四章
古城を離れてから、六日目の朝を迎えた。
旅支度を終えた三人は、亜神ニジャの住まいから転送石の洞窟に向けて出発した。ニジャは名残惜しそうな表情をしていたが、「気を付けるんじゃぞ」と言葉少なに三人を送り出したのだった。
ロード達は半日かけて進んでいくと、ある群れに遭遇した。
「うげぇ……。気持ち悪い……」
というのはソーダの感想で、ロードもほとんど同じ感想を持った。遭遇した群れとは、兎の頭を持つ蜘蛛だったのだ。兎の名残と言えるものは大きさと頭くらいで、獰猛な目つきは明らかに血肉を欲している。
見える範囲で十数体はおり、最前列にいた兎蜘蛛が飛びだしたのをきっかけに、一斉に襲いかかって来た。
ソーダは飛んでくる兎蜘蛛を、鞘に収まったままの剣ではたき落した。次いで、かさこそと走り回る彼らを打ち倒していく。ビクスは一匹ごとに「ごめんなさい」と謝りながらも、ソーダと同じく剣を振るって打ちのめした。
兎蜘蛛は二人がのしてしまうため、ロードはほとんど立っているだけだった。かといって、自分が前に出たら、邪魔をしてしまうか足を引っ張るのではないかという不安があったので、進んで前にも出られない。しばらくすれば、二十を超える兎蜘蛛のキメラが気絶した。突っ立っていただけのロードは、自分をすこし情けなく思う。
何事もなかったかのように歩き始めた彼女たちは、自分たちの剣技について、会話に花を咲かせていた。
「ソーダちゃんの太刀筋は鋭いですね。わたくしの振りよりずっと速いから、見習いたいです」
「そ、そう? ビクスちゃんのは型がきれいで無駄がないから、アタシはそっちの方がちょっとうらやましいかな。どうやって振ってるの?」
「えっと、呪いをかけられてしまってからは、剣技に関する知識は覚えてなくて……。全部無意識に振ってます」
「ふーん。無意識に振れるまで、よーく鍛えたみたいね」
会話に加われないロードは、居心地の悪さを感じながら付いて行くのだった。
同日の夜。洞窟までの道のりは、日中に歩いただけで辿りつける距離ではない。なので、三人は日が昇るまでのあいだ、休息をとることになった。
二人が寝静まったのを確認したロードは、彼女たちから少しだけ離れた場所まで移動した。
そして帯剣を引き抜くと、素振りを始めた。振り上げては振り下ろす、という単純な素振りを繰り返す。
兎蜘蛛の時もそうだが、このままでは二人の足を引っ張りかねないとロードは感じていた。魔法は同族にほとんど通用しない上、ソーダを巻き込みかねない。そのため、使う機会は極端に減ることだろう。足手まといにならないためにも、少しでも強くなりたいという決意があった。
一心不乱に剣を振り続ける。
「相変わらずダメね。なにやってんのよ」
出し抜けにぶつけられた声。ロードは心臓が飛びだしそうになるほど驚いた。素振りを中断して振り返れば、ソーダが眠たそうな目でこちらを見ていたのだった。
「型を身に付けようとして必死になるのはいいけど、状況を想定していないわね。漠然と振ったところで意味ないわよ? それと、型の意味も分かっていないわね。なぜそう振るべきなのかを少しも理解してない。やっぱり才能ないわ」
最後に、彼女は大きなあくびをつけたした。ロードは羞恥心と痛い所をつかれたことに苛まれながらも、なんとか言葉を絞り出した。
「何しに来たんだよ、寝てたんじゃないのか?」
「別にぃ。コソコソと成果の上がらなさそうな努力をしてる奴がいたから、いじってやろうと思っただけよ。ささっ、どうぞ続けて下さいな」
「そこまで言われて続けられるか!」
大きく反論したが、返事はなかった。ソーダはそっぽを向いたままその場に座る。
しかたなしに、ロードは開き直って素振りの続きを始めた。やりにくさは残っているが、懸命に振るう。一通りの型を振ってから、相手を想定することも試すことにした。
ひとまずはソーダを仮想相手として選んだが、なかなか振れない。というのも、想像上の彼女にすら、打ち負けてしまう場景しか思い浮かばないのだ。四苦八苦しながら、剣を振った。
ぼんやりとその姿を眺めていたソーダは、突として「ねぇ」と声をかけた。ロードの剣が止まる。
「ビクスちゃんはあんなに強いのに、なんで呪いなんてかけられちゃったのよ?」
彼女の問いかけの答えを、ロードは知っていた。ビクスとロードの二人だけが起きている時、彼もほぼ同じことを尋ねたのだ。
話していいものなのか。やや考えを巡らせたあと、ロードは口を開いた。
