五章
――やった!?
その手には確かな手応えが残っている。ロードの炎はモルガを切り払った瞬間に消え去っていた。なので、その血を蒸発させることなく、飛び散らせたことを彼女に予想させた。それを確認しようと振り返った、その時。
「小娘ぇ!」
モルガは左肩から右の脇腹まで大きく切り裂かれており、血の流れた痕がしっかりと見れた。だがしかし、傷は深いはずなのに、彼は倒れない。倒れるどころか、ソーダを右腕一本で持ち上げていた。
――まずい……。
先ほどの無理が祟ったのか、上手く魔法が使えない。それどころか手に力も入らず、刀身のない剣を取りこぼした。ソーダは悔恨を胸に、しずかに目を閉じた。
「う、あ、うぐああああああああああああああああ」
突如、あがった叫び。それと共にソーダは解放された。腰から地面に落ち、「きゃん」と小さく声を漏らした。
咳きこみながら目を開けると、モルガが右腕を押さえていた。手首からさきがなく、それはソーダの足元に転がっているのだった。気味の悪くなったソーダは、そのままの姿勢で慌てて後ろに下がった。
モルガの方に目を向けると、剣を振り上げた様子のビクスがいた。彼の腕を切り落としたのは、彼女だったのだ。
「魔法の腕が立つ貴様ならば、利き腕がなくともどうにでもなるだろう。傷も癒えれば痛みなど引いてしまう。人は痛みを忘れるものだ」
ソーダは一瞬、彼女が誰なのかわからなかった。それほどまでに、雰囲気も言葉づかいも、全てが別人のようだった。
「なにが、言いたい……!」
痛みに堪えているのか、モルガは声を震わせていた。よく見てみると、切り取られた手から出血はない。
「つまり、貴様を裁くには、四肢を奪うか、首を撥ねるか。そのどちらかを選ぶしかない、ということだ」
うう、と小さく呻きを漏らしながら、モルガは後ずさる。恐怖に引きつった顔には、最初の威勢はなかった。
右腕の傷口は、高熱によって焼かれた痕があり、塞がっていた。炎熱に耐性があるとはいえ、度を超えれば負傷する。モルガも初めに言っていたことだ。
それでは、ビクスの魔力とその制御力はどれほどのものなのか。ソーダは最悪の仮想――ロード並みの魔力とモルガ並みの制御力――を立てると、戦慄を覚えた。
「謀反の罪は重い。だが、この私を追い詰めることができたのは評価に値する。よって、どちらがいいかを貴様に選ばせてやろう」
ビクスがほほえみを浮かべた。ソーダはその表情に寒気を覚えた。これが、獅子姫の本来の姿。
「俺は……、俺は! 誇り高き炎の民、モルガ・ナイトローズ! たとえ相手が魔王であろうとも、信念を貫く覚悟がある!」
モルガは左手で自分の剣を拾い上げると、新たに数十の狼を作り上げた。この恐ろしいまでの精神力は、いったいどこから湧いてくるのか。ソーダは初めて、相手に対して畏敬の念を覚えた。
そして、モルガは狼とともにビクスへ突貫する。
「その心意気は良きことだ。確かな信念を感じる。ただし――」
流れるようにビクスが動いた。モルガの眼前にまで迫り、剣を一閃させる。そのあまりの速さゆえに、モルガは剣を振るうことすらできなかった。いや、一連の動作を彼が視認できたのかさえ、あやしいものであった。
「方向さえ、間違っていなければの話だがな」
首筋から血が噴出する。モルガは断末魔の叫びすら上げられず、立ったまま絶命した。やがて前のめりに地面へ倒れ込むと、血だまりを作り上げた。
冷酷な断罪。だが、そこに王者たる気質を感じさせる。
ソーダは生唾をのみこむと、ビクスへむけて一声かけた。
「そこまで……、殺すことまでなかったんじゃない?」
やや震えた調子の声に、少し情けなく感じた。ビクスと目が合い、緊張が増した。
「それはつまり、モルガを許せということか?」
ビクスの眼光が、一層に険しくなる。空間を押し潰さんとする、この圧迫感は英竜以上のものと言えた。
「奴を許すということは、如何なる反逆をも許すことになる。内紛を抱えながらでは、水の民とは戦えぬ」
