エピソード7 『引きこもり(その弐)』
辻さんからお借りしたボートを池に乗り入れると、小さな波がいくつも立ちました。
ゆらゆらと揺れる不安定な中へ、ひょいと飛び乗ったのはやーさんです。
ヘリ先の特等席にあぐらをかいて皆を待っています。
僕と李衣乃さんは若干譲り合いながらも、体重のある僕が先に乗り込みました。
その大きな揺れが収まった所で、李衣乃さんが軽々と後ろへ飛び乗り、無事ボートは出港となったのです。
僕が小さなオールを漕ぐと、なぜかボートは後ろへ進み、元の岸辺にごつんと当りました。
その衝撃で皆が前につんのめります。
「あ、あれ?」
慌てて再度漕ぎ直しますが、今度は旋回してぐるぐる回り始めてしまいました。
おかしいな?
李衣乃さんとヤーさんが僕を白い目で見ています。
「や、これすごく、難しいんですよ?」
柵の外からは、いつの間に集まってきたのか、子供達の大きな笑い声がしました。
何が始るのかと集まってきたようです。
僕はその子たちに柵の中へ入らないように注意してから、再度オールを漕ぎます。
しかし、ボートは前へ進んでくれません。
なぜでしょう。
「私やる。貸して」
痺れを切らした李衣乃さんが、僕の手からオールをもぎ取ります。
そのまま力一杯漕ぐと、錆れた音がしてボートは岸から無事離岸しました。
観衆からは、「おお」と拍手が挙がります。
今にも沈みそうにゆらゆら揺れてボートが進むと、池の上のアメンボが「て、て、て、て」と逃げていきました。
水上には雨粒が降っている様な小さな輪が出来ます。
「すごいです、進んでいます」
「当たり前でしょ、
ていうかあんた重いのよ。
ダイエットしなさい、よ」
李衣乃さんは水の抵抗を受けるオールに、細い腕で必死に戦いながら言いました。
それを見て、自分の不甲斐なさを感じずにはいられません。
「すみません。ダイエットします…」
「その前にボートくらい漕げる様になって」
ご、ご最もです。
弧島の裏側に回り、僕達は引きこもっておられる亀さんを覗き込みました。
殻をぴっちりと隙間なく閉ざしてしまっています。
李衣乃さんはスケッチブックを取り出すと、亀さんの外見を写し始めました。
僕は途中で買ってきました「引きこもりを直す」という本を開いて読み始めます。
「ええと、引きこもりとは正式な診断名ではなく、一種の行動パターンである。
ほとんどの社会活動や家族以外の人間関係から離れて閉じこもってしまう」
「亀社会からな」
ヤーさんが訂正します。
「不安や緊張、恐怖がつよい人は、亀社会から撤退してしまえばそういうストレスを回避できるので、症状を取り除こうとする姿勢が乏しいのです」
「前置きはいいからどうすりゃあいいんじゃ?」
「あ、はい。えええと」
ぱらぱらとページを捲ります。
柵の外から見ている子供たちは、一体何をしているのだと呆れ顔です。
彼らから見れば、一人は何も無い弧島を写生しており、もう一人は本を片手にぶつぶつ喋っているだけですから。
頭がおかしいんじゃないのか?
皆の頭の中には、そんな考えが巡っていることでしょう。
その中でたった一人、じっとこちらを見ていた少年がいたのに、私達は気付きませんでした。
「あのう、私巡査のノロマサと申します。
こんにちは」
僕が声を掛け、ヤーさんはひょいと弧島に乗り移ると亀さんを観察し始めました。
「千寿さんからお話を伺いまして、何か相談に乗ることが出来れば光栄と存じますが」
反応は無く、し~んとしています。
「こりゃあ、えらい徹底振りだのう」
「はい?」
ヤーさんのたまげた表情に、僕は不思議そうに向き直りました。
「甲羅と地面をぴったり離れない様に紐で繋いでおる」
ヤーさんは腕を組んで、そんな亀さんをじーっと見ています。
そんなにそこから離れたくないのでしょうか?