「姫様は部下を信頼している。規律を破るものに対して厳しい処罰を与える時もあるが、基本的には寛容だ。あと、姫様は大の甘党として有名だ。角砂糖にすら目がない。これは炎の民にとっては誰もが知っている基本的なことだ」
「うん? だから?」
「まぁ、それを踏まえたうえで言うとだな……。めずらしい菓子を出された姫様はそれを一気に平らげたらしい。そして突然眠気に襲われ、意識を取り戻したら今の状態だった、という話だ」
少しの間を開けて、彼女は腹を抱えて笑いだした。
「なにそれぇ? ビクスちゃんかわいいんだけど」
「わ、笑いごとではない。これは姫様の信頼を裏切るという極めて悪質な行為で……」
地面をぺしぺしと叩きながら、なおも笑い続けるソーダ。ロードはため息を一つ吐いた。
「ったく。お前をある程度は信頼して話したっていうのに」
「だってだってだってぇ、噂に聞いてたのと全然ちがうし、かわいいし? 元に戻っても、あの調子なの?」
楽し気に話す彼女とは対照的に、ロードの表情がすこし暗くなった。
「姫様は、孤独な人だ」
ソーダは黙り、疑問を目で問うた。ロードはそれに応える。
「たしかに今は、笑ったり泣いたりしている。だが、本来は安らかに眠ったことがないと思えるほど、常に気を張りつめていた。……まぁ、菓子の時以外はな」
ロードは苦笑を見せると、話をつなげた。
「幼いころに先代を亡くしてから、姫様は強く在られることを望まれた。周りの期待もあったせいかもしれないが、しかしそれ以上に、姫様は自覚していたんだ。王たる役割を、自分に課せていた。それゆえに、余人を寄せつかせぬ雰囲気が自然と身についてしまったようだった。加えて、女性と接する機会が極端にすくなかったからか、姫様には同年代の友と呼べる類が存在しない」
「ふーん。それで孤独な人ってわけか。でもさ、アンタみたいなのがいるんなら、別に孤独ってわけじゃないと思うけど?」
「同性にしかわからないこともあるだろう? 俺のような男には言えない悩みだってあったはずなんだ。それでも、姫様は一人で過ごしてきた。いくら慕われている者に周りを囲まれていたとしても、孤独には違いない」
「まぁ、確かにね。そういう孤独もあるのかぁ……」
「姫様が元に戻った時、お前は驚くだろうな。それだけ今の姫様とはかけ離れている」
「それはそれで楽しみだけどね」
お互い、すこしだけ笑いあった。流れる時間がどことなくやさしい。
そして、やにわに物音がなった。二人は慌ててその方角に顔を向ける。
「ロード? ソーダちゃーん! どこにいるのー?」
ビクスの涙ぐんだ声が響いた。ソーダがほっとした様子で立ちあがる。
「今のビクスちゃんは、けっこうお気に入りなんだけどねぇ」
いたずらっぽく笑いながら、ソーダはビクスの元へと軽快に駆けていった。
彼女の言葉に、ロードはまんざらでもないと感じた。しかし、そういうわけにもいかないのが現状だ。炎の民は彼女に率いてもらわないと水の民に後れをとってしまう。ロードは強くそう思っていた。
それにしても、ソーダと話していると自分がなんのために戦っているのか分からなくなっていた。彼女は炎の民ではない。だが、少しずつ自分たちと打ちとけあって来ている。もう、彼女を勇者だからといって警戒することはない。
掴んでは離れる、未知の感情に戸惑いを覚えながらも、ロードは二人の元へと歩んだ。
七日目の昼前、三人はようやく転送石のある洞窟の付近にまで辿りついていた。
草原の中に不自然なほど大きな穴がぽっかりと口を開けて待っている。その少し先には巨木があり、一つの目印となっていた。
「改めてみると、でっかい穴よねぇ。誰かさんのせいで」
「ぬぅ。……愛草さえ残っていれば、穴を開ける必要はなかったかもな!」
「うっさいわね、急ぐわよ!」
ソーダはビクスの手を引っ張って先頭を歩いた。ビクスはあたふたと彼女の歩度に合わせ、ロードはため息まじりにあとをついて行く。
転送石の前まで行くと、三人は同じ手順で英竜の洞窟にまで転送した。そして、足早に広間へと急いだ。
「とにかく、英竜に協力してもらうように頼むわよ! 味方になって貰えれば心強いわ」
「ああ、そうだな。しかし、愛草が残っていれば、そんな手間はいらなかったんだがな」
「しつこいなぁ、ねちねちと! この粘着質野郎!」
「そりゃ、小言ぐらい言いたくなるだろ! この、じゃじゃ馬娘!」
