焦り
焦りは禁物だ。
長い年月をかけてようやっとここまできたんだ。
じっくりいくのが俺じゃなかったのか?
夜になり時間が出来ると、もどかしくて仕方がなくっていく。
もうドツボだ。
多分、少しは意識をしてくれているような気はするんだ。
だけど、絶対じゃない。
確実に、そう確実じゃないといけないんだ。
香也をしっかり捕まえるには、あと何が足りないのだろう。
やはり時間なのだろうか?
いいようのない焦りに襲われる。
もしまた、あいつみたいな奴が現れでもしたら。
その時は取り返すまでなのだが……
思いっきり頭を振った。
こんな弱気でどうするんだよ。
これじゃ只のヘタレじゃねえか。
ふ〜っと肩を大きく落とす。
今日何度ついたか分からないため息だった。
トントン
とノックされたドア。
「おう」
と返事をすると
「悪い兄貴、パソコン貸して。私のフリーズしちゃって大変なんだよ」
と朱里が缶ビールをプラプラさせながら顔を出した。
勿論、断る理由なんて何にもなくて、朱里から缶ビールを受け取った。
ノートパソコンを自分の部屋に持っていくと思いきや、朱里は俺の机に陣取ってパソコンを立ち上げ始めた。
「ここでやる気か?」
プルトップを引き上げながら、解りきった事を聞いてみると、それは当たり前でしょと言いたげに
「うん」
と即答。余計な事口走るなよ、なんて思ったそばから
「あーこれ懐かし〜ってよか兄貴可愛いね。みんな若いね」
デスクマットに挟んであるあの頃の俺達。
可愛いはねぇだろ。とちょっとムッとしたその時。
「美佐ちゃんは、この頃から少し大人っぽかったよね、この前会ったのいつだっけ? 大地君ときたよね、2年くらい前だったっけ」
それはきっと独り言だろう、俺に話しかけているかもしれないが、俺はそれには答えなかった。
「あっ、香也ちゃん綺麗になったよね」
綺麗になってた? 会ってるのか? ちょっと気になるじゃねえか。これも独り言なのだろう。俺に答えは求めていないような感じもするが。こんな事ならさっきの独り言に返事しておけば良かったじゃねえか。香也のとこだけ俺が話掛けたんじゃ、結構鋭いとこついてくるこいつ、突っ込まれてからかわれそうだよな。
でも……聞いてしまえ。なるべく感心なさそうに
「会ったのか?」
枕元に置いてあった雑誌を捲りはじめながら言ってみた。
「会ったっていうか見かけただけ。」
何だか俺同様そっけない返事だ。
いつもは煩すぎる程だっていうのに、肝心な時はこれだよ。
横目でちらりと朱里を見ると、立ち上がったパソコンと格闘し始めたようで、すっかり朱里の中では写真の話は終わってしまたようだった。
何となく自分の部屋なのに居心地が悪いような。
俺は立ち上がり
「風呂入ってくるから」と。
出てきた頃にはきっと終わっているだろう、「うん」という聞いているんだか、いないんだかの返事を聞いてから俺は部屋を出た。
温めのシャワーを全身に浴びる。
鏡にうつる自分の身体。
今週はジムをさぼり気味なのだが、社宅からではありえない駅までの20分の徒歩が思ったよりも運動効果があるようで、実家で飯を山ほど食っている割には良い感じだ。違うのか、外食よりも健康的なのか。母親は煮物中心の和食が多い。そういや父親も歳の割にはメタボとは無縁の身体してるからな。食事は重要なのだろう。
香也は料理とかするのだろうか? いつしか前にも考えたっけ。確かその後……いらない妄想をした事を思い出した。温度調節のレバーを引き下げ頭から冷水を浴びた。
やっぱ、弱ってるよ俺。
逃げるように部屋を出てしまって着替えを持ってこなかった事に気がつく。
仕方なく腰にタオルを巻いて部屋に戻ると
「兄貴ってばそんな格好で家の中うろつかないでよ」
と未だパソコンに向かっている朱里の冷たい声。
誰のせいだよ、しかもここは俺の部屋だっつうの。
「お前が自分の部屋にいればいい事だろ」
と言い捨てると
「そんな俺様だと嫌われるよ、誰かさんにね」
と意味深な一言。
思わず動揺してしまう俺がいた。
自分の部屋なのにと思いつつも、こいつの前で下着を履くのも躊躇って仕方なく着替えを持って朱里の部屋で着替える事にした。
久し振りに入った朱里の部屋。今年から就職した空間コーディネーターとやらの仕事柄か、モデルルームのような部屋になっていた。センス良いかもな、決して朱里の前では言わないだろうけど。ライトグリーンを基調としたその部屋は、観葉植物や洒落たサイドボードがあったりと俺が知っている朱里の部屋の面影は全くなかった。着替え終わっても自分の部屋に戻る気もしなくて、朱里のベットに寝っ転がった。俺はいつの間にか眠ってしまったようで
「兄貴、朝だよ」
という朱里の声で目が覚めた。
時計を見るともう結構な時間、朱里はどうやら徹夜をしたようで
「はい交代」
と促されてベットを明け渡すと横になった途端に目を閉じた朱里。
こいつも頑張ってるんだなと妙な気持ちに。自分だって歳をとっているっていうのに、何故か朱里は俺の中では学生のような感覚を持っていた。
薄いタオルケットを掛けてやってそっと部屋を出た。
そうしてまた一日の始まり。
満員電車に揺られ会社に着いて一息入れる間もなく外回りだ。
初秋の風は爽やかで出掛けるにはもってこいのこの季節。
学生だろう若い男女が方を並べて歩いているのを目で追った。
近いうちにきっと。
自然と歩く足に力が入った。
そんな時だった。微かに震える胸ポケット。
足を緩める事なく携帯を取り出すと美佐からだった。
それは、衝撃的な内容で。
文字を追っているうちに闊歩していたはずの足がピタリと止まってしまっていた。
重大ニュースと書かれた件名。
――例の彼、奥さんの会社に出向扱いだったけれど『昇進』それも幹部待遇で香也の会社に戻ってくるらしい。
端的に用件だけを告げたそのメール。
きっと香也からの情報だろう。
香也は? どう思っているのだろう。
まさかまた……
それからの俺は仕事なんて手に着かなくて。
くそっ。もう少しだって言うのにどうしてこの時期に。
いつの間にか握り閉めていた拳。
焦っちゃ駄目だ。
こんな時こそ慎重に行かないと。
そう自分に言い聞かせるも、その動揺は収まらなくて。
最近、いい方向に向かっていたと思ったばかりなのに。
真っ暗な闇に真っ逆さまに落ちていくようなそんな感じがした。