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 二章

 鬱蒼とした森。静寂の中に、木々のざわめきだけが響く。不自然なほどに均一の取れた闇は、あらゆる生命の訪問を拒んでいるかのようだ。

 かつては農耕によって栄えた地であったが、戦火の拡大によって一度は荒廃してしまった地帯でもある。現在では、人が離れることで森として再生を果たしたが、陰惨な空気だけは残ってしまい、人は寄りつかないままとなっていた。

 英竜の棲み処を目指して二日目の夜。いや、もうじき三日目の早朝に変わりそうな時間帯に、三人はその薄気味悪い森を横断している途中であった。

「ソーダ、先行しすぎだ! 戻れ!」

 ロードの声が森にこだました。

 彼から少し離れた前方には、濃紺の鎧を着たソーダの後ろ姿が、うっすらと見える。ロードの傍で松明を持つビクスは、その手を細かく震わせていた。

 揺らめく炎が闇を追い払い、かろうじて周辺を映し出す。

 ロード達一行を囲むのは草木などではなかった。おびただしい数の死者が、三人を円形に囲んでいた。髪は抜けおち、腐肉からただよう異臭が鼻をつく。ロードはその醜悪さに、思わず顔をしかめた。

 のそりと、にぶい動きで一人の死者がロードに歩みよる。接近をすばやく察知したロードは剣を横に閃かせ、死者の頭を胴体から切りはなした。手ごたえはまるでない。未練がましいうめき声が肌を這いずるようにまとわり、気持ちが悪くなった。

 ソーダの方をみやる。彼女は死者の群れにつっこみ、彼らを薙ぎ倒していた。剣を一閃させては数人の死者を同時に斬り伏せ、細く長い足をしならせては頭を蹴り飛ばす。水色の短髪を揺らし、踊るように敵を圧倒していった。

 彼女は何時間も動きまわっているのだが、一向におとろえる気配をみせない。ロードはその技量や体力に感服しつつ、自分勝手な行動に呆れもした。

 死者の群れに観察の目を送る。一体一体の動きは鈍く、火の回りにはあまり近づこうとしなかった。よって、松明を持っているビクスはとりあえず安全と言えた。

 ただ、問題なのは、ソーダがいくら倒したところで、死者たちは地面から生えるように出てくることだった。そのため、相手の数は一向に変わらない。このまま包囲を突破できないとなると、いずれは疲労が限界に達することだろう。

 一人で勝手に行動せず、固まってさえくれれば、魔法で一掃できるかもしれないのに。そう思うロードの心に苛立ちだけが募る。

 ビクスは剣を振れない、いや、振るうことが出来なくなっている。なので、必然的にロードが剣を振るわねばならず、魔法を使うための集中力が削がれる。また、魔法を使えても、確実にソーダを巻きこんでしまう。そういったことを考えてしまうと、余計に苛立った。

 そんな中、唐突に金切り声があがった。反射的に耳をふさぎ、声のあった方角へと首をめぐらした。死者の群れの先にある、枝葉のわずかな隙間からほんの少しだけ、闇以外の色が浮かんでいた。

 朝焼けである。

 日差しが徐々に強くなってゆく。それに合わせて死者の叫喚が大きくなった。ある者は陽光を浴びて腐肉を焦がし、ある者はそれから逃れるために地中へと帰る。太陽が完全に姿を見せる前には、死者は視界から消え去っていた。

 ビクスは安堵の息をつきながら、膝から崩れる。ロードもそれに習うと、ソーダを睨んだ。しかし、睨まれた本人は満足気な顔を浮かべ、息を弾ませて近づいてくるのだった。

「いやー、焦った焦った。さすがに疲れたわ」

 良い運動をした、そう言いたげな表情だった。その顔を見れば見るほど、怒る気力も湧かなくなってしまったロードは、「前に通った時は安全って言ってたじゃないか」と気だるそうに言うのであった。ソーダは顎に人差し指を添え、視線を左上に移す。

