エピソード6 『引きこもり(その壱)』
ごろごろと今にも雷の鳴りそうな夕方、僕と李衣乃さんとヤーさんは、ご相談のありました亀さんの集団住宅へお邪魔しました。
生体の亀さんと霊体の亀さんが同居されている「亀の池」は、よく巡回の時に通る大きな池です。
周りを木々で囲まれており、他よりちょっと涼しい場所でもあります。
魚もたくさんいるらしく、釣り人や子供たちの遊び場にもなっているようです。
ただ、以前遊んでいた子供が池に落ちた事があっため、
今は池の周りに柵られています。
「何もいないけど?」
李衣乃さんの声に、僕は振り向きました。
そのまま、驚きに勢い余って柵に肘をがつんとぶつけます。
じ~んとした痺れと共に、すぐさま痛覚が襲ってきました。
「り、李衣乃さん、危ないです。
柵の中に入らないで下さい」
僕は李衣乃さんに向けて片手を開きつつ、もう片方の手で肘を押さえながら悶絶しました。
涙声でつっかえつっかえの言葉にも、李衣乃さんは涼しい顔です。
いつもの身軽さで、池を覗き込んでいます。
今日の靴下はピンクと黒のボーダーと、黄緑と黒のボーダーです。
「どうやってあそこまで行くの?」
李衣乃さんが指差した先には、ぽっかりと真ん中に島が浮かんでいます。
苔に覆われた夏には絶好のスポットです。
目を凝らすと、一頭の亀さんがその上にぽつりと乗っていました。
向こう側が透けていますので霊体でしょう。
僕は柵にしがみ付きながら、バレリーナの如く片足を遠く遠くに上げながら身を乗り出しました。
「ちょっとノロマサ、柵壊れたらどうすんのよ?」
「え?あ、す、すみません」
僕の体重で、一瞬みしりとうなった柵から直ぐに離れ、慌てて汗を拭います。
李衣乃さんが池へ落ちる前に柵で潰してしまう所でした。
危ない所です。
「この柵はそんなやわには出来とらん。大丈夫じゃよ」
ヤーさんが李衣乃さんの上で寝っ転がってのんびりと言いました。
「ヤーさん、ノロマサの体重侮ってるでしょ」
「先日も子供たちが仰山池を見に集まっとったが、びくともせんかったぞい?」
「はい、一応頑丈には作って頂いているので」
僕はへらっと頭を掻きました。
『柵を作って頂いてからは、勝手に中へ入る者も少なくなりました。
こちらとしても大変有り難く思っております。
釣りをされる方はおられますがな』
白く立派な顎鬚を自慢気に撫でながら、二足立ちした亀がとなりで『ほっほっほ』と笑いました。
『どうも、池の主の千寿と申します』
「はじめまして。
巡査のノロマサと申します」
礼儀正しいご挨拶に預かり、僕も大きく頭を下げます。
『本日はご足労いただき、ありがたや』
「いえいえ、とんでもありません」
僕が改めて頭を下げる横で、李衣乃さんは、
「こんな汚い池で釣った魚なんて美味しいのかしら?」
と不思議そうな声をあげます。
「り、李衣乃さん。す、すみません」
僕は、彼女の悪気の無い不躾な質問に慌てて再度深く頭を下げます。
千寿さんは気にする体でもなく、笑ってゆっくり手を振っただけでした。
動物の霊体の方は皆おおらかでいらっしゃいます。
本当に。
僕は手帳を取り出すと、早速聞き込みを開始します。
「この池には霊体、生体、それぞれどのくらいの亀さんが居られるのでしょうか?」
『霊体は亀だけなら20匹、生体ははっきりとは把握しておりませんが、少し多い30匹前後かと。
最も、最近は外国から来た亀もおりますが』
「外国から?」
これはびっくりです。
海外留学というやつでしょうか。
「そ、それで引きこもっておられる方は最近入られた方なのですか?」
『一年ほど前からおりますな。
体格は良いですが、やたら気の小さい、まだ若い衆でして。
嫌、何を言っても一切あそこから動くこともせず、甲羅に入ったままなんです』
僕はふむふむと頷くと、遠くの島にぽつりと居る亀さんを見ました。
「誰か説得に行ったりはされているのですか?」
『ええ。
毎日皆が出て来いと言うとるのですが、うんともすんとも応えず』
「このような状態は、いつ頃始まったのでしょう?」
千寿さんはう~んと唸りながら、目で何処かを探っています。
記憶を引き出しているのでしょう。
『確か、今年の夏に入ってからだと』
「何かきっかけみたいなものとか、お分かりになりますか?」
『それが、よう判りませんで。いきなりああなってしまいましたから』
僕は成る程、と頷きました。
しかし参りました。
あの孤立している場所の説得に、どうやって行ったら良いでしょう?
弧島で黙秘を続けている亀さんは、一体何を愁いていらっしゃるのでしょう?