「で、こういう場合はどうしたらええんじゃ?」
「あ、はい。ええと」
僕は慌てて本に向き直りました。
「『無理に外に出そうとしない』だそうです」
ヤーさんと李衣乃さんは僕を見ました。
「ほ、本当にそう書いてあるんです」
僕は慌てて二人に本を広げて見せました。
「役に立たないわね。こうなったら原因を探るしかないか」
李衣乃さんはスケッチブックをパタンと閉じ、ヤーさんはひょいとその頭の上に乗りました。
池には積乱雲と、半月が小さく写りこんでいます。
それが、風がそよっと吹くと漣が立ってゆらゆらと揺れていました。
僕は後ろの池に浮いている、今にも寝てしまいそうな千寿さんに聞きました。
「あの、こちらの方がここに引きこもられて何か不都合が生じるんですか?」
『え?あー、特には』
千寿さんは浮いたり沈んだりしています。
している様に見えます。
「ではなぜ、私共に連絡を?
いえ、決して責めている訳では無いのですが、不都合がなければそのままでも構わないと思うのですが…」
「不健康じゃん」
李衣乃さんの言葉に首を振ります。
「霊体の方は何者にも囚われないとお聞きしています。
この方がここにおられるのは、ご自分の意思ではないのですか?」
『確かに』
千寿さんは頷きました。
『岸辺の裏でお話致しましょう』
そう言うと、すいと泳いでいきます。
僕らもそれに続きました。
木陰はとても涼しく、水の上はとても気温が低い様です。
少し泥混じりの臭いが上がってきますが、ここは環境的にもそれほど悪いとは思えません。
僕は汗を拭いながら、木の葉が敷き詰められた上を見上げました。
「あ、帰りは僕が漕ぎます」
漕ぎだそうとしていた細い手からオールを取って、自分の元へ引き寄せます。
ガコンという音で、行く先が変更されたはずなのですが、またもや、元いた弧島に戻ってしまいました。
僕を見る冷たい視線を横目に、そのままがむしゃらに漕ぐと、ボートはぐるぐると回転しながらもなんとか元いた岸辺に戻りました。
「結果オーライ」
李衣乃さんは笑ってボートを降り、僕も照れながら降りました。
一端水から引き上げ、勝手に使用できないよう鍵をかけました。
わらわらと寄って来る子供達に、
「水の調査をしていたんだよ」
と道具を見せました。
その中の子が僕に尋ねます。
「なあ、おっさんて刑事だろ?」
「そこまで偉くないですが」
笑って答えた相手は、真っ黒に焼けた短髪の男の子です。
「あそこにいるの、カミツキガメだよな?」
「知っているのですか?」
そう言ってから、はたと体が止まります。
今、彼はおかしなことを言った気がしたのです。
日中の暑い時間、他の生体の亀さんは見受けられませんでした。
ですが、目の前に居る意志の強そうな目はまっすぐ僕を見つめています。
「あそこ、とは?」
「変な島の上だよ」
ぶっきらぼうに答える彼に、僕は思わず身震いします。
「ノロマサ何してるの?早く行くよ?」
李衣乃さんが不思議そうに振り返ります。
彼は李衣乃さんの頭の上を見て、
「でかいヤモリだな」
そうおかしそうに言いました。
ここにまた一人、新しい仲間が増えようとしていたことに僕はこの時気付いていませんでした。
「ちなみに、奥、行かない方がいいよ?いるから」
「え?」
「お前等見えないんだろ?おれ、別のものも見えるんだ」
意地悪そうに笑った彼の言葉に、僕はその場で気が遠くなってどたんと倒れてしまいました。
彼の奥にいた方を見て倒れた、ということにしておいて下さい。
お恥ずかしい限りです。
彼は、僕と李衣乃さんを遥かに凌ぐ観察眼を持っていたのですから。
「お前、最近越してきた奴だろ?