「あぁん? やんのかコラ!」
「二人共、ケンカはだめですよー?」
この数日間で慣れ親しんだ掛け合いだった。ののしり合っているものの、ロードは本気で言っているわけではない。それはきっと、彼女の方も同じであり、ビクスだって心配しているわけではないのだろう。
目に見えないなにかが見えた。それを実感したロードは、よく分からないまま微笑む。
だが、それもつかの間だった。唐突に漂ってきた悪臭が、それらを崩れさせた。
「なんの臭い……?」
鼻を押さえながら、ソーダが呟く。
焦げ臭さの中に、生臭い匂いが混じっている。あまりの不快感に、ロードは吐き気を催した。
三人は一様に駆けだした。呼吸を乱しながら、英竜の広間につく。
目に映る光景が信じられず、ロードは息をのんだ。
「そんな……」
確かに英竜はそこにいた。ただし、変り果てた姿となって、だ。
首は両断されており、全身が焼け焦げていた。それだけで誰の仕業かが、ある程度は推測できてしまう。しかし、ロードは信じたくなかった。
炎の民がこのような真似をするわけがないと、そう思いたかった。
「よぉ、ロードに姫様。久しぶりだなぁ」
英竜の方から掠れた声がした。そして、首なしの亡骸のうしろから、精悍な体付きをした男があらわれた。狼の毛皮をふんだんにもちいた外套がよく似合い、ゆっくりとした足取りもあいまって、威風堂々としている。
特徴的なその淡紅色の長髪を確認したロードは、落胆と絶望を胸に一歩踏み出す。
「モルガ! なんでお前がここに!」
「月並みなことしか聞けないんだなぁ、ロードよ。解呪の方法と言えば、普通は三つしか思い浮かばないだろ? 仮に逃げられたとしても、行き先を限定できる」
笑みを浮かべるモルガは腰の帯剣を引き抜いた。切っ先をロード達に向ける。
「さて。今度こそ、おとなしく捕まって貰おうか」
ロードは剣を引き抜いた。最後まで抵抗する意思を、見せつけたのだ。モルガは呆れたように、ため息を一つ吐いた。
「抵抗するなよ。もうじき、英竜の頭を運んだ連中が帰ってくる。そうすりゃ、完全な包囲網が出来上がる」
「そうなる前に、お前から血を奪い、姫様を元に戻す! だいたい、英竜の頭を何に使うつもりだ! 殺すことはなかっただろうに!」
急にモルガから表情が消えた。軍人らしい、厳とした空気を感じ取れる。
「英竜の血は万能薬。固い表皮や骨は、盾と鎧になる。牙や爪で武器が作れる。余すところなく、戦争の役に立つだろ? それだけだ」
ロードは歯を食いしばった。剣を持った手に、余分な力がはいる。
「それはそうと……、さっきからそこで呆けてるのは誰だ? 見ない顔だなぁ。なにより、その髪の色は……」
モルガの視線がソーダに移った。彼女は答えず、ふらりと歩きだした。俯いたまま、不安定な足取りでモルガとの距離をつめていく。
「アンタか……? アンタがやったのか?」
ちいさな声が響いた。ささやき、といってもいいほどの声量だったが、やけに耳に残る。ロードは不安を感じたが、彼女にかける言葉が思い当らなかった。
「ああ? だから、お前は誰なんだよ?」
ソーダの手がゆっくりと腰の剣に移る。
ふいに彼女の顔が上がった。
「答えろ!」
発声と共に駆けだす。そして、引き抜くと同時に斬りかかった。硬質な音が空間を駆けぬける。ソーダの剣は受け止められ、二つの刃がせめぎ合った。
「英竜を殺したのは、アンタか!?」
「お前、会話を聞いてなかったのか? だったら、どうだって言うんだ?」
「殺す!」
お互いが相手の剣を弾いた。それをきっかけに剣技の応酬が続いた。どちらも負けず劣らずの技量をもっており、容易には決着がつかないように思えた。
しかし、怒りにまかせたソーダの剣は大振りであったため、一刀ごとにわずかな隙を作っていた。モルガはその隙を見逃さず、巧みに彼女の剣を受け流すと、腹に蹴りを入れた。ほとんど無防備であったのだろう、ソーダは苦痛の声をもらしながら尻もちをつく。
モルガが追い打ちをかけることはなく、むしろ彼女たちから距離をとった。あくまで時間を稼ぐ算段のようだった。
「なかなかの腕前だなぁ。ロードと姫様が無事でいられたのはお前のおかげってか? あの二人だけだったら狼に食われててもおかしくないからなぁ」
嘲謔の色が濃い笑みを浮かべるモルガを見たソーダは、その新雪を思わせる頬を紅潮させた。そして再び駆け出そうとした彼女を、ロードが慌てて肩を押さえ、止めに入るのだった。