「そういえば、前は昼間に通った気がするわね。ま、そんなことより、先を急いだほうがいいんじゃない? こんな場所じゃ、満足に休めないわよ」

 あっけらかんとした彼女に、言うべき言葉が思い浮かばなかった。たしかに、この場に留まりたくはないという思いはあったので、ロードは立ち上がろうした。

 突然、背中にかるい衝撃が走る。やや緊張しながらロードは振り返った。

「姫様……?」

 ロードの背にビクスが頭からもたれかかっていた。静かな寝息が聞こえてくる。緊張と疲労から、深い眠りに入ってしまったらしい。

「こんなところで寝れるなんて、ビクスちゃんって大物よねぇ。いや、実際に大物なんだろうけどさ」

 ビクスの頬を指先でつつくソーダ。その行為に、なんて恐れ多いことをするんだと思いつつ、ロードはどうしたものかと困り果てるのだった。

 結局、ビクスの寝顔を見てしまっては起こすのも忍びなく――というより起きる気配がなかった――、彼女を背負って歩くことになったロード。彼は息も絶え絶えに、ソーダと並行して森のなかを進んでいった。

「それにしても、お前は連携する気がないのか? 戦場では、いかに相手の魔法を超えるか、あるいは相殺させるかが重要になってくる。そのためには他者との連携は必須だ。よくそんな調子で今まで生き延びられたな」

 先のソーダの勝手な行動についてロードは説諭をはじめた。しかしながら、それはあくまでおかしな気分を紛らわせるためでしかなかった。背中から伝わってくる、鼓動とやわらかさ。ふくよかな香りと安らかな寝息。それらは、彼を狂わせる寸前にまで追い込んでいた、といっても過言ではない。

「うっさいなぁ。連携とか協力とかって苦手なのよ。戦場になんて行ったことないし、魔法なんて使わないし」

「うそだろ……。お前まさか、魔法も使わずに剣技一つで、今までなんとかしてたのか?」

「そうよ、そのまさかよ。悪い?」

 ロードは先の言葉を失った。ジェムジアスという世界において、魔法を使わずに生涯をすごせる者などいないからだ。たしかに、使わずとも生きていけるだろう。しかしそれは、言葉を使わずに生きる、というのと同等の問題である。ましてや勇者と自分で名乗るような者が、いかにして生き延びるというのか。それは魔法と共に生きたロードにとって、想像の範囲外のことだった。

「てか、魔王ってホントに強いの? 守られるだけで何も出来ないじゃない」

 さすがに気まずいと感じたのか、ソーダは話題を変えた。魔王という単語に反感があるロードは、すぐに思考を切り替えて反論する。

「魔王と呼ぶな。姫様の強さはな、俺なんかじゃ足元にも及ばない。はるか遠い存在だ」

「ひ弱な人と比べられても、いまいち参考にならないのよね」

 ソーダの言葉にいちいち反応していては切りがない。そうわかっていながらも、やはり苛立ってしまうのだった。

「そんなことより、お前の目的ってなんなんだ? 勇者と名乗っているくせに、炎の民に肩入れしているのも気になるんだが?」

 前の話を流されたことに、むっとした表情を彼女は見せた。ぶすっとしたまま、応える。

「別に炎の民を狙ってるわけでもなければ、水の民に味方してるわけでもないわ。ただ、今のところは単独で行動してるから、勇者って名乗ってるだけ」

 あいまいな内容にロードは顔をしかめた。結局、彼女の目的やビクスへの要求がわからない。それを見越してか、彼女は悪戯っぽく笑った。

「まー、そのうちわかるんじゃないの?」

 不意に、急な斜面に突きあたった。四苦八苦しながら降りていくと、緩やかに流れる川へたどり着いた。急な斜面に挟まれた川の両側には、三人が横一列に並べる程度の道が続いている。

 ロードは、先ほどまで感じていた気味の悪さがなくなっていることに気付いた。どうやら、死者の森からは抜け出せたようだ。川のそばで、ロードとソーダもようやく休息に入った。

 

 