それは、獅子姫に異論を持つ者が、モルガ以外にもいる可能性を暗に示しており、同時に現状の厳しさも伝えていた。やはり、目の前にいる凛とした女性は、どこまでも王たる人物なのだった。
ビクスちゃん。そう呼ばれていた友達はもういない。目の前にいるのは、魔王と呼ばれる圧倒的存在だ。
ソーダは立ち上がり、刀身のない剣を拾い上げた。そして、自分の本来の目的を思い返すと、言葉にして告げる。
「魔王ビクス・バイト・レッドベリル! このソーダライトと、手合わせを願う!」
ほう、とビクスの口が動いた。
ソーダはビクスの返事を待たずに行動を起こした。ビクスの周りを鋭利な氷塊で取りかこんで襲わせる。幾重ものつめたい刃が、魔王に迫るなか、ソーダ自身が振るう刃も混ざっている。
自分がどれほどの力を持っているのか。ただそれだけを確かめる戦いがはじまった。
ソーダは小さな村で生を受けた。両親は普通程度の魔力を持った普通の人間であり、生まれる子も普通の女の子が生まれるはずだった。
だがしかし、生まれた子の力はあまりにも特殊であり、強大であった。
氷魔法の力はたしかに、水魔法よりの力だ。しかしながら、ソーダの場合は強力な魔力も持ち合わせて生まれたがために、全てを凍らせてしまう。水魔法を妨げてしまう力となってしまっていたのだ。
それゆえに、村全体からは忌子として扱われた。両親にすら、そのような目で見られていたのだ。ただでさえ、扱う魔法の種類によって戦争が起きている世の中だ。彼女のような異質な存在は、余計に気味悪がられた。
生まれ落ちた時から暗澹たる感情の渦に巻きこまれ、それに耐えきれなくなった彼女は、七つの頃に村を抜けだした。
幼い身一つでさまよったすえに、亜神ニジャと出会った。不幸と共に生まれた彼女にとって、唯一無二の幸運と言えた。
亜神ニジャに育てられていくうちに、不幸の元凶たる氷の魔法を使わずに生きてゆくことを彼女は決意した。どんなに過酷であっても、武術を亜神ニジャに請うた。剣術、槍術、徒手空拳。小さな身体に様々な技量をたくわえた。
また、その一方で、鬱々たる感情を発散しているようにも見えた。現に、武術を習い始めてから、彼女の性格は明るくなった。
彼女が十四の歳をむかえた頃、自分の魔法は呪われているのでは、と疑いはじめた。少しでも気になってしまったら発散せずにはいられない、というくせがついてしまったようで、呪いを解くための旅に出ることを決意した。
亜神ニジャは氷魔法が呪いによるものでは無いことを知っていながらも、その強い意志を止める術を知らなかった。仕方なしに、英竜の住処と愛草の群生地を教えた。
そして、いつでもこの場所に戻って来られるように、コンパスを一つ。彼女を守ってくれるように、名剣を一振り。彼女に与え、見送ったのだった。
旅の果てに、解呪の法をすべて試したソーダだったが、もちろん変化はなかった。氷魔法が呪いによるものでないとわかっても、彼女は絶望しなかった。旅の終わりと同時に、帰る場所があることを知ったからだ。
長い旅路に心身を鍛えられ、彼女は成長していた。
しかし、魔法を使わない期間があまりに長かったため、本来ならば自然と身につくはずだった『氷結耐性』という能力が著しく欠損してしまった。それは、氷魔法を満足に使えないばかりか、自分自身を死に追いやる可能性を十分に秘めていた。
だが、ソーダは別に構わなかった。
この先、氷の魔法を使うことはほとんどないと感じていた。剣のみでも十分に戦えるという自負があった。もし、本当に困った時に直面したとしても、その強大な力を使えばなんとかなると、思っていたからだ。
やがて、その自負と元来の強い好奇心は、魔王に挑戦するという愚かな思考に辿りついた。
一つの試練を乗り越えた自分が、どれほど成長したのかを知りたくなったのだ。
そして今、ソーダはこの考え方を後悔した。