「ソーダ、落ち着け! 取り乱して勝てるような相手じゃない!」
「はなせはなせ、はなせぇ!」
子供のように駄々をこねる彼女を見て、モルガは声を大にして笑った。
「はっはっはっは! ロードよ、子守をするのも大変だろう?」
ロードはなおも暴れる彼女を必死に押さえる。落ち着かせるための言葉や行動を探すのだが、思い浮かぶことはなく、顔をゆがめるしかなかった。そんな中、ビクスが彼女の前に立つ。
「落ち着いて、ソーダちゃん」
ソーダをやさしく抱きとめる。彼女の身体から力が抜けたのを感じたロードは手を離した。同時に、モルガへと注意を向ける。
「でも、アイツは……!」
「ソーダちゃんが怒るのは、正しいと思う。きっと英竜も嬉しく思っているはずだよ」
ソーダの怒りによる震えが完全におさまった。
「でもね、そのせいでソーダちゃんが危ない目にあったら、悲しいと思うの。怒りも悲しみも、今は鎮めよう? 感情に流されるのは、今を乗り越えてからでも遅くはないと思うの」
「……うん」
抱きしめあう二人のやりとりは、本当の姉妹のように見える。もちろん、血による繋がりはない。髪と目の色の違いがなによりの証である。だが、この二人は何らかの繋がりを持っている。たしかに存在している。
ロードは、誇りの象徴たる赤髪紅眼が、二人の髪と目の色の違いが、煩わしく思えた。初めて持ったその感情にとまどい、集中力が霧散しそうになる。
「とんだ茶番だな、おい」
呆れたような声が飛んできた。ロードは不愉快なそのかすれた声に、改めて怒りを覚える。
ビクスとソーダは離れると、モルガを見据えた。先ほどまでの無防備ともいえる感情は、その瞳から消えていた。
「ふん、めんどうな目つきをする。だがな、少し心構えを変えただけで、状況までもが変わるわけではない。そうやってもっと時間を稼いでもらえれば、俺は助かるんだがなぁ」
ひとり悦に入っているモルガを見据えながら、ロードが前に出る。
「いや、そんなことはない。俺も十分に時間はもらったさ」
ロードの一言によってモルガの笑みは消えうせ、同時に炎が彼を円形に取り囲む。突然にあらわれた炎は猛り狂う。そして、彼に何も言わせないまま、膨大な熱量を噴出させた。轟音を連れて突きあげる炎は、柱となった。
周囲の空気を吸い上げながらいきおいよく昇る炎のなかに、うっすらと人影が見える。ロードは剣を引き抜き、影にむかって投擲した。剣先はまっすぐに影を捉えており、それこそ吸い込まれるように空を走った。
剣が炎のなかに入っていった瞬間、ロードは祈った。
これで全てが終るように。またあの古城へ、ビクスと戻れるように。
しかし、轟々たる炎のなかに、硬質な音が鳴り響いた。ロードの剣は放り出されるように炎柱から姿を見せると、軽い音を立てながら転がった。
炎柱の勢いはたちまち弱まり、それにつれて笑い声が聞こえてきた。
「あざとくなったじゃないか、ロードよ。だが、そこの小娘に気を使って力を抑えすぎたようだな」
黒煙のなかから再び姿を見せたモルガには一切の外傷が見当たらず、ロードの攻撃が無意味であったことを示していた。
モルガは唐突にその場で剣を薙いだ。淡紅色の円が十個ほど、地面に描かれていく。
「全力でなければ、俺を止められんぞ」
円が強い輝きと共に爆ぜる。花弁のような火花を散らしながら、淡紅色の狼がそこにあらわれた。いや、それは狼を象った炎であった。しかしながら、その炎の揺らめきは、本物の狼の毛並みとそん色がないほどに繊細だった。
「あらあらあら。魔法ってば、そういう使い方もできるんだ」
感心した風な声音でソーダは言ったが、額から汗が伝っていた。魔法に疎いソーダでも、淡紅色の狼からは不吉なものを感じ取っているのだろう。
事実、ロードとビクスの二人はその魔法を見てひどく狼狽していた。
「ロ、ロード、あれは……」
「まずい、まずいですよ……」
後ずさり始めた二人をソーダは怪訝な顔つきで覗きこむ。
「炎熱に耐性があるなら、アンタらは平気でしょ? 何を怯えてるのよ?」
ロードが答えにくそうにしていると、不意にモルガが盛大な笑い声をあげた。
「たしかに俺達『炎の民』は、炎熱に対して強い耐性を持っている。だが、それには限界があってなぁ、『度』を超えれば負傷してしまうんだ。俺の魔力制御を持ってすれば、その『度』を超えることが出来る! ロードであろうが姫様であろうが、それは関係ない! 俺の狼は、全てを食らう!」