何か生意気な奴が来たってクラスの女子が騒いでたぜ?」
「五月蝿いわね、だから田舎の馬鹿は嫌いなのよ。
礼儀知らずで」
「かー、マジだな。お前、名前は?」
「レディに名前を尋ねるときは自分から名乗りなさいよ」
「おっさん、こんなの相手に大変だな。ホント」
「わたしがノロマサの相手をしてあげてるの。勘違いしないで」
僕は年相応の喧嘩をする二人を、額に濡らしたハンカチを当てながら聞いていました。
マシンガントークです。
李衣乃さんを指差しながら僕を見ている彼に尋ねます。
「先程は大変失礼致しました。
お名前を伺ってもよろしいですか?」
「おれ?おれは翔、んでこっちが相棒のルートワ」
翔さんが手を出して紹介した先には、黒のシェパードが背筋を伸ばして座っております。
半分透き通っているのは言うまでもありませんが。
『ルートワと申します。
ご主人と同じ方に会えて光栄です』
低いバリトンの声で告げると、静かに頭を下げました。
何とも、従士を伴っているとは勇ましい限りです。
「私は巡査の榊と申します。
皆さんノロマサと呼ばれるので翔さんもそう呼んでください。
こちらは楠李衣乃さん。
そして頭の上におられるのがヤーさんです」
翔さんは驚きながらも皆を見回し、ルートワさんは其々に礼儀正しく頭を下げました。
「そなた、珍しいのう」
ヤーさんはしげしげとルートワさんを見ています。
「霊体が一人の人間に執着することは、滅多にあるまい」
『私の役目はご主人の護衛です。
片時もお傍を離れず付き添っています』
僕達は目をぱちぱちし、その低姿勢のルートワさんを見つめました。
何者にも囚われないのが霊体です。
それが翔さんの為に傍を離れないとは。
「ルートワはおれが生まれた時から一緒なんだ。
おれ、こんな体質だから狙われ易くてさ」
「狙われやすい、ですか?」
翔さんは僕の質問に顔を顰めます。
「動物の霊体は無いけど、人間の霊体、幽霊はすげえ執念深いんだ。
要は恨みつらみを残してここに居るもんだろ?
隙あらば取り付こうとするんだよね」
「こ、ここ怖いですね」
「だろ?ルートワはそんな奴らからおれを守ってくれてるんだ」
そう言ってルートワさんを見た彼の視線は、とても穏やかでした。
ルートワさんもとても翔さんを大事にしているのが伺えます。
李衣乃さんはそんな二人を上目使いに見ていましたが、ふいっと顔を逸らしてしまいました。
「あ、それでは千寿さん、先程の続きをお願いしてよろしいでしょうか?」
僕達の様子を見るとも無しにうとうとしていた千寿さんは、鼻ちょうちんをぱちんと割って、慌てて立派な顎髭を撫でました。
『ああ、はいはい。
あの島にいるのは、海外から来られた『タ・トール』さんです』
「すげー凶暴で直ぐ噛み付くんだって。
指食いちぎられるぜ?」
翔さんが説明に割って入ると、千寿さんはいえいえと首を振ります。
「とても気の小さい優しい方だそうですよ?」
僕の代弁に、翔さんは呆気に取られてぽかんと口を開けました。
「人間から見ると気性が荒く、直ぐ噛み付くというのも、
実際には怖がりで臆病だからかもしれんのう」
ヤーさんは李衣乃さんの上で胡座を掻いて腕組みをしています。
千寿さんは溜息を付きながら続きを語ります。
『実は、タ・トールさんは夜な夜な奇妙な声で騒ぎ立てるのです。
その騒音にかなりの者が嫌がって池を出て行ったのも事実。
あれは亀の池を自分の物にしようと、目論んでいるのかもしれません』
「そんな臆病な方がですか?」
「だから言ったろ?超凶暴なんだよ」
翔さんがここぞとばかりに囁きます。
「しかし解せんな。
その為に立てこもっているというのか?