 三人が旅を再開した頃には、太陽は真上より少し西へと傾いていた。

 ソーダを先頭に、川の流れとは反対方向にひたすら歩いていく。深緑に囲まれた川に沿う道は、手の平程度の石によって構成されているが、くるぶし程度の背丈の草に覆われていたため、踏み心地がよくて歩きやすかった。また、必要な食事や水分は川ですぐに調達できたので、道程に不満を覚えることはなかった。

 そして目的の地に着いた時には、西の空が赤みを帯びていた。

「着いた! あそこが英竜の住んでいる洞窟の入口よ!」

 ソーダが人差し指で示した場所とは、幾重もの白い線を下ろす、横はばの大きい滝だった。落差は人の背丈と同じくらいだ。

「あれをくぐるのか?」

「横から入れるから、くぐる必要はないわよ」

 滝の横に行くと、その裏側を見ることができた。通路のようになっている滝の裏側は、一人通るのがやっとで、川の反対側まで続いている。ソーダは苦もなく入っていくが、ロードとビクスはやや中腰になって入る必要があった。

 滝の裏の通路は薄暗く、岩の表面がごつごつとしていたため、注意深く歩を刻む。中腰になって進まなければならない二人にとって、それはいくらか息苦しいように見えた。しかし、ロードは不思議と苦痛を感じていなかった。ひんやりとした岩肌は湿気で少しぬめりとしているが、嫌な感じはしない。むしろ、どこか神聖な印象を受ける。この場所を通ることによって自分は清められる、といった感覚が気分を和らげていたのかもしれなかった。

 滝の中腹あたりで、先頭のソーダが立ち止った。

「ここよ、ここ! 意識してないと、通りすぎちゃうのよね」

 ソーダは左下を指差す。そこだけぽっかりと穴が開いていた。四つん這いになって穴の中に入る彼女に習って、ロードもついて行く。が、穴の先は完全な闇となっており、目の前にいたソーダの姿さえ見えない。

「おい、ソーダ! なにも見えないぞ」

「そのまま立って、真っ直ぐ歩いてきなさいな。二、三歩で面白いことになるわよ」

 言葉だけが飛んでくる。言われた通りにするしかないロードは、おそるおそる立ち上がった。そして、歩こうとしたと同時に、腰をなにかに押しだされた。突然のことだったので、姿勢を崩してしまったロードは前へ倒れこみながら二歩、三歩と進んだ。

 顔のほうから転んだロードは思わず目をつむり、腕で顔を守った。両腕に鈍い痛みを感じながら目を開けると、その目を丸くさせた。

 さっきまで完全な闇だった視界は、大きな洞窟の通路に様変わりしていた。滝の裏側と同じ薄暗さだが、五、六人分の横はばと自分の背丈の倍以上はある高さには驚きを隠せない。見渡しながら立ち上がると、少しむっとした表情のソーダが視界に入った。

「なにしてんのよ、アンタは?」

 不意とはいえ、盛大に転んだのだ。急に込み上げてきた恥ずかしさに、ロードは視線を逸らすしかできなかった。

「ソーダちゃーん、ロード? どこにいるのー?」

 まもなくして、ビクスの泣きそうな声が響いた。ふと、自分を押したのはビクスだったのではないのかと思ったが、深く考えるのはやめにした。

 ビクスを優しく導いたあと、三人は洞窟の奥へ進んでいく。

「最初の暗闇はなんだったんだ? 急に見えるようになっていたが……」

「ここの入口には暗示がかかっていて、暗闇の先に進めるか進めないかを試されているらしいの。ちなみに、ここの岩には発光する物質が混じってるから明るいって話よ。発行する物質の割合によっては、炎より明るいって聞いたことがあるわ」