狼が一斉に吠える。そして、三人に狙いを定めた。
「……じゃぁ、この狼はどこに触れてもヤバいってこと? アンタら二人でも?」
やや間をあけて、ロードが頷く。
「……そうだ。あれに触れた者は全て消し炭となる。それがあいつの、モルガ・ナイトローズの全力だ……!」
モルガは剣を高々と掲げた。狼が一斉に構える。
「ゆけ! 奴らを炙れぇ!」
狼たちは弾けるようにロード達に向かって駆けだした。風を切って飛ぶように走り、淡紅色の火花を散らす。その姿は実に華やかであり、ロードですら一瞬だけ逃げるのを忘れて見入ってしまったほどだ。
三人は逃げ惑う暇すら与えられないまま包囲された。狼たちの威力を知っているがゆえに、ロードとビクスは動きが固まってしまっている。
そんな中、無謀にもソーダは狼に向かって走りだした。いや、正確には包囲を抜けだしてモルガに挑むつもりなのだろう。飛びかかってくる狼を難なくかわすと、剣を躍らせた。それが普通の狼であったら、首と胴体がきれいにわかれていたことだろう。
だが、狼に触れた刀身は溶けてなくなっていた。あまりの高温であったため、飴細工のように溶けてしまったのだ。
一瞬の内にほとんど柄だけになってしまった剣を、驚いた表情で見つめるソーダ。呆気にとられた様子の彼女だったが、狼たちが容赦なく向かってきたため、すぐに表情を切り替えた。苦しそうな息をもらしながら、狼の猛攻を避ける。
彼女を援護したいロードであったが、ビクスの側を離れずにできることが思い浮かばない。焦りはじめた彼に指示を飛ばしたのは、意外にもビクスだった。
「ロード、固まらずに広がろう! ソーダちゃんが危ない!」
ビクスのかけた声にハッとなったロードは、頷くとすぐに行動を起こした。三人はモルガを取り囲むようにして散開したが、その三人をさらに狼たちが取り囲んだ。
モルガの方に向かうと、狼の攻撃が激しさを増し、進路の変更を余儀なくされる。三人の劣勢は変わらなかった。
「くそっ! これじゃ近づくことすらできない!」
苦悶の表情を浮かべるロードを見て、モルガは高笑いした。
「はっはっは! 良い感じにじゃれ合っているなぁ!」
ふいに、英竜が言った『ある言葉』がロードの脳裏に浮かんだ。他に頼るものはなく、ロードはその言葉をただ信じることにし、ソーダの方に向かって走りだした。彼女のそばまで行くと、ロードは息を乱しながらまくし立てた。
「ソーダ! 英竜はお前に、『強大な魔力を持った者』と言っていたな? 魔法が使えないわけではないんだろう? なら、魔法を使って、なんとか相殺できないか? お前の魔力は英竜のお墨付きなんだろ!?」
ロードの提案に、とうの彼女は表情をくもらせた。
「使えるけど……。けど、けど!」
狼が二人の間に割って入る。それを避けつつ、会話をつなげる。
「けど、なんだ!」
「どうなっても知らないわよ! なんたって上手く扱えないんだからね!」
「なんだっていいさ! ここまで来て、あいつの思い通りなるのだけは嫌だ!」
そこで言葉を区切り、少しあらたまった口調で「頼む」と言った。
彼女の表情に困却の色が差しこまれた。視線をビクス、モルガへと走らせ、すこし呻く。
やや間があいてから、彼女は叫んだ。
「ああ、もう! どうにでもなれぇ!」
ソーダが刀身の無くなった剣を上に掲げて振り下ろした次の瞬間、眩しすぎるほどの白い光がその場を包んだ。
つづいて、ロードのすぐ左脇におもたい音と振動が走った。肌に触れるのは、つめたい空気。視線を左にうつせば、白い輝きを放つ半透明のなにかがあった。それはロードの質量とそう変わらない、巨大な氷塊であった。
白息をもらしながら顔を上げると、さらに大きな氷塊がいくつも浮かんでいた。否、それらは落ちている最中だったのだ。一つの氷塊が地面を激震させたのを皮切りに、後続がそれに習った。大地を揺るがす衝撃は立っているのが困難なほどであり、腹をえぐるような轟音は全ての情報を遮断させる。
最後の一つが空間全体を盛大に震わせると、一気に静けさが戻った。
ロードはくらくらとする頭に活を入れながら、叫ぶ。
「姫様! 大丈夫ですか!?」
周りに視線をめぐらすが、見えるのは地面に突き立つ氷塊のみだった。
「こ、ここです~。ここですよー!」
氷塊の頭から、ビクスが身を乗り出した。四方を囲まれていたらしく、必死になってのぼっている。ロードは駆け寄りながらも、その姿を見て安堵した。
