交渉
―ガチャリ
耳障りな金属音に男の意識が浮上させられる。
彼は眠りから目覚め、一、二度瞬きすると、片膝を立て座り込んだ体勢をほとんど変えずに自身の周囲を窺った。
正面に見えるのは、相も変わらず無粋な鉄格子。そしてその向こう側に見えるのは、好奇の視線を彼に向け続ける人、人、人・・・。
だが決して彼と目を合わせようとする者はいない。
誰もが「これが噂の・・・」とでも言いたげな顔をしながらも、次々と通り過ぎていく。彼の前で立ち止まる者は一人もいない。
中には男と目が合いかけ、慌てて距離を取ろうとする者もいる。彼は格子の中、かつ、厳重に拘束されているにも関わらず。
一方の男は完全に眠りから覚醒し、疎まし気な視線を眼前の鉄格子、そして四肢に絡まる金具に向けている。それは彼の手足を拘束し、背後の壁へとつなげている鉄の鎖だ。身じろぎに伴い、これが音をたてたことで彼の浅い眠りは途切れたのだと思われた。
男は陰鬱な気分で目を閉じる。
けれどもその時間はそう長くはない。
彼は深く深く深呼吸し、次いで瞳を再び開く。
そうして荒れた彼の黒髪から覗くのは、既に暗い色が消え、命の輝きを取り戻し始めている一対の瞳。
その色は金。
虹彩の模様も、ヒトのそれとは僅かに違う。
この世界でこの瞳を持つ者は、特に“ヴォルフ”と呼称され、その他とは一線が画されている。
これはかつてあった”神代の大戦”に起因し、多くが畏怖され、敬遠されてきた。そしてやがては、明確な差別対象となり、今では奴隷として狩られ、高値取引の対象となっている。つまりは同じ“人”とは見なされていないのだ。
一般的には特異な瞳を持っている者、でしかない彼らだったが、実際、ヴォルフと呼ばれる人々の中には尋常でない特徴を見せる者もいる。今なお残る”大戦”の名残だ。
そのために、彼らへの特別視はなくならない。
異端者が人間たちの中で受け入れられるのは、中々に難しいのが現実だ。
男が自由を失ってから約一週間が経とうとしている。
そのうちの三日を彼はこの檻の中で過ごし、毎日をただ格子越しに外界を見つめることで消費している。普通であればそろそろ精神が折れ始めている頃だ。
だが、男は未だ“生きている”。
このような奴隷の身分に落とされ、檻の中、あるいは鎖に繋がれ数日を過ごせば、大抵の人間にまともな思考は残らない。絶望に呑まれ、更にはその絶望さえ感じられなくなり、すなわち、思考することを止めるのだ。彼らを管理している側も当然そうなるように誘導する。
思考しなくなった人間など、生きながら死んでいるに等しい。
だがそうやって周囲の一般奴隷が人形と化していく中で、唯一ヴォルフである彼だけは瞳に光を灯し続ける。勿論そんな奴隷を管理者たちが放置するはずもない。
食事は最小限にまで減らされ、ただでさえある精神的負荷に加え、生理的欲求である飢餓感が、彼に更なる追い打ちをかけている。
それでも男は“生きて”いた。彼という存在が非常に貴重であり、管理者たちとしても決して殺すわけにはいかない大事な商品であることを、彼自身が知っていたことも大きい。
そうして男は自らに降りかかる理不尽に怒りを向け続け、常に自由になる方法を考える。
たとえそれが無理に生み出した活力であったのだとしても、“生きる”上では最も重要なことだった。
瞳を煌めかせ、さながら野生の獣のように静かに座り込んでいた男の頭上に一つの影が不意に落ちる。
「貴方、私に雇われませんか?」
次いで耳に届くのは、まだ若い女の声。檻の外からかけられたその言葉はまっすぐ男に向けられており、ふと面を上げた彼は、そのまま声の主と視線を合わせることになった。
男は咄嗟に何を言われたのか理解できず、反応に遅れる。
「私に雇われてもらえませんか?」
再度女が問うてくる。どうやら聞き間違いではなかったらしい。
「・・・俺を買う、ということか?」
数秒遅れて男は問い返す。その声は擦れ、感情を抑えたものだったが、しかし微かな苛立ちが見え隠れする。男にとっては“買われる”という行為自体が嫌なのだろう。
「・・・まあ、そうとも言えますが。私としてはあくまで貴方を“雇いたい”と考えています。」
女は無造作にまとめた銀髪を後ろから前に垂らし、深い蒼の瞳で飄々と返してくる。その表情は穏やかな笑みを浮かべており、容姿に際立った魅力はないが、豊かな知性を感じさせる瞳をしている。
「・・・俺に選択権をやろう、とでも?」
対する男は檻の中の暗がりから、漆黒の髪に金の瞳のみを煌めかせ、淡々と問いかける。
「忌憚なく言ってしまえばそういうことです。」
彼女は静かな瞳で淀みなく答え、一方の男はしばらく黙然として檻越しの女を観察する。
「俺が、どういう存在なのか知っているのか?」
疑わし気な調子を僅かに纏いながら、男は再び問いかけた。
彼はまさに“本物”であった。