 炎より明るいと聞いた途端、なぜか岩に対抗意識をいだいてしまった。自分は変なところで負けず嫌いなのだな、とロードは思う。

「ソーダちゃん、この洞窟には、こわいのは出てきませんよね?」

 おどおどとした様子でビクスは問う。先の死者の群れとの遭遇を引きずっているようだった。

「さてね? アタシが知らないだけで出てくるかもよ? 死者の群れも逃げだす、おっそろしい化物が!」

 ソーダが茶化すとビクスは一層に怯えだした。ロードの黒いマントを掴み、きょろきょろと目を忙しなく動かす。

 そんな彼女を励ましつつ、ソーダをいさめたロードだったが、腹を抱えて笑われるだけで効果はなかった。自分が駄目なのか、ソーダが規格外なのか。その判別はつかず、とりあえず落胆するしかなかった。

「この洞窟はね、地中深くに続いてるのよ。最下層にはでっかい広場みたいなところがあるんだから!」

 ソーダはどこかはしゃいでる様子だった。彼女からしたら、久々に知り合いと会うような感覚なのかもしれない。分かれ道に差しかかる。だが、ソーダは迷わず左に進んだ。

「しかし、英竜はそう簡単に血を与えてくれるのか?」

「大丈夫よ。だって数年前にアタシ一人で対決して勝ったんだもん。額の辺りに剣を一閃。ブシャーっと血が噴き出す! そして、その生き血をいただく! うん、不味かった!」

 その話しぶりではどうも胡散臭くなる、そう感じざるを得ない。ロードはますます不安になった。

「英竜はどのくらいの大きさだったんだ?」

「あの時は……、アタシよりちょっとだけ、でかいくらいだったわよ? まぁ、今回は三人もいるし、余裕で何とかなるでしょ! もしかしたらアタシのこと覚えてるかもしれないし、苦労せずに貰えるかもよ?」

「姫様は今、剣も魔法も使えないんだ。頭数に入れるなよ、まったく……」

 その後も会話を交えながら、三人は奥へ奥へと、歩み続けた。

 

 

 ソーダの言っていた洞窟の最奥部。そこは広間と言うには広すぎた。

 見渡すほど広い、円形の空間。切り立つ壁はどこまでも続き、一番上に小さな穴があいていた。いや、見上げる者にとっては小さく見えるだけで、実際は巨大な穴だ。英竜がこの場を離れる時に用いられる穴である。