「うまくいったみたいね……」
ビクスを氷塊から降ろしているところで、うしろから元気のない声が届いた。振り向けば、少し青ざめた顔色のソーダがいた。
ビクスは満面の笑みを浮かべて彼女に駆けよる。
「氷の魔法! ソーダちゃん、すごいですよ! こんなの初めて見ます!」
「こんな力を持ってるんなら、初めから使ってくれれば……」
「うっさいな! アタシは寒いのが苦手なの!」
切り返したソーダの表情は、いつになく真面目なものだった。よく見れば、身体を小刻みに震えさせている。ロードはそこに違和感を得た。
「まさかお前……、自分の魔法に耐性が無いのか?」
ソーダの口が開きかけたとき、広間の中央にあった氷塊が一斉に蒸気へと変り果てた。湯気の立ちこめる中からあらわれたのは、やはりモルガだった。
「なんて荒々しい魔法だ。加えて氷の魔法だと? ふざけやがって」
笑みは消えうせ、代わりに険悪な顔つきを覗かせている。あからさまな怒気があふれていた。彼は無造作に剣を振ると、再び淡紅色の円をつくった。あたりを埋め尽くさんと増え続ける円の数はやがて、五十に達した。
爆ぜたあとに生まれた狼たちの体格は一回り以上ちいさくなっていた。が、その数は先ほどの比ではない。
ロードはすばやく身構えたが、それよりも早くソーダが駆け出していた。刀身のない剣を振って氷塊をつくりだす。今度は上ではなく前方につくったため、振動はそれほどなかった。
氷塊をつくりながら巧みに狼の群れをかわし、モルガの元まで辿りついたソーダは、剣を閃かせた。
そう、存在しないはずの刀身を、字義通り閃かせたのだ。目を大きく開かせたモルガは――おそらくは反射的に――その軌道に合わせて剣を置いた。
軽くも固い音が鳴った。
モルガの剣を響かせ、軋ませるのは透明な刃。ソーダは氷の剣を作り上げ、剣を振るっていたのだ。
薄紅色の瞳に、吃驚の色が混じった。だがそれは一瞬のことであり、すぐさま観察の眼差しに移り変わる。
狼が二体、ソーダの両脇を襲う。が、すでに氷塊を作っていたらしく、彼女に触れることなく蒸気へと変り果てた。しかし、それでもわずかな不安があったのだろう。ほんの少しだけ、ソーダの気が逸れていた。
そんな些細な隙をのがさず、モルガはソーダの剣を弾いた。それを契機に、剣技と魔法が入り乱れる、激しい攻防が始まった。
ソーダは剣を振るいながらも、大小様々な氷をつくっては襲わせた。落下による単純な攻撃だけではない。氷の柱をつくってモルガの剣を防ぎ、氷柱の根元を極端に細くして倒れさせるなど、多彩な攻防を繰り広げた。だが、そんな工夫をあざ笑うかのように、全ては淡紅色の狼によって相殺されてしまう。
剣の技量だけならば彼女の方が上に見えた。しかしそれでも、魔法の扱いに差がありすぎた。先に息が上がったのは、ソーダであった。
「お前のその力、少し肝を冷やしたが……」
ソーダが押され始める。モルガに斬りかかる余裕は無くなり、襲い来る狼しか相手にできない。氷の剣は溶けることなく、次々と狼を切り裂いていくのだが、一振りごとに彼女の体をも凍らせていた。
守りに徹した彼女は少しずつ、後退を強いられた。
「なんてことはない。やはり時間を稼げばいいだけのことだろ? 寒さで動きがどんどん鈍ってるぞ? 自分自身の魔法なんぞに食われるとは、世話ないなぁ」
モルガの嘲笑が、ソーダの顔を歪ませる。
劣勢に陥る彼女をただ見ることしかできないロードは、この状況を打開できる策を考え続けていた。
――狼を消し去り、モルガの動きを止める方法はある。ただ、姫様や俺自身は耐えられるとして、ソーダは……。
やがて、ソーダは二人の方へと駆け出した。息を乱して二人の元に着いた彼女は剣を掲げ、巨大な氷の円蓋をつくりあげた。数体程度の狼では氷の円蓋は破壊できそうになく、少しばかりの時間を稼げそうだった。
「なんか、策はない?」
ソーダの呼吸は荒い。並はずれた体力を持つ彼女を知っていただけにロードは驚いた。しかしそれ以上に、彼女から協力を申し出たことのほうが驚きは大きかった。
モルガの援軍の到着が先か、ソーダの体力が尽きるのが先か。どちらにせよ、残された時間はわずかであるのは明白だ。ロードは決断するしかなかった。
「……モルガの魔力制御は本物だ。あの狼一匹一匹が、炎の民きっての威力を誇っているだろう。だが、繊細な制御が必要だからこそ、他の強い魔法によって制御をかき乱してやれば……。動きを止められるか、あるいは打ち消せるはずだ」
