把握
あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。僕は彼女と決めた「はい」と「いいえ」のジェスチャーを駆使して、彼女から色々な事を聞く事が出来た。こちらから何が知りたいかを聞く事が出来ないのが残念だったけど、そこは彼女の聡明さに助けられた事になる。
まず僕が呼ばれた場所の事。彼女が自己紹介の時に言った通り、今僕が居る場所は「ヒト族の南の村」という場所らしい。チラっと外を見た限りまさにRPGの村といった感じで、日本の田舎よりも人口が少なそうだ。そんな村で彼女は、「魔法使い」という職業で働いているとの事だ。
次に聞けたのは魔法の事。どうやら彼女が使っていた「意思を伝える魔法」は、この世界の人ならば誰でも使えるような魔法なのだという。逆を言えば、それが使えない限りこの世界の人とまともな会話が出来ないという事になる。とりあえずではあるけれど、彼女と最低限のコミュニュケーションを取れるようになったのは幸運だったのかもしれない。
カンカンカン
その後、家の中にどんなものがあるのかを案内して貰っていた所で、家の外から鐘の音が聞こえてきた。その音を聞いて彼女は、僕の方を申し訳なさそうな顔しながら振り向くと。
『…ごめんなさい、鐘が鳴ったから仕事に行かないと』
そう言って、彼女はまず化粧台の前まで行って身だしなみを整え始めた。
そういえば彼女は、僕が倒れた6時間以上も前からずっと起き続けているんだった。褐色の肌をしているので顔色が判別しづらいけど、精神的にも肉体的にも疲労をしていたんじゃ無いだろうか?
(…大丈夫なのかな?)
彼女は手早く支度を済ませて玄関に向かうと、扉のノブを握った所で動きを止めた。
その様子を心配に思うけれど、今の僕では声を掛けようにも言葉が通じない。僕が何も出来ずにやきもきしていると、彼女はどこか名残惜しい顔をして僕に振り向いた。
『…いってきます』
小さく聞こえたその無感情な声は、彼女の表情と相まって僕の脳内を跳ねまわった。瞬間、僕は反射的に両手で〇を作り。
「いってらっしゃい!」
と、叫んでいた。あまりにも寂しそうな顔をした彼女に、なんでもいいからメッセージ的なものを送ってあげたくなったのだ。
『………』
僕の言葉に目を丸くした彼女は、パチパチとまばたきをした後。
『…うん』
嬉しそうに、微笑みながら玄関から出ていった。
「………」
出会ってから初めて見た彼女の笑顔に、僕の心臓が跳ね上がるように鼓動した。
そうだった…あまりの出来事が連続して失念していたけど、彼女はアイドルといっても過言ではない程綺麗な女の子だったんだ。
「ふぅー…」
心を落ち着かせて、僕は部屋の中央にある椅子に座った。目の前のテーブルに両肘をつき、先ほどの彼女がしたように祈るようなポーズをとる。
(情報を、整理しよう)
まず…召喚魔法なんてもので、僕は俗にいう「異世界」という場所に来てしまった。普通ならば信じる信じない以前に、絶対にありえないような状況だ。けどこれまでに感じた五感から夢でない事は間違い無いし、実際に彼女が魔法としか思えないような方法で僕と会話した事から魔法の存在も認めるしかない。
彼女が言うには、召喚魔法というものは基本的に成功しないものらしい。なのでその逆、僕を元の世界に戻すのも同じかそれ以下の成功率という事だ。そもそも、なんで彼女はそんな成功率の悪い召喚魔法なんて使ったのだろうか?彼女自身は、僕を呼んでしまった事をかなり後悔しているような雰囲気だった。かなり聞きづらい事ではあるけれど、ちゃんと喋る事が出来るようになったら是非とも聞いておかないといけないだろう。
次に考えるべき事は…この世界の事だろうか。さっき色々と案内された時、チラリとだけど外の風景を確認出来た。気絶する前にも思ったけど、全体的な雰囲気としてはファンタジーなRPGとかに出てくる田舎の村だ。現代科学のようなものは影も形も見当たらなくて、見えるもの全てが自然素材。プラスチックや化学繊維なんて当然無い。金属を使った物は多少あったけど、せいぜいナイフやフォークといった小物くらいだ。
(本当に…絶対に戻る事が出来ないとしたら、ここで暮らしていくしか無いのか)
田舎で育ったとかキャンプが趣味だとかいう事は一切無く、僕は都会で生まれ育った都会っ子だ。一応野外学習としてキャンプに行った事はあるけれど、あまりの不便さに二度と行きたく無くなった。あの時でさえも最低限の設備があったというのに、この先無事に生きていく事が出来るんだろうか?
