表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/38

待ち時間

「徳山ーっ。明日の朝一、例の浅沼さんとこ宜しくな」

帰り際に課長が放ったその言葉。

内心、あの人話が長いんだよなぁ、なんてあんまり乗り気じゃなかったのだが。

「そうそう、最近お前、帰り遅くて大変そうだから、直行でいいぞ」

その一言に心が躍った。顔には出さないように

「了解しました」

なんて、返事をしたけれど、それってあれだろ。フレックス使わなくても朝、香也に会えるってことだろ。頭の中は一瞬で明日の朝の事でいっぱいになった。


明日こそは一緒の電車に。


気をつけていたはずなのに、数分後には堪え切れず顔に出ていたようで、珍しく残業している森山に

「何かいい事でもあったんですか?」

と突っ込まれてしまった。

「いや、別に」

口元を引き締めて、声のトーンを少し落とした。森山はそのことには触れなかったのだが

「そう言えば最近、徳山さん何時の電車に乗っているですか?駅に着いても見かけないんで気になっていたんですよ」

と書類を胸に抱え、上目づかいで誰にも聞こえないようにだろうか、小声で囁いた。

べったり塗られたピンクのグロスが目についた。そういうのが好きなやつもいるんだろうな、なんて人ごとのように考えた。

「いろいろな、仕事で早く出なくちゃいけないこともあるし、ホームに着いた電車に乗るから早いとか、遅いとかあんまり気にしてないんだ、要は遅刻しなきゃいいんだから」

自分で思うのもなんだが、今日は饒舌だ。


「そうなんですか、じゃぁ、あのーもう帰りですよねぇ」

語尾を縮ませ、森山は何か言いたそうだったが


「悪い、俺この後、用があるから」

と言葉を遮って、鞄を手に取った。本当は用なんてないのだが、どうせろくな話じゃないだろう。森山の横を通りすぎる時、ピンクのグロスが窄んでいるのが目の端に写った。

香也だったら……。先程まで頭に描いていた香也の顔。

同じピンクでも、もっと柔らかな色。あの薄い唇に良く似合っていた。

その色。近いうちに俺が掠め取ってやるから、そんな欲望。

取り敢えず、明日だな。その事ばかりを考えて、帰りのラッシュも苦にならなかった。

あわよくば、明日の朝は酷いラッシュならいいのにと、そんな事まで考えていた。


良い年した大人が可笑しいとは思うが、あの混雑した電車の中、あいつにとっては不可抗力かもしれないが、俺の腕の中に香也がいるかと思うと中々寝付けなかった。

中学生かって。我ながらちょっと頂けないとは思うが、そう考えてしまうのだから仕方がないだろう。

翌朝、習慣とは恐ろしいもので、いつもと同じ時間に目が覚めた。

家族で朝食を囲むなんて、もうないだろうと思っていたのに、不思議なもんだ。

「何か、兄貴今日は機嫌がいいんじゃない? もっといつもは無表情っぽいけど」

と突然、妹に突っ込まれた。当たっているだけに言い返せない。

こんな奴は無視だとばかりに、箸を進めた。すると

「ふーん」

と意味新な一言を。妹じゃなかったら、絶対付き合いたくないタイプだな。

そんな事をしている間にも時間は過ぎていく。

いつもだったら、出かける時間だ。朝食を食べ終えて食器を片付けると

「今日は直行だから、少ししたら出るから」

そう母親に告げた。

「だったら、コーヒーでも飲んでいけば?」

と最近買ったコーヒーメーカーを指さした母親。

「ああ」

と返事をすると、じゃあ2人前宜しくと。

要するに自分が飲みたかった訳だ。


コーヒーを落としている時間、スーツに着替えて身支度を整えた。

寝癖がついていないか、洗面台の鏡の前でチェックしていると

この前の帰り道、タバコの匂いが駄目なんだよね、と言った香也の言葉を思い出した。

激しく動揺し、その日のうちにタバコを止めた俺。

一人暮らしで手持無沙汰になり吸いだしたタバコ。止めるつもりなんて全く無かったはずなのに、香也の一言ですんなりと止めてしまった。どんだけ影響力があるもんだか。

鏡に映るスーツ姿にはっとした。タバコの匂いって……。

匂いが染みついていないか、思わずスーツの胸元を掴んで鼻を押し付け確認してしまった俺。

どうやら、大丈夫らしくほっとする。

鏡をもう一度見直すと、人影が。

「やっぱり怪しい」

とニヤリと笑う妹。しっかり見られてしまったらしい。

バツが悪いとはこの事だ、煩いとばかりに妹の頭をクシャクシャにしてやった。

後にした洗面所からは

「兄貴、最悪ーっ」

と叫ぶ声がした。

リビングに戻ると、

「全く、朝から何をしているんだか」

と呆れた母。でもその顔が少し嬉しそうに見えたのは気のせいではないと思う。

この前の朝、妹が言っていたっけ。母さん嬉しいんだよって。

案外そういうものなのかもな。

やりっぱなしだったコーヒーが懐かしいカップに注がれて置いてあった。母親だけあって俺の好みを熟知している。俺が入れるよりも絶妙な甘さとミルクの加減だった。


ゆっくりとコーヒーを味わって、時計を見上げた。

まだ時間は早いが、念には念を入れ家を出ることにした。

玄関にまだ、妹の靴が有ることが少し気にかかるところだが、さっきまで寝巻姿だったら大丈夫だろうと思いなおす。

そう言えば学生時代、家にやってくる香也にやたらと懐いていたっけ。香也に抱きつく妹に嫉妬した事もあったくらいだ。


家を出ると、気持ちが高ぶるせいか、自然と早足になっていた。

あの角を曲がると香也の家だ。

このまま香也を待って駅まで一緒に歩くべきか、先に駅に行きホームに立つ俺に気づかせるべきか。

迷った俺は壁に寄りかかり香也を待つことにした。一緒にいられる時間が多い方が良いに決まってるとばかりに。

自分が早めに来たのは解っているが、どうしたってもどかしい。

目の前を通りすぎる人を横目で見ながら、香也の出てくるだろう角を息を潜めて見つめていた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