いささか安易な気もするが」
ヤーさんは首の様な部分を捻り、う~むと唸りました。
僕もヤーさんに同意見です。
何かある気がします。
そこで僕らは、池の亀さん達に聞き込みを始めることにしました。
「翔さん大丈夫ですか?
嫌な気配がする様でしたら、お待ちになって頂いた方が良いかと」
「手伝うよ。ルートワいるし、大丈夫。
あんまりやばいのには、絶対に近づかないから」
慣れていらっしゃるのですね。僕は無理をなさらない様促してから、聞き込みを始めました。
証言A:あの亀いっつもおどおどしてて、
何を考えてるのかわかんないのよね。
そのくせ、あの島を占拠しちゃって立てこもっているでしょ。
何でかって?そんなのこっちが聞きたいわよ。
証言B:夜に、何かを削っている様な変な音がするんだよね。
五月蝿くて仕方ないよ。
どんな?
何か掘っている風にも聞こえるけどねえ。
証言C:すごく泣き虫で怖がりなの。
でも良い亀よ?
始めの頃、良く一緒に泳いだわ。
それがいつの間にか引きこもっちゃう様になって。
きっかけ?
う~ん、ごめんなさい。
ちょっと判らないかも。
証言D:そう言えば、悟空のとこに良く行ってたって聞いたけど?
それくらいしかわかんねーな。
有力と言えるかどうかは判りませんが、このくらいでしょうか?
僕は手帳を眺めながらシャーロック・ホームズのように推理をしてみました。
ですが、さっぱり見えてきません。
参りました。
僕が岸辺で頭を抱えていると、いきなり、
『ノロマサ様』
と低い鋭い声で呼ばれました。
はっと振り向くと、ルートワさんがこちらを向いて険しい顔で立っています。
『ご主人が』
「どうされました?」
僕は直ぐにその場に急行しました。
緑の豊かに繁った桜の木の下で、翔さんがぐったりと倒れています。
「翔さん、大丈夫ですか?聞こえますか?」
彼は苦しそうに息をしています。
『どうやら当てられた様です。私が付いていながら、奴めが』
ルートワさんは牙を剥き出しにして唸りながら、激しく一点を睨んでいます。
僕ははっとして直ぐそちらを見ましたが、やはり何も見えません。
只、雑木林が広がっているばかりです。
上から木漏れ日が差し込み、さやさやと葉が音を立てています。
「当てられたとは一体…?ヤーさん、ヤーさんはいますか?」
僕が大声を上げると、池の柵にもたれ掛って話を聞いていた李衣乃さんが気付いて顔を上げました。
頭の上に載っていたヤーさんも即座に振り向きます。
目を丸くして僕達の元へ走ってきました。
「何?どうしたの?大丈夫?」
李衣乃さんは不安を隠せず、その腕がかたかたと震えています。
「李衣乃さん、大丈夫です。ヤーさん、彼の状態が分かりますか?」
「ルートワとやら、いつもこの様な状態になるのか?」
ヤーさんは翔さんの上に飛び乗ってあちこち調べています。
『その時によって全く異なるため、何とも言えないのです』
ルートワさんは僕達に背を向けたまま、じりっと翔さんを庇うように立っています。
「ノロマサ、ここに居ては危険じゃ、彼を駐在所へ。熱中症と同じ症状じゃ」
「判りました」
僕は即座に頷いて彼を抱き上げました。
確かに彼は汗もかいておらず、ですが体がとても熱くなっています。
僕はそのまま走り出しました。
何やらその時確かに、背筋が泡立つようにぞくっとしたのを覚えています。
「急患です、休憩室貸してください」
大声で飛び込んできた僕に、鷹野木さんが目を丸くしました。
ですが翔さんを見て、直ぐ様奥部屋を開けてくれます。
クーラーを付け、扇風機を回します。
タオルを冷たい水で絞って、氷を挟み、額と脇に挟み込みます。
李衣乃さんが自動販売機で冷たいスポーツ飲料を買ってきてくれました。