僕にはとんと検討も付きません。
李衣乃さんは水を弾いて遊んでいます。
藻が生い茂った池はお世辞にも綺麗とは言い難く、時折何かの陰がゆっくりと水中を泳いでいくのが見えるくらいです。
僕らを横目に、水色のトンボがすいっと水面すれすれを飛んで行きました。
それを目で追いながら僕が「む~」と唸っていると、
「泳いでいけばいいじゃん?」
と李衣乃さんはあっけらかんと言い放ちます。
「ぼ、僕がですか?」
「他に誰がいるのよ?」
「ヤ、ヤーさんとか…」
僕は人差し指同士をくっつけたり離したりしながら小声で囁きました。
李衣乃さんは目を細めて僕を見ると、
「泳げないんでしょ?」
と、にやっと笑いました。
ぐさっと突き刺さりました。
図星です。
申し訳ありません。
しょぼんとしている僕を、李衣乃さんはケタケタと笑います。
「李衣乃さんは泳げるのですか?」
「そ、そんなの、当たり前でしょ?普通よ普通」
そう言うが早いか、さっと前を向いてしまいます。
そうですよね。
皆さん泳げますよね。
「何を張り合っとるんじゃ、馬鹿垂れが。
池を泳いでどうする。
ボートか何か借りれば良かろう?」
ヤーさんのおっとりとした声に、僕らは思わず顔を見合わせました。
ボートを貸してくれる人物といえば…
「「動物園の辻さんだ」」
(その弐)
「マサちゃん、今日はどうしたい?」
動物園に行くと、辻さんは丁度清掃のまっ最中でした。
僕達に気付いくと、つなぎ姿で手を振ってくれます。
その後ろをよたよたと付いて行くのは、灰色と黒の産毛をそよそよ靡かせる1匹の大きな雛。
その後ろには、黄色と黒の産毛をふわふわと靡かせる、3匹の小さな雛の集団です。
辻さんが止まると、皆がぶつかり合って止まるので、今現在渋滞が起こっています。
小さな雛たちのつぶらな瞳に、僕は胸が熱くなりました。
今度、フラミンゴさんへも成長具合を話をしてあげたいです。
「マサちゃん?」
「あ、その、先日は、どうも有難うございました。
本日もちょっとお願いしたいことがありまして」
僕が頭を下げると、辻さんと雛たちは不思議そうな顔をしました。
「ボートを借りたいだって?」
「はい。亀の池の水質調査をしたいのですが、奥まで入れないもので」
僕は、打ち合わせ通りに喋ります。
汗がたらりと垂れても、辻さんの方が汗だくなので大丈夫でしょう。
勿論、調査の道具も借りてありますので全てが嘘というわけでもありませんが。
ボートを借りられて、上手くいけば良いのですが。
警察の特権を悪用しているようで良心はちくちくしますが、孤島で一人ぼっちの亀さんを思えば何くそです。
「小さい物で良いので、お借りできませんか?」
辻さんはあったかな?と首を傾げながら園内の奥へ進んでいきます。
海の無いこの地域で頼りになりそうなのは辻さんくらいです。
僕はドキドキしながら後を付いていきます。
その直後、
「こら、トサキン。
なんでこんな所で油売ってるの?
最近いないと思って、こっちは心配してたのに」
李衣乃さんの甲高い声が園内に響き渡った途端、動物達は驚いたのか、一斉に視線をこちらへ向けました。
枯れ草の上で昼寝をしていたトサキンは飛び上がり、李衣乃さんを見つけるや否やぎょっとした顔をしました。
これはまずいと悟ったのでしょう。
そのまま、すうっと姿を消してしまいました。
僕は李衣乃さんの声に驚き、盆踊り姿勢になってしまいました。
辻さんは何の事か理解できず、ぽかんとしています。
「トサキン?」
辻さんの声に、李衣乃さんが興奮した様子で向き直ります。
「辻さん、あいつ、うちの鶏なの。
今度来ても追い返していいからね。
全く、どこ行っても勝手な行動ばっかりなんだから」
ぷくりと真っ赤な頬を膨らませています。
僕はぷっと吹き出し、辻さんは訳がわからないまま「ああ」と頷いていました。
李衣乃さんの目下の悩みは、自由気ままにあちこちを放浪しているトサキンのようです。
「なぜそれほど目の敵にするのですか?」
僕が尋ねると、李衣乃さんは、
「トサキンが出現する場所って、後から必ず苦情が入ってくるんだもん」
「苦情、ですか?」
「おかしな事が起きたとか?物が勝手に動いたとか?
いちいち怪談話になって返って来られても、いい迷惑よ」
はじめて梅さんの家を訪れた事を思い出し、なるほどな。と納得してしまいます。
確か、郵便配達員の間では幽霊屋敷と噂されているとか。
李衣乃さんの訴えもごもっともです。
僕をぎろりと睨み付けると、
「今度トサキンが勝手な行動をしてたら、容赦なく逮捕してよね」
と強い口調です。
それはなかなか難しい要求です。
僕は逮捕状に当たる程のいたずらは、いったいなんだろう?と考え込んでしまいました。
園内を進みながら、辻さんに尋ねます。
「こちらの動物園には、亀さんはいらっしゃいましたっけ?」
「うちんとこは今は陸亀しかおらんが?見るかい?」
「よろしいですか?お願い致します」
専門家に聞いた方が話は早そうです。
僕は、折角来たのですから知識も伝授して頂いてから望もうと考えました。