 広間の入口の近くに、大きな岩があった。三人の身をかくすには丁度よい大きさで、一様にもたれかかっていた。

「あの、ソーダさん?」

「はい、なんでしょう? ロードさん」

「過去に英竜と戦って額に傷をつけ、生き血を飲んだ。そうですね?」

「ええ。あの時の戦いは烈しいものでした」

 小声。身体を密接させて交わされる会話。それは虫の羽音程度の音量だ。

 ゴクリと生唾を飲んだロードは、物陰からそっと顔を出して『ソレ』をもう一度確認した。

 広間の真ん中には、巨大な岩と見間違えるほどの灰色の巨体があった。ゴツゴツとした外殻はまるで鎧のようだ。長い首と太い四肢を曲げ、丸くなっている。

 英竜は今、寝息を立てているところだった。

「あ、あんなのにどうやって勝ったんだよ、ソーダ!」

「いや、アタシが戦った時は同じくらいの背丈だったんだけど……。いやー、ちょっと見ない内に成長するもんだねぇ。お姉さんもびっくりだよ」

「お前、嘘なんじゃないか!? 本当は戦ってないんだろ!」

「いやいやいや! ほら、額のところにちょろっと斜めに線が入ってるじゃん? あれはアタシが付けた傷だって!」

「あんなもん、英竜自身が引っ掻いたってできるだろうよ!? お前、英竜が自分のことを覚えているかもって言っていたよな? ちょっと交渉してきてくれよ!」

「むりむりむり! アタシのことなんて覚えてないわよ、きっと。あ、もしかしたら別竜なのかも。こうなったら覚悟を決めるしかないわね。頑張って来てね、二人共!」

「行くとしてもお前が先陣をきって行け!」

「やだ!」

「二人共、ケンカはやめなよぉ」

 ビクスが仲裁に入った瞬間、大きな空気の流れが三人をつつんだ。それは一陣の風か、それとも巨大な吐息か……。

「岩陰に隠れている人間共。我に何の用だ」

 厳とした声が響いた。三人の時が止まる。

「姿は隠せても、魔の気配が漏れ出ている。早く出てこい。それとも、岩ごと消されたいのか?」

 三人は顔を見合わせる。ロードは一つ深呼吸をしてから、ゆっくりと岩陰から出た。

 英竜は首を立てたことによって、その巨体をさらに際立たせていた。顔を見るためには、見上げるしかない。鋭く重たい眼光に見下ろされ、自分が小さき存在であることを知らされているような気がした。

 それなりに距離は離れていた。が、空間全体を押し潰さんとする圧迫感に、畏怖の念を抱いてしまう。また、以前のビクスが放っていた威圧と似ていたため、懐かしさを感じてしまうのが、すこし不思議だった。

 銀色の大きな瞳は独特の虹彩を持っている。ロードは吸い込まれるようにその瞳を見つめてしまった。ロードが姿を見せてからややあって、その瞳に動きがあったのに気付いた。

「ソーダではないか。これは珍しい顔を見たものだ」

 それは驚きの動きだったのだ。ロードは振り返ってソーダを見る。彼女も思いがけないことだったのか、目を見開いていた。

「あらあらあら? アタシのこと、覚えてんの?」

 哄笑が腹に響いた。英竜が心の底から笑っているように感じた。

「我の額に傷を付けた者を、いかに忘れろというのか」

 ソーダに満面の笑みが浮かぶ。ロードの肩を叩きながら、「ほらほらほら! 言った通りだったじゃない!」と明るい調子で言った。

 ロードは改めて英竜を見る。最初に受けた印象とは少し違い、柔和な雰囲気を纏っていた。それは、警戒心が取り除かれたことを示していた。

「じゃあさ、じゃあさ。アンタの生き血が欲しいんだけどさ、またアンタと戦わなきゃいけないの?」

 再び哄笑。ロードはいい加減、腹が重たく感じてきた。

「冗談はよせ。お前のような強大な魔力を持った者とどう戦えというのだ。こちらから願い下げだ」

 ソーダは苦笑いを浮かべた。英竜は笑いを止めると疑問を声にした。

「なんだ? まさか、いまだに上手く魔法を扱えんのか?」

「んー……。まぁ、そんなところかな」

「呆れた奴だな。天賦の才を自ら腐らせるつもりか? まったくもって勿体ない」

 ソーダは口を尖らせて「だってぇ……」と弁解を始めた。

 そんな二人のやりとりを、ロードは不可解に思った。が、英竜と視線が交じったため、緊張で疑念は霧散させられる。

「ふむ。よくよく見れば、その貧相な顔つきをした男もかなりの使い手だな。ソーダ、彼等は何者だ」

 ソーダは二人に目をやり、困ったような顔をした。どのように説明をしたほうがいいのか、少し悩んでいるのだろう。それにしても、英竜にまで貧相と呼ばれてしまうと、すこし気が沈んでくるロードであった。

「まあ良い。ソーダは特別だ」

 英竜は左前足の平を見せると、おもむろに右の前足を上げた。左の前足の平に爪を立て、軽く裂く。赤黒い血が少しだけ滲んだ。

 人を乗せられるほど大きな左前足の平を差し出しながら、「飲むがいい」と英竜。ビクスはソーダに背中を押されて前足の平まで来ると、自分の髪よりも濃い赤色をまじまじと見つめた。そして、ロードを一目見てから、両手で血を怖々とすくって飲んだ。