「翔の奴、また倒れたのか?」
倒れた少年をじっと見てから、鷹野木さんが僕に聞きました。
「ご存知なんですか?」
鷹野木さんは頷きます。
「夏になると良く倒れて、駐在所に運ばれて来るんだ」
「…熱中症で、ですか?」
「嫌、それが不思議なことに全身が氷みたいに冷えている事もあってな」
鷹野木さんは、去年の日誌から翔さんの分を抜粋したと思われるノートを見せてくださいます。
「拝見します」
そこには、様々な症状が記入されています。
節々が痛む通風の様な症状であったり、吐き気、痙攣、高熱、パニック、失神。
『私の見ていない隙に、近づくのです。
当ったというのは、触ったに近いでしょう。
いえ、掴まれたと言っても過言ではありません。
直ぐに噛み砕いてやるのですが、毒気にやられてしまうのです』
ルートワさんが僕の隣に座って言いました。
その言葉に頷き、翔さんを見ます。
荒く息をしている彼の横で、李衣乃さんが体を冷やしています。
その眉間には深い皺が寄っていました。
僕はノートを持った手が震えました。
何て事をしてしまったんだ。
きつく目を瞑り、押し殺した声を喉から絞り出して、
「私が付いていながら大変、申し訳ありません」
そう言うのが精一杯でした。
自分の手に、涙が当るのが判りました。
悔しさで、どうしようもありません。
何故もっと注意しなかったのかと。
「そこにいる」と翔さんが言っていたのを聞いておきながら。
完全なる僕の注意不足です。
「誰と話してる?」
そう言われて、はっと我に返りました。
鷹野木さんが怪訝な顔でこちらを見ています。
僕は慌てて涙を拭きました。
「いえ、自分に腹が立って。すみませんでした」
鷹野木さんは何も言いません。
「このノート、写させてもらってもよろしいですか?」
僕の問いに、鷹野木さんは良いとも悪いとも言いませんでした。
村の地図に印を付けて、翔さんが会った日付と時間を記入します。
過去に遡って日誌を隈なくチェックします。
「ルートワさん、あとどの辺りで見かけるか教えていただいてもよろしいですか?」
ルートワさんの指し示す位置と、状況を加えていきます。
毎回見かける物は赤で。
それ以外は青でラインを引きます。
『浮遊している者も一定範囲からは出ない様です』
成る程と頷いて、聞いたことは全て書き写します。
コピーして一枚は自分が持つ事に。
「翔さんは遊び盛りです。
行ける範囲を限定される様なことがあるのはよくないと思います。
ですから、もし危険範囲にいく様なことがあるときは、私に連絡を頂けませんか?
出来る限り注意致します」
『承知しました』
そう言って、ルートワさんは頭を下げました。
「何か幽霊避けのような物があればいいのですが」
僕とルートワさんは顔を見合わせて真剣に考え込みました。
ルートワさんにまで効いてしまう様では、問題外です。
どうもさっぱり浮かびません。
見ることの出来ない僕には、これはかなりの難題です。
案を出し合いながら、取り合えず僕もルートワさんも翔さんの傍に座りました。
「熱も引いてきておるし、大丈夫じゃろう」
ヤーさんは翔さんの上で、尻尾で熱を測りました。
皆、ほっと息を撫で下ろします。
すると、顔を歪めて翔さんがうっすらと目を開きました。
『ご主人』
ルートワさんが即座に声を挙げます。
いつもとは打って変わった、今にも泣きそうな顔に翔さんが微笑んで頷きます。
僕もそっと声を掛けます。
「よかったです、本当に。大丈夫ですか?」
「悪かったな、いきなり近づかれて不意を付かれた」
「ご無事で何よりです」
李衣乃さんがスポーツ飲料を差し出すと、翔さんはゆっくり起き上がって、
「サンキュ」