(喉…乾いたな)
椅子から立ち上がり、家の中をぐるりと見渡す。この家は木の板や柱、そして土壁で出来た12畳くらいのワンルームだ。出入り口は彼女が出ていった玄関とその裏手にある勝手口、窓は無いので少し圧迫感を感じる。テーブルと椅子2脚を中心に、周囲に炊事場、ベッドが2つ、数個チェスト等が置かれていた。
炊事場まで歩いて行くと、足元からはカランコロンと木の音が鳴り響く。僕がこの世界に持ってくる事が出来たのはパジャマと腕時計くらいで、足は当然裸足だった。そんな訳で僕は、彼女から木と布で作られたサンダルを貸してもらっている。女物なのか小さいけれど、裸足で歩くよりは遥かにマシだと言えるだろう。
僕は炊事場に近づくと、木製のコップで木桶に貯められた水を一杯すくった。
この桶に貯められた水は飲める水だと彼女は言っていて、実際に彼女が飲んで見せてくれたので大丈夫なんだろう。しかし…僕が飲んでも本当に大丈夫なのかと疑わずにはいられない。現代日本と異世界の田舎の衛生管理を比べる事自体間違いなんだろうけど、もし腹を壊したりの体調不良になった時を考えるとこれほど怖い事は無いだろう。
「んぐ…」
それでも、飲まなければ生きていけない。僕は彼女に連れて来られた犠牲者であっても、歓迎されたゲストではない。特別待遇として望むもの全てを持っても来いと言っても、そんなわがままが通じる訳が無いんだ。
「はぁ…」
喉の渇きは収まったけど、気分は最悪に近い。思い込みもあるんだろうけど、胃の中の水を必要以上に意識してしまう。本当に大丈夫かどうかは、僕自身の体がどうなるかで判断するしか無いだろう。
コップを持ったままふと上を見上げると、そこには光の玉が浮いていた。
(電灯…じゃない?)
明るさが家の電灯と同じくらいだったせいで気づけなかったけど、本来ならこんな光はありえないものだ。電気というものが無ければ、基本的に灯りはろうそくとかの火を使うしかない。ならばこの光の玉は、魔法で作ったもので間違い無いんじゃないだろうか?
(魔法って…こんな事も出来るんだな)
少しだけこの世界の魔法を見直した。意思を伝えるとか人を召喚する以外にも、魔法はかなり実用的な事に使えるみたいだ。だとしたら、あの飲み水も魔法で出したものなんじゃないだろうか?桶に貯められた水は結構な量で、あの量を井戸から汲んで煮沸したりするとなるとかなり大変だと思う。あくまでファンタジーを題材にした小説の中の事だけど、そこでも魔法で飲み水を出したりしていたっけ。
魔法が意外と何でも屋なのかもしれないと思うと、ちょっと気分が軽くなった。どんな事が出来るものなのかはまだ分からないけど、僕がこの世界で生きていく為にはかなり頼りになるものなのかも知れない。
「…う」
ほっとしたのも束の間、僕の下半身に便意が襲い掛かってきた。こんな状況だろうと出るものは出る。僕は先ほど彼女に教えられた通り、玄関とは別の扉から庭に出る。そこは僕が召喚されて初めて来た所で、実際僕が居たであろう場所は地面が乱れていた。
(あの痛みはなんだったんだろう?)
あんな痛みは思い出したくもない。けど、理由が分からない痛みというものもまた怖いものだ。今は収まっているみたいだけど、また痛み出すかもしれないのだから。
壁に立てかけられた木の棒を使って地面を掘る。さっき一度掘り起こしておいたのでやわらかく、すぐにそれなりの穴を作る事が出来た。
本来ならば、村共同のトイレがあってそこで用を足せばいいのだけれど、今僕は彼女しか存在を知らないよそ者だ。そんな人目に付く所に行けるはずが無い。そこで一時的な処置として庭に穴を掘ってそこで用を足す事になったのだけど、こんな真昼間の外でトイレをするなんて今までの人生で初めてだ。
トイレットペーパーなんて当然無い。僕は教えられた通り、外に用意された拭きとる用の布を使い汚れを落とした。その後は穴を埋めたり、拭いた布の処理をしたりして後始末をする。
「う…ぐすっ」
たかだかトイレの為に、なんでこんな苦労をしなくてはいけないのかと思うと涙が溢れてきた。
「ああぁぁ…あああぁぁぁ…」
(なんで僕が、こんな目にあわないといけないんだろう)
「どぉさん…がぁさん…」
昨日まで当たり前に見ていた両親の顔が頭に浮かぶ。あっちでは今…急に居なくなってしまった僕を探しているんだろうか?
設定資料
ヒト族の南の村の魔法使いの家
まるでRPGのような風景の村の中にある。家に住んでるのは魔法使いだけに思えるが、ベッドや椅子から二人暮らしのようにも見える。現代でいうと風呂トイレ共同庭付き1K。