 ビクスの飲み込む音だけが響いた。その場にいる全員がビクスを見つめ、反応をうかがった。

「どう? どうなのよ、ビクスちゃん?」

 気になってしょうがないのか、ソーダがそっと聞いた。ビクスはそちらに顔を向けると、眉根を下げた。

「なんだか、あんまり変化はないみたいです……」

 変化がないのは一目瞭然だ。変化が起こる前兆もなく、それなりの期待を持っていたロードは肩を落とした。

「ふむ、強力な呪いなのかもしれんな。亜神ニジャの元へ訪ねた方がいいかもしれん」

 厳とした声音に戸惑いの色が混じったように思えた。英竜自身、その血に自信を持っていたのだろうが、まるで効果がないことに困惑しているのかもしれない。

「うへぇ。あんなトコまで、また行くの……」

 ソーダが面倒そうにつぶやく。

「亜神ニジャの所まで、どのくらいかかるんだ?」

 ロードの質問に彼女は答えたくないようだった。口を開くのすら面倒くさがっているように見える。

「こっから北にある港町に行って、海を数ヶ月かけて渡って北の大陸に行く。北の大陸の港町から山を三つ越えた先の盆地にひっそりと暮らしていたわよ」

 彼女がひどく気だるそうに話したため、ロードとビクスにも気だるさが伝染した。三人一様に、うんざりといった雰囲気をまとっている。

「長旅になりそうですねぇ……」

「どんなに急いでも、片道だけで半年はゆうに超えるわ。戻ってくるのに一年ね……」

 そんなに長い期間、ここを離れられるわけがなかった。その間にモルガが炎の民を掌握してしまうことだろう。かといって、焦ったところで早く辿りつけるわけでもなく、ただただ悲観するしかなかった。

「なんだ、転送石のことを教わっていないのか?」

 三人が目を点にして英竜を見た。次の瞬間には全員がソーダに注目するものの、彼女は首を横に勢いよく振るだけだった。

「ここへ来る途中、道が二手に分かれていたはずだ。もう一方の道へ行けば、赤い光を放つ石がある。それに触れれば、亜神ニジャの元まですぐに行けるぞ? ときおり、亜神ニジャはそれを使って我のところに来ていた」

「はあぁ!? あんのジジイ! アタシにはそんなの教えなかったわよ!」

「あの方は……、まあ、なんだ。悪戯が好きだからな」

「その悪戯のせいで一年ほど無駄にされたのよ! なによ、それ! 信じらんない!」

「落ち着けよ、ソーダ。とにかく亜神の元へ急ごう」

 彼女の激昂を止められるとは思えなかった。触らぬ方がいいとも思ったが、このままでは話も進展しないのはたしかだった。自分も焦燥感を持っていたが、落ち着く努力をしてみようとロードは思ったのだ。それが間違った選択だとは知らずにいたのが、皮肉なものであった。

「む。ひ弱なくせに指図しないでくれる? アタシは今、腹が立ってんのよ。わかる? ひ弱さん」

 ソーダの怒りの矛先がロードに移る。そして、その理不尽な怒りは、ロードがいままでため込んできた苛立ちという爆弾を暴発させた。

「お前、人のことをひ弱ひ弱って言ってるけどな! 俺はひ弱ではない!」

 ただし、怒りが爆発したからと言って、ソーダが黙るわけではなかった。むしろ、火に油をそそぐような結果を導いてしまった。

「なによ、アタシが助けなかったら、狼に食べられてたくせに!」

「ぐっ。魔法さえ使えれば、狼はもちろん、お前にだって遅れは取らない!」

「使えれば、ね。つう、かあ、えぇ、れえ、ば!」

「言わせておけば……!」

「なによ! やんのか、ひ弱!」

 ロードの怒りも頂点に達していた。もう、引き下がるわけにはいかない。

「やってやろうじゃないか!」

 ロードが引き受けることを予期していなかったのか、ビクスが慌てはじめた。二人の間に割って入り、「ちょっと、ロード! ソーダちゃんもやめなよぉ」とおどおどしながらも止めようと必死だった。