そして、それが単独で行えるのは、ビクスを除けばロードしかいない。モルガは表情にこそあらわしていないが、それなりに体力を消費しているはずである。望みは十分にあった。
ただ、問題なのはロードの魔法を発動させたあとだ。
「大丈夫よ。ヘタレの魔法くらい、相殺できるわ」
心の中を見透かされたような感覚を、ロードは得た。なぜ、という言葉すら口にできないほど、狼狽してしまっている。
ソーダは胸を張り、拳で叩いた。
「アタシを信じろ! アタシは勇者ソーダライト・ディセンバーフォウス! この程度の苦難を乗り越えずして、勇者なんか名乗ってらんないわよ!」
言いきってから、にかっと笑う。ロードの頬も、つられて緩んだ。この状況下でなぜ笑えるのか、分からなかったけれども。
「ばか、勇者は無法者の証だって言っただろうに」
馬鹿にした言い草でないことは、彼女も気付いているのだろう。すこしだけ頬を膨らませただけにとどまっていた。
「わたくしも……、わたくしも何かお手伝いします! モルガの注意を引くことくらいなら、できるはずです!」
矢継ぎ早にロードは動揺させられた。慌ててビクスと向き合う。
「だ、だめです! 姫様の身にもしものことがあったら、どうするんですか!」
ほとんど怒鳴っているに近かった。だが、それでもビクスの瞳は揺らがず、ロードを捉えている。
ソーダがまた、拳で胸を叩いた。
「よしよしよし! アタシが援護してあげるわ。どーんとアタシに任せておきなさい!」
「お前までなにを言って……」
「大丈夫ですよ、ロード。このような状況で、甘えてなんかいられません。わたくしも戦わなければならないのです」
ビクスの瞳には、強い意志が宿っていた。有無を言わせないその迫力に、ロードは押し黙る。
そして、氷の円蓋が割れた。水蒸気が立ちこめるなかに、霞んだモルガの姿がある。
「ふん、なにか良い作戦は立てられたか?」
不満気な声色だった。三人に宿る希望が、彼にも見えたのかもしれない。
「五分はもたないからね! だから急げよ、ヘタレ!」
彼女たち二人は飛びだす様に駆けた。ろくに作戦も立ててはいないはずなのだが、お互いに役割を理解しているように見えた。ロードもそれに習うことにした。余計な思考を、すべて切り捨てる。
ソーダは、モルガとロードの中間となる場所で立ち止った。彼女の先にいるモルガとは、ビクスが相対した。
「まさか姫様が俺の前に立ちはだかるとはなぁ。腕や足の一本を失う覚悟はおありで?」
「あなたのほうこそ、覚悟は決まっているのですか? わたくしが元に戻ったとき、どうなっても知りませんよ?」
剣を抜き放った彼女の言葉には、力が宿っている。やはり、モルガは不満気に舌打ちをした。
「……なら、しかたない。痛い目にあってもらいますか」
両者が身構えたのは、一瞬のことだった。
互いの虚を突くのに適した時機が、完全に一致したのだ。
初動は同時。ふた筋の光芒が交叉し、火花を散らせる。勁烈な剣戟の音は、やや遅れてやってきた。
それがはじまりの合図。
ビクスとモルガの剣は幾重もの光芒を生み、重ねるたびに火花が舞う。響き合う剣戟の音は不協和音をつくりあげ、広間全体をふるわせた。二人の技量を尽くした攻防は、一種のうつくしさを含んでいる。才だけではない。そこに費やした時間と熱誠までも感じとれるのだ。
なによりも、モルガにはさらに感嘆させられることがあった。ビクスとの激しい打ち合いのなかで、ソーダとロードに狼を襲わせたのだ。炎の民の中で、いや、この星に住まう人間の中で同じことが出来る者は、片手で数えられる程度であろう。どれほどの才覚が一人の人間に与えられているというのか。
不意に、モルガの口角がつり上がった。
「やはり、甘いなぁ」
モルガに余裕が生まれつつある。ビクスの剣が乱れているわけではない。
「人を傷つけることを恐れる甘さ! それが剣を軽くさせている!」
一刀ごとに言葉もぶつける。ビクスからは苦しい吐息が漏れるだけだ。
「呪いをかける前だって、そんな甘っちょろい考えを持っていた! だから、俺に後れをとるんだろうが!」
「わたくしにだって、考えというものが!」
「考え? 考えだと?」
モルガと合わせた剣が、ひときわ大きな音を奏でた。ビクスが少し、圧倒される。