と言いました。
僕は地図を差し出して、今までの過程を省略して話します。
翔さんは驚いて地図を受け取りました。
幽霊避けの話を聞いた李衣乃さんが、
「おばあちゃんに相談してみるよ」
と言って下さいました。
翔さんが不思議そうな顔でそんな李衣乃さんを見ると、真っ赤になって俯いてしまいます。
言い合いをしていたのが嘘のような初々しさです。
ヤーさんはそんな雰囲気をまるで無視して、その地図の赤印付近には誰々が居るから頼ればいいと教えてくれます。
僕はそれを、地図に書き込みました。
「なんか、ありがとな」
照れたように言った翔さんに、僕達は見入っていた地図から顔を上げます。
「今まで俺、見える奴って本当に会ったことなくて、信じてもらえる以上にこんな、おれのこと心配してくれて」
「当たり前です、見えようと見えなかろうと大事なことに変わり有りません」
そう言った僕に、へへと翔さんは笑いました。
ルートワさんは体を痺れさせると『ご主人』と感極まって大きく遠吠えをしました。
その何とも哀愁漂う逞しい鳴き声に、僕達は皆弾けたように笑いました。
「ヤーさん、悟空さんの所へ行きたいのですが付き合って頂いてよろしいですか?」
翔さんは少し休まれた方がいいですし、李衣乃さんもそれに付き添っていてくださるそうです。
ルートワさんも緊張の糸が切れたのか、体を横にして寝入ってしまいました。
「年寄りは大切にせんかい」
「ヤーさんはまだまだお若いじゃないですか?」
「それくらい知っておる」
僕達は笑って休憩室から出ようとすると、鷹野木さんがちらっとこちらを見ました。
「翔は?」
「もう大丈夫そうです。もう少し休んでから帰られると。帰りは李衣乃さんが付き添ってくれるそうなので」
「ならよかった」
そう言って、また書類に目を向けてしまいました。
僕が駐在所のドアを開けると、後ろから声が響きました。
「お前らのやっとることは良く判らんが、全てを信用しすぎるな。いいな」
「あ、はい」
僕が慌てて振り向くと、鷹野木さんは相変わらず机に向かっておられました。
こんな事を言われたのは初めてです。
ヤーさんが尻尾でぴしりと僕を叩いて促しました。
「ほれ、さっさと行くぞ」
「あ、はい。すみません」
巡回から帰って来た佐波多さんが、僕を見てまた驚いて言いました。
「お前、また休みに駐在所来てたのか?」
日も暮れた帰り道、李衣乃さんと翔さんはちょっとだけ空間を空けながら歩いています。
駐在所で戻ってきた佐波多さんが二人を見てまたまた吃驚し、
「ノロマサは交友範囲が広いな」
と溜息を付いていたそうです。
それから一雨来た夕立の後、二人は駐在所を後にしました。
「本当に変なお巡りだよな?」
「ノロマサのこと?」
翔さんの言葉に、後ろで手を組んだませた李衣乃さんは聞き返しました。
首を傾げた仕種で一つに結わいた黒髪がくるんと揺れます。
翔さんは貰った地図をハーフパンツの後ろポケットから取り出し、照れた様に眺めました。
既にぐしゃっとなってしまってはいましたが。
「おれ今までルートワ以外にあんな顔されたの初めてでさ、結構、嬉しかった」
李衣乃さんはそれを横目で見ています。
「お前も、結構良い奴だしな」
「な」
李衣乃さんは、その言葉に真っ赤になって俯いてしまいました。
翔さんは首を傾げると不思議そうにそれを覗き込みます。
そんな彼の様子に、ルートワさんが「わふっ」と溜息にも聞こえる声を挙げます。
少しの間、草むらの虫達の軽やかな声だけがその場に聞こえていました。
翔さんは黙ったまま空を見上げて歩き、李衣乃さんは下を向いたまま歩きます。
道路は水溜りだらけでも、二人は軽々とそれを飛び越えながら進んで行きました。
