が悪かった様で、悟空さんに眼鏡を作ってもらいにここへ来たそうです。
水陸両用のゴーグルをお願いしていました。
試作を重ねる間、痴話話の中でタ・トールさんと悟空さんは生前、辻さんの動物園で育った物同士と解ったそうです。
二人は意気投合して、それは仲が良かった。
悟空さんもそう思っていたのです。
ですが、タ・トールさんはそうは思わなかった。
「俺は見ての通り仕事好きの何でも屋さ。
新しい物を作り出している時が一番楽しい」
悟空さんの部屋にはいつも仕事の依頼書が旗みたいに翻り、彼はその間を目にもとまらぬ早さで移動しながら充実した日々を送っています。
眼鏡を作ってもらったタ・トールさんは、今度はウォークマンとヘッドフォンを作って欲しいと頼みました。
この依頼は結構有るようで、ヘッドフォンだけを作り替えて渡しました。
「大事に使ってくれよ」
と。
だがすぐまた、今度はランプが欲しいというのです。
悟空さんと同じ物でいいからと。
悟空さんは何とか時間を切り盛りしながら新しいランプを作ってあげました。
しかし、渡されたランプを見てタ・トールさんは激怒したのです。
なぜなら、それが同じ亀の池の友人の物とそっくりだったからです。
悟空さんからしたら、デザイン違いのランプの方が友達でも貸しあえて良いかと思ったのですが、それが仇となってしまった様です。
どうして悟空さんと同じ物じゃないのか?
タ・トールさんは喚き散らしました。
「自分と君は同郷だろう?その私をどうして解ってくれないのだ」
悟空さんは呆然としました。
何をそんなに拘っているのだ?
何にそんなに囚われているのだ?
彼にはさっぱり解らなかったのです。
それからというもの、タ・トールさんは悟空さんの所へ来なくなりました。
ある日、悟空さんが納品書の整理をしていた時、
タ・トールさんに作った眼鏡の納品書の裏に、達筆な文字を見つけました。
そこに書かれていたのは、
【I Love You】
タ・トールさんは悟空さんに恋をしていたのでした。
僕はぽかんとなった後、顔が赤くなるのが解りました。
悟空さんの顔も真っ赤です。
ランプを近づけたのはそれを隠すためでしょう。
「俺、全然気づかなくて。
でも、そんな奴に自分の友達と同じ物なんてやったら、それは怒るよな」
「そう、ですね」
僕は頭を掻きながらいやはやと考えさせられました。
霊体の方は何者にも囚われない。
つまりは恋愛だって自由と言うことです。
「大変野暮なお話ですが、悟空さんはタ・トールさんを?」
「俺は仕事がしたいんだ。悪いけど、恋愛はしたくない」
「もちろん、個人の自由ですから」
悟空さんは足の指で、近くに置いてあったランプを押しやると溜息を付きました。
イケメンは何時の時代も大変です。
僕は思わず佐波多さんを思い出してそっと笑ってしまいます。
「あの」
僕の投げかけに悟空さんは首を傾げて振り返ります。
「よろしかったら力を貸して頂けないでしょうか?
これは勿論お願いであって強制では決してないのですが。
タ・トールさんもこれでは新しい恋も出来ないでしょうし」
「解ってるよ。俺にも責任は有るんだし」
「責任は、無いと思いますが」
「俺の中でいつまでも引っかかってたら嫌だからな」
僕が頷くと、悟空さんもにっと笑いました。
周りを楽しい雰囲気にさせて引っ張ってしまう。
こういうイケメンはどういった種類に入るのでしょう?
僕は今度李衣乃さんに聞いてみようと考えていました。
帰り道の解らない僕がヤーさんを起こそうとすると、
『起きとるわい』とのそっと顔を上げました。
僕は拍子抜けしてヤーさんを見上げます。
「起きていたなら、どうして何も言ってくださらなかったんですか?」
『助言が必要だったかの?』
「勿論です」
ヤーさんは顔をぺろんと手で舐め挙げると、ふうっと溜息を付きます。
『ワシはそうは思うとらん。
お前一人で悟空から事情を聞き出し、先を見付ける事が出来た』
「それは、たまたまです」
『誰かに頼る事も時には必要じゃ。
だが、お前が一人で解決できる事は解決していかなければなるまい』
「それは、そうかもしれませんが…」
僕の曖昧な返事にヤーさんはかかかと笑って、
『今回は良くやったじゃないか。それは大事な一歩じゃ』
そう言うと、またごろりと横になってしまいました。
出来る事は自分で解決する。
僕がその言葉の意味を図りかねていると、目を瞑ったままの静かな声が聞こえてきます。
『もしお前がたった一人でやらなければならない時が来たらどうする?
ワシらと敵対したら?
お前は相手を説き伏せる事が出来るか?』
僕は一瞬言葉に詰まりました。
まさか、やーさんの口からそんな言葉が出てくるとは思いもよらなかったのです。
「僕ひとりでは、無理です。
やーさんがいて李衣乃さんがいて、皆の手助けがあってこそですから」
その答えに、ヤーさんはまたかかかっと声を挙げて笑いました。
『正直すぎるのもどうかのう?』
「面目次第もありません」
僕は確かにヤーさんに頼りすぎているのかもしれません。
ただ、今はその助言を頼りに成長していけたら。
道なき道を歩きながら、僕は頭の上にいるとても信頼のおける姿を思い描いていました。