「姫様はさがっていて下さい!」

「ビクスちゃんはさがってなさい!」

 二人同時に、凄まじい剣幕でビクスを一喝した。すっかり怯えてしまった様子の彼女は、すごすごと英竜の隣にまで下がる。

 ソーダと睨み合うロードはふと、あることを思い付いた。

「待て、ソーダ。せっかくだから、英竜に審判を頼まないか?」

「なに? 審判? そんなもんつければ勝てると思ってんの? 別に構わないわよ」

 提案に鼻で笑いつつ、ソーダは受け取った。ロードの口角がひそかに上がる。

「ということだ。英竜、いいかな?」

 視線はソーダに向けたまま、英竜に問う。やや間をおいて、英竜の口が開いた。

「構わん。では、我が『始め』と言ってからお互い動く。勝ち負けの判定も、我が判断する。それでいいな?」

 睨み合う二人は無言で頷いた。お互いに剣を引き抜き、切っ先を相手に向ける。

 静寂と緊張が溶けあう。

「始め!」

「動くな!」

 英竜の合図からほんの一刹那をおいて、ロードが叫んだ。意表を突かれた様子のソーダは思わず、といった具合に動きを止めてしまう。次いで、地面に赤みと熱がおびた。

「熱っ! なによ、これ!」

 彼女はその場で少し跳ねまわると、近くにあった小岩に飛び乗った。その姿を見て、ロードの心は幾分か晴れていった。

「動くなよ? 俺は今、魔法をいつでも発動させられる状態だ。地面が熱くなっているのが、その証拠だ」

 ロードはソーダと違ってほんのりと赤味を帯びた地面の上でも、暑がりもせずに泰然と構えていた。彼女はそのことに納得のいかない顔を浮かべる。

「ふん、自分まで効果の範囲に入ってるくせに、なに言ってんのよ!」

「俺たち炎の民には、炎熱に対して耐性がある。つまり、発動させたとしても、俺と姫様は無傷で済む」

 ロードの心が躍った。あえてゆっくりと喋り、心に余裕をもたせる。

「俺は広範囲かつ高威力の魔法しか使えない。おまけに、発動する状態にもっていくまで、かなりの時間を要する。自分でもあまり言いたくはないが、魔力の制御が下手だからだ」

「へたくそで時間がかかるんなら、なんで始まった直後に展開できんのよ!」

 新たな怒りを覚えながらも、目前の勝利のために堪えた。ロードは話を繋げる。

「勝負を引き受けたときから準備を始めていたからだ。時間稼ぎとして英竜に審判を頼んだ。そして、魔法を打ち消せるのは魔法のみだ。お前が魔法を使わないならば、負けを認めろ。このままでは黒焦げになるだけだからな」

 地面の熱気が一層高まり、視界が揺らめく。それは、魔法を発動させる一歩手前であることを暗に知らしていた。

 余談ではあるが、ロードが話を終えた時点でやっと魔法の準備は整った。つまり、ここまでが彼のハッタリだったのである。

「ふむ。勝負あったようだな、ソーダよ」

 英竜の声からは、笑いを堪えている様子がうかがえた。この状況を楽しんでいるのかもしれない。

「む、む、む……。この卑怯者めぇ……!」

「なんとでも言え。これが戦術というものだ」

 悔しそうに睨むソーダに対して、勝ち誇った顔を見せた。

 ロードは自他共に認めるほど、魔力の制御が下手である。発動に時間がかかる、物を破壊する、他者を巻き込むことなど、よくあることだった。戦場において致命的とも言えるその欠点は、訓練を怠っていたというわけではない。根本的な問題として、才能がないのだ。

 しかしながら、彼が炎の民の中でも上位の実力者として知られるのは、その身に有り余るほどの魔力を宿していたからである。大きな欠点を補うために持って生まれた、そう言っても過言ではない、強大で膨大な魔力。

 ただ、ここ数日の疲れから、彼の魔力は思っている以上に減っていた。

 それゆえに、起こってしまった現象。それは――

「あ……れ……?」

 ロードは唖然とした。地面の熱が忽然と消え失せてしまったのだ。それはつまり、魔法を発動、維持させるのに魔力が尽きたことを知らしていたのだが、いまだかつて魔力切れを起こしたことのないロードは、ひどく狼狽してしまった。