「お前んとこって親は見えるの?」
翔さんの言葉に李衣乃さんは俯いたまま黙って首を振ります。
翔さんは「そっか」と当たり前の様に小さく言って、頭の後ろで手を組みました。
「…わたし、ずっと一番不幸なんだって思ってた」
李衣乃さんはぼやく様に口を開きます。
「何が?」
翔さんは飛び上がりながら、大きな泥溜りを目測誤ってばちゃっと跳ね上げ、あちゃあとサンダルの足を振ります。
それを見て、李衣乃さんはくすりと笑いました。
「この体質ってさ、霊体とか見えるって言っても誰も信じてくれなくて。
お父さんもお母さんも、皆わたしの事嘘つきだって…」
「…そうだよな」
神妙なその一言に、同じ者にしか分からない何かが含まれていた気もしました。
翔さんは李衣乃さんに歩調を合わせながら両手を頭の後ろに組んで空を見上げています。
雲が切れて星が輝き、涼しい風がさあっと二人の間を通っていきました。
「だからお前、この村来たのか?」
素直に問いかける言葉に、李衣乃さんはこっくりと頷きます。
「おばあちゃんも、ね、見えないの。でも信じてくれる」
「そっか」
「うん」
「いいことじゃん。信じてくれる人がいるって。
あのおっさんは?今年来たばっかの新米だろ?」
「うん。本当に何っにも出来ないの。
汗っかきだし、行動は変だし、やたら泣き虫だし。でもね、絶対疑わないみたい」
「刑事なのに?」
「うん。馬鹿だから」
そう言って李衣乃さんは下を向いて微笑みました。
「そっか、馬鹿な奴だな」
翔さんも笑って言いました。
ルートワさんは警戒しながら歩いているのか終始無言です。
そんなルートワさんを見て、
「わたし、アンタが羨ましいって思ったんだ。
だってそんなに信用して付き添ってくれるルートワがいるんだもん」
そう、淋しそうに言いました。
ですが、翔さんは何も言いません。
ルートワさんは顔を上げて李衣乃さんを見上げます。
「だけどあんな思いしてるの見て、馬鹿だなって。
そんな風に考えた自分が一番馬鹿だって思った」
『そんな事は有りません。あなただって苦しい思いをされています』
ルートワさんが低い声で言います。
「ううん、苦しいとかじゃなくて誰をどう信じるかって事。
真っ直ぐに信じ抜くって、結構、難しいじゃない?」
「自分が誰にも信じてもらえてないって?」
翔さんは歩きながら横目で李衣乃さんを見ます。
「そう、思ってたの。
だからあんまりお人よしなノロマサ見て腹が立った。
真っ直ぐに信じるルートワ見て羨ましいって思ったんだ」
「それって現在進行形?」
にいっと笑って、翔さんは気持ち良さそうに大きく伸びをします。
良く日に焼けた、健康的な腕が夜の闇に溶け込みそうです。
李衣乃さんはそんな彼を、ちょっと見下す目付きで眺めながら口を尖らせました。
「そんな直ぐに変われるもんじゃないの。
でも、人を疑うことしか出来なくなったらそっちの方が嫌だなって。
おばあちゃんが『私の言ったこと信じてる』って言ってくれるのも、本当は嘘なんじゃないかってはじめはずっと思ってたし」
翔さんは李衣乃さんと同じ顔をして彼女に言いました。
「ひねくれ数秒前」
「五月蝿いな」
「数秒前だって言っただろ?そうイライラするなよ。
だからってどうなる訳でもないんだし。
プラスに考えれば動物と話せるんだぜ?めちゃくちゃすげーじゃん」
「お気楽人間」
「プラス思考だよ」
「まあ、ヤーさんとも会えたし?」
「あのおっさんとも会えたし?」
「別にそれはいいよ」
二人はノロマサの顔を思い描いて、顔を見合わせて声高く笑いました。
ルートワさんは、そんな二人を本当に嬉しそうに眺めながら、ぴしっと背筋を伸ばして歩いていきました。