ただ瞳の色が珍しい存在なだけではない。いわゆる、他とは違う“特異な点”があった。だからこそ一般奴隷とは隔離され、独り檻の中、鎖にまで繋がれているのだ。
加えて競にさえ出されていない。
最大限高値で売れるよう、奴隷は競に掛けられるのが普通であるのにも関わらず、だ。
現在であっても、恐らく男の視界に入らない位置には監視の目があるのだろう。もうしばらくでも会話が長引けば、まず間違いなく様子を見に近づいてくる。
「ええ。一応知識として知ってはいます。貴方の扱われ方から“本物”であろうことも分かりますね。」
常識的な感覚からはかけ離れた、平然とした口調で女は返す。
しかし本来ならば女子供は勿論、まともな人間ならば恐れて近づかないような存在であるのが“本物のヴォルフ”というものだ。
「・・・何が目的だ?」
女は彼を雇うと申し出た。つまりは何らかの必要性があるということだ。
だが、ただの女性にヴォルフが必要な事態が早々あるとは考えにくい。
すなわち興味本位で声をかけた可能性が高い、と男は内心警戒する。他人の自尊心を満たすためだけに己が飼い殺されるのは、彼にとっては到底許しがたいことだった。
しかし、女の答えはそんな男の警戒を裏切っていた。
「力が欲しいからです。
・・・私個人の価値を知りたい、というのもありますかね。」
「・・・・・・。
つまりは、俺を基準にして、お前が他人に選ばれるような価値を持っているかを確かめたい、ということか?」
女の意図するところが分からず彼は数秒沈黙したが、しかし一つの解釈を思い浮かべて口を開く。変わらず微かにしか感情を浮かべない声音と表情で、男は確認をとった。
彼にとっては気分の良い話ではなかったが、しかし一方では利己的な理由であった方が信用はおける。
女は肯定し、続ける。
「一つ目の理由の方が大きいですが、しかし私自身に他人から選ばれる価値がなければ“力”など無用の長物です。私は、今の私に果たしてその価値があるのか、それをぜひとも知りたい。
勿論今ここでそれを明らかにできるとは考えていません。だからこそ貴方を雇う、と私は表現しています。
貴方を奴隷として拘束しようとしたところで私にできるはずもありませんし、ちなみに言えば私は旅先です。私の本拠へと帰る道すがら、貴方に最後まで自由意志で従っていただけるかどうかで私が個人的に判断する事柄です。」
自らを売り込む弁論家よろしく、自分には人がついてくるだけの価値があるはず、との自信があるかのような声音で彼女は述べる。
しかし語尾だけは、誤魔化しきれなかった不安によって、僅かに震えていた。“尋常でない聴覚”を有する男にのみ、それが聞き取れる。
「・・・現実的には、俺に選択肢などあってないようなものだと分からないのか。なぜ俺の意思を今ここで問う。」
どこまでも淡々と、男は檻の奥から女に言葉を向ける。
鉄格子を挟み、影の中で座り込む男と日の下に立つ女。
彼らは周囲の騒めきの中、まるで世界に自分たちしかいないかのように互いの思考を探り合い、信用がおけるのかどうかを窺っている。
「それが、建前では何と言おうと状況的に貴方に行動を強制させてしまう、そんな私からのせめてもの誠意です。」
緊張を感じさせる声音が女から返ってくる。ある意味で、彼女にとっては第一段階とも言える状況なのだろう。この態度がどのように受け取られるかで今後が変わるのだ。
「・・・全く、物好きだな。」
しばらくの沈黙の後、男は聞こえるか聞こえないかの声音で呟いた後、憮然とした様子で返答する。
「とりあえず、いいだろう。・・・この俺が、買えるのならな。」
彼が競に出される気配がないこと、そして彼の価値、加えて彼を有する奴隷商人の情報を勘案すれば、“殿下”への献上品等として想定されているのは明白だった。とてものこと女の持ちかける商談に簡単に頷きが返るとは思われない。
「まあ、一種の賭けではありますが、・・・見事乗り切って見せましょう。」
男の了承に僅かな安堵を見せた後、にこりと女は返して離れていく。やはり近くに見張りの者がいたようで、そいつに彼女は声をかけたようだった。しばらく会話が成され、更にそれは離れていく。物が物であるから十中八九、奴隷商人ルイス・アクロイド本人が出てくるはずだ。
男は鎖の音を響かせながら体勢を変え、足を組み換える。彼の視界には暗く鉄臭い檻、そしてその先に相変わらず無遠慮にこちらを覗き通り過ぎていく人間たち。また、意思を失いぼんやりとした目をした一般奴隷の姿も端に映る。
努めて希望を持たないよう、己を戒めながら、しかし彼女がこの状況を変えてくれるのではないか、とちらりとでも男は考えてしまう。
自由への渇望を身が震えるほど感じながら、彼はゆっくりと瞳を閉じた。
今回は前話の少し前のことになります。
次話の更新も一週間後です。
2017/10/25 ウォルフの説明に矛盾があり、訂正を入れました。