「密かに水の民と休戦を結ぼうとするなど、誰のためになる! 奴らから家族を奪われた者達に、なんの救いがある! それだけの強さを持っていながら、なぜ先陣に立たない! あんたが本気を出せば、奴らを根絶やしにすることだって、夢じゃない!」
連撃と共に吐き出される激情は、ビクスに苦しげな表情を描かせた。死力を尽くした戦いに、モルガの感情は高まっているのだろう。彼の心の奥底に秘められた感情が、吐露されだしていた。
「奴らの滅びが平和を生む! 死んでいった者達が、報われる!」
ロードも彼の言葉を受けて、歯ぎしりをした。彼の強い信念と志が痛いほどに伝わり、彼の思いに共感してしまった自分がいたからだ。わずかに心が揺らいでしまったことを恐れた。
自分が本当に求めているのは何なのか。自身の行いは果たして正しいのか。誇り高き炎の民を語るならば、彼のほうに賛同するべきなのではないのか。
逡巡する想いが不安を呼びこみ、不安が疑念を増大させる。
しかし、そんな不安を打ち払ったのはソーダの声だった。
「アンタばっかり、被害者面してんじゃないわよ!」
目前にいる狼をたてに両断し、振り向きざまに剣を薙いでまた一頭を仕留めた。鋭利な剣光が、狼を次々に切り裂いてゆく。
「炎の民も、水の民も、アタシから言わせりゃ、どっちもどっちよ! お互いに相手が怖いから、滅ぼそうとしてるだけじゃない!」
にじむ汗がすぐさま凍りついていく。ソーダが扱う魔法は徐々に、彼女自身の体温を奪う。しかしそれでも、彼女の動きに迷いはなかった。
「使える魔法で人を区切るな! アタシらは、同じ人間だ!」
荒々しい呼吸と共に、狼を袈裟がけに斬る。ソーダが疲労困憊なのは、誰の目にも明らかだ。が、それでも彼女は止まろうとしなかった。
この場において、ソーダの働きは常軌を逸していた。ろくに使ったこともない魔法を、短時間でものにしたばかりか、ロードとビクスの二人を狼から守っていたからだ。炎や水といった不定形なものと違い、固体である氷は扱いやすいのかもしれない。しかしそれを差し引いても、激しい動きの中で味方の動向をしっかりと見極められる、視野の広さ。それは非凡な才能を見せつけていた。
そして、ビクスとモルガの剣が激突し、押し合う形になった。モルガは呻くように唸る。剣を押し合う力が、拮抗しているためだけではないように見えた。
「小娘ごときが、俺たちの問題に割って入るな!」
「アンタらだけの問題じゃないから、言ってんだろ!」
ロードはここにきて気付いた。この争いが、すべての人々に影響を与えるということを。この先の歴史に、未来に、きわめて重要な影響を与えるであろうことを。
淡紅色の狼がロードに迫る。が、一歩手前で蒸気に変り果てた。ソーダは壁となる氷塊も作っているのだが、それをも突破された時は、狼を直に凍らせて相殺しているようだった。彼女が時を刻むごとに、たしかな成長を遂げていくのが分かる。
目前に繰り広げられているのは、世界最高峰の戦いだ。剣技も魔法の扱いも、ロードとはあまりにもかけ離れている。彼がこの領域に踏みこめるのは、ただ一つだ。
魔力は練り終わった。あとは発動させるだけだった。
しかし、手を前方にかざしたところで、ソーダが片膝をついた。ロードの中に、わずかなためらいが生じた。
「ロード、お前にできるのかよ! 小娘も巻き込むぞ!」
目敏く察知したモルガの言葉によって、ロードのためらいがさらに膨れ上がる。
自らの手によって、ビクスもソーダも、全てを失う。
恐れが、ためらいをさらに増長させていく。
だが。
片膝をついたソーダが、振り返った。瞳に鮮烈な光彩を宿して。
「アタシを信じろ! ロード!!」
ロードの中で、なにかが弾けた。魔法を発動させる。その決断に、迷いはなかった。
時を移さず広間は炎獄と化した。突きあげる、けた外れの熱量。それは、初めにモルガへ放ったものとは比べ物にならない。ロードが誇る、比類なき魔力が解放された瞬間でもあった。
狼たちはロードの放った炎と同化し、天へ昇っていく。圧倒的な魔力が、他者の魔力を食らうかのようにかき消した。
しかし、炎熱に対して高い耐性を持つモルガには、視界を奪って動きを封じるだけの効果しか得られない。彼を倒すにはまだ、至らない。
ロードは叫ぶ。振り絞るように。
「いけ! ソーダ!!」
全身に冷気を纏ったソーダが、炎獄を駆ける。そして、モルガに向かって跳んだ。
大きく振り被った剣を、モルガに向かって一閃。水色の風が、モルガの脇を通り抜けた。
彼の傷口から噴出した血が、ビクスに降りかかる。