 なにが起こったのかわからないのはソーダも同じだった。だが、彼女は感覚的に好機だということがわかったようで、ロードに向かって走りだした。

「ま、待て、ソーダ! さっきので俺の勝ちは決まっただろ?」

 蒼白になった顔でロードは言った。しかし、彼女は止まらない。激情に身を任せて、後先を考えていないように見えた。

「アタシは、納得してない!」

 右下方からの振り上げによって、ロードの剣が弾き飛ばされた。流れるようにソーダは剣を振り上げる。ロードは目一杯に溜めてから振り下ろされた剣を眺めることしかできなかった。それほどまでに彼女の動きは洗練されており、速かった。

 しかし、振り下ろされるまでのわずかな間に、割ってはいる人物がいた。

 硬い音が反響する。ロードは目の前にある、流れるような深紅の髪に思わず見とれた。

 ビクスが、ソーダの剣を受け止めていのだ。そのうしろ姿にはかつての勇姿を想起させたが、表情はおどおどとしたままだった。ビクス自身、剣を合わせているのが自分でも信じられない、といった様子である。

「引き分け! 今回は引き分けで良いとおもいます!」

 ビクスの声は大きく、そして早口だった。

 

 

「ふむ。どうやら三つの呪いのうち、一つが解かれたようだな」

 英竜はビクスの状態をあらためて確認した。魔力がもどった気配はなく、精神面は見た目からして弱そうである。ただ、剣技だけは反射的に使えるようであった。

「時間を置けば英竜の血が効いて、完全に元にもどるのだろうか?」

「いや、我の血は即効性だ。飲んだ時点で効果が表れないなら、残りの二つは別の方法で解くしかあるまい」

「なら、亜神ニジャのところへ急いだ方がいいのか……」

「うむ。それもそうだが、今日のところは休んでゆくといい。日もとうに暮れてしまった。そのうえ魔力切れを起こすような者がいるのであれば、特に休息が必要だろう」

 明らかに自分のことを指しているとわかったロードに、反論の余地はなかった。今回は結果的に怪我をしないで済んだが、道の途中で猛獣にでも襲われていたら足手まといにしかならなかっただろう。

「本来ならば男子禁制と言いたいところだが、今回は特別に休ませてやろう」

「男子禁制って……、英竜も雄だろ?」

「なにを失礼なことを言うか。我は雌であるぞ」

 ロードは貝のように口を閉ざした。言うべき言葉があっただろうに、思い浮かぶことすらできずにいた。英竜は一つためいきを吐いた。

「ところでソーダよ。転送石を教えなかったのは亜神ニジャの悪戯、と先ほどは言ってしまったが……、よくよく考えてみれば全てはお前のためにしたことかもしれぬな」

 ソーダはよくわからない、という顔を浮かべて首を傾げた。英竜は構わず続ける。

「実は、我が生まれてちょうど一年目の時に、お前は戦いを挑んだのだ。お前と実力が拮抗するぐらいの時機を狙っていたとしか思えない頃合いだった。転送石を教えていたら、生まれたての我を殺していた所だったろうな」

 その話を聞いて、ロードは亜神に好感を持った。元々、神に限りなく近い人物のことを亜神と呼ぶのだ。これが本来持つべき印象なのかもしれない。ただ、ソーダはどこか腑に落ちない様子ではあったが。

「まあ、彼の人は掴みどころの無い人物であるからな。真意のほどは我にもよくわからん」

 そして少しだけ間をおいて、「だから、直接聞いてくるがよい」と諭すように話した。

 ソーダの表情が少しだけ和らぐ。新雪のような頬にかすかな温かみを見せ、「もちろん、そのつもりよ」とだけ答えた。

 それを機に、一人と一匹は昔話に花を咲かせた。ロード達には入りこめない雰囲気だったが、聞いているだけでも楽しい気分になれた。

 ただ、血を飲んだあと、なにをしていたのかを問われた時だけ、ソーダは気まずそうに「いろいろとね」と濁していたのが気にはなったのだけれども。

 それでも穏やかに、夜は更けていった。


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