制御できない力で勝てるほど、世界は甘くなかった。
彼女はまだ、未熟だったのだ。
数瞬の間で、ビクスとの決着はついた。
ソーダの氷は瞬時に蒸気へと変わり、わずか二合で剣はその手から離れる。
首筋に刃を当てられた。
「貴様の持っている魔力量は、私のそれに匹敵することだろう。しかし、効率の悪い使い方は、それを無下にする」
ソーダはすでに満身創痍だった。自らが放つ冷気によって動きを鈍らせていたというのもあるが、それは言い訳にすらならない。魔法を使いこなしてさえいれば、こんな事態には陥らなかったからだ。
完全なる敗北を前に、ソーダは死を受け入れた。
しかし、ビクスの剣はソーダの首を刈り取ることなく、腰の鞘におさめられた。
「勇者ソーダライト・ディセンバーフォウスよ。私と対等に話せるだけの力と仲間を引き連れてくるがよい。その時、我らは始めて会合するのだ」
ソーダはなにを言われているのかわからず、呆然とした。かけられた言葉を心の内で反芻し、少しずつ理解していく。
「今回の謀反は、ロードが解決させた。それで十分であろう? 私は氷魔法などという珍妙な魔法など、いまだかつて見たことがない」
「姫様……」
ソーダは笑みを作った。自分と共に過ごした頃の記憶を、彼女も持ち合わせていると確信できたためだ。
「ありがとね、ビクスちゃん。お菓子で釣られちゃったことは、ずっとずっとずっと、黙っといてあげるわ」
頬を赤らめたビクスはすぐに顔を背けた。
「こっ、呼称には、気を付けることだ。馴れ馴れしい態度は、誤解を生むぞ」
少しだけ上ずっている声にソーダはまた一つ笑みを作る。それを見守るロードもどこか満足気に笑う。
「それから、ロード。貴様を将の位から外すこととする」
唐突な解雇宣言に、ロードはたじろぐ。反論を口にしようとした時、ビクスのほうが早く言葉を重ねた。
「代わりに書記官として私の行動を逐一、記すがよい。私の勇姿を文字に変えて、後の世に伝えるのだ」
それはつまり、常に自分のそばにいて、私を守れということで間違いないようだった。
ロードは歓喜のあまりか、大粒の涙を流した。意味をくみ取ったソーダは腹を抱えて笑った。
ひとしきり、笑い続けたソーダの視界に英竜の無残な姿が映った。その瞬間、ソーダの表情に陰が差し込む。
さらに時を同じくして、遠くから雄叫びのような音が響いた。おそらくは、モルガの援軍とやらが到着したのだろう。
「さて、外の連中を片づけるか」
「はい、姫様!」
ビクスとロードが走りだそうとした時、ソーダはふらふらと英竜の首に近づいていった。
「英竜……」
嘆きを含めた呼びかけだった。
「ソーダ、お前は亜神ニジャのところに行くんだ。結果を、彼に伝えておいてくれ」
いたたまれなくなったロードは、ソーダに言った。
「うん、そうするつもり。でも、もう少しだけここに居たい」
言葉による応対はあったが、心が伴っていない。ソーダの反応は薄かった。
今のソーダに何を言っても無駄に終わる。ビクスはそう判断したのか、「行くぞ、ロード」という落ち着いた声音を連れて、洞窟の外へ向かって駆け出した。
ロードは慌てて二つ返事をしてビクスに続いた。それでもソーダが気になったのか、何度か振り返る。だが、ソーダは二人を見送ることすらなく、ただただ英竜を眺めていた。
二人の姿が見えなくなった頃に、ソーダは呟いた。
「バイバイ」
その小さな呟きは、誰に対してのものだったのか。それはソーダ自身にもわからなかった。
ソーダは静かに、英竜の亡骸を抱きとめた。
そして、モルガに賛同した者達はビクスによる制裁を受け、乱は終わりを告げた。
ビクスとロードは、その日の内に英竜のところへ戻った。しかし、そこにソーダの姿はなかった。二人が帰路につこうとした時、この地ではあまり見ることがないとされる、雪が降った。
ゆらゆらと舞うように降りる、ぼたん雪。
空を自由に踊るさまは、誰かに似ていたという。