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――静かすぎて不安になるな、ここ。
上桐八紘は、地図を見ながら小さくため息をついた。
裏通りということもあって、車もほとんど見かけない。通学路でもないここをどうしてうろついているかというと、高校入学から一緒に暮らしている叔父にお使いを頼まれたからだった。
喫茶店を開いている叔父は、時折常連客へ店のコーヒー豆や茶葉を販売している。普段は自分が出向いたり客が直接とりに来たりするのだが、今回はどうしても手が放せない用事があるからと、八紘が配達をすることになったのだ。
にしても、叔父の地図はどうもわかりづらい。
目印となりそうな建物について、長方形の横に『上品そうなビル』だの『洗濯物がやたら多い家』だの書いてあるが、探すのにいちいち時間がかかる。
右に曲がる目印の『ラベンダービル』とやらを探して視線を彷徨わせていると、手前のビルの屋上に――巨大なスチールウールが見えた。
「…………えっ?」
思わず目をこすって見直してみるも、年季が入ったクリーム色のビルの屋上に、硬そうな黒い糸の塊があるようにしか見えない。どうやら、フェンスに絡みついているようだ。
慌てて地図を見ても、どこにも『スチールウールビル』なんて書いてはいない。
八紘は眉間にしわを寄せた。
「……も、もしかして悪縁? いや、でもフェンスにって……」
思わずポケットの中の糸切り鋏に触れる。先代の『縁切り』だった祖母から譲り受けたものだ。
縁切りには、人の想いや感情が糸として見える。ご縁の糸と呼ばれるそれは、縁切りにのみ切ることができる代物で、感情の良し悪しや想いの強弱によって色も太さも様々ある。
縁切りはそれを見極め、必要とあらば生まれ持った力でその糸を切る。人の心や関係性を大きく変えるというその能力ゆえに、今も昔もひっそりと続けられてきた仕事だ。
だが、と八紘は首を傾げる。
黒の糸なら、まず間違いなく悪意があるはずだ。
しかし、普段から心がけてご縁を見ないようにしている八紘が見逃せないほどの強い悪意を、人ではなくフェンスに向けるとは、おかしなこともあるものだ。
感心まじりに見上げていると、黒い塊の中の一筋の鮮やかな橙が目に入った。
視線で辿っていくと、奥に見慣れた学生服が見える。
こんなところに学生が、と驚く間もなく、その人物と目が合った八紘は、短距離走者時代に培った瞬発力を活かしてすぐに薄紫色のビルへと走った。
――ぶぶぶ部長! 新聞部部長だ!!
後輩の新聞部・志波みちるから悪評は常々聞いている。
愉快犯でオカルト好きで目的のためには手段を択ばず、いいところは締切りを守るところだけだという極悪非道の部長らしい。可愛い後輩が「あの変人に目をつけられたらやばいですよ」と遠い目をしていたことを思い出し、八紘は鳥肌が立った腕を押さえた。
しかし、走り去った彼女は気付いていなかった。
極悪非道の部長が、八紘の名前が書かれた手帳を開きつつ、怪しい笑みを浮かべたまま階段を下り始めていたことに。
◆◆◆
「初めまして、上桐八紘サン」
眼鏡の奥の目を優しげに細めた男子学生に朗らかに声をかけられ、八紘は思わず手に持った上履きをぼとりと落とした。
人違いだと思いたかったが、名指しされている。
助けを求めて視線を彷徨わせるが、こんな時に限って昇降口には誰もいなかった。
そういえば、今日に限って下校を一緒にと誘ってくれる隣のクラスのイケメンがいない。先日トラックに轢かれそうになっていたところを助けて以来、なにかと声をかけてきていたが、さすがに飽きたのだろうか。面食いの八紘を唸らせるほどのイケメンだったから、八紘程度を相手にし続けるわけはないのだが。
――いや、それにしても、こんなタイミングで飽きられるなんて。せめて今日まで声をかけてほしかった。
引きつった笑みを浮かべたまま現実逃避をしている間に、昨日目が合っただけの新聞部部長はどこからか名刺を取り出した。
「僕、こういうものです。っていうか知ってるよね? 三年の神足巡夜、新聞部部長やってます」
「あ、ご丁寧にどうも……」
「いえいえ。聞けば、僕の弟子の志波の先輩だとか。先輩同士仲良くしようよ。ねっ?」
にこにこと笑う神足に握手を求められる。
ここで断るのはさすがに失礼すぎるかと渋々手を差し出すと、思ったよりも強い力で握られ、八紘は肩を跳ねさせた。
「ひい! な、なんですか一体!?」
「やだなあ、とって食べるわけじゃないんだから落ち着いてよ」
「落ち着きます、落ち着きますから離してもらえませんか」
「だって上桐サン、中学の時はスプリンターでしょ? こう見えて僕、運動音痴なんだ。昨日みたいに逃げられたら困るじゃん」
「に、逃げませんよ、やだなあ、逃げるわけないじゃないですか! ……あの、ほんとに逃げませんから離してくださいほんとに」
誰かに見られて変な噂でも立ったらまずい。
低姿勢で頼み込むと、かさかさした手がぱっと離されて、代わりにぐっと距離を詰められた。
思わず息をのむと、にやりと唇をつり上げた新聞部長は、低い声で言う。
「上桐サンさ、この前新聞部室のシャーペン壊したよね?」
「えっ」
八紘はぴくりと動きを止める。心当たりがあった。
三日前、志波に会いに新聞部に行った時に部室にあったシャーペンを借り、三文字書いたところでばらばらに崩壊させたのだ。志波は「古いものばかりなので気にしないでください」とゴミ箱に放りこんでいたのだが、部室に二人しかいなかった時のことをなぜ神足が知っているのだろう。
「いやあ残念だなー、あれ気に入ってたんだよ、前の部長から譲り受けたものなんだけどね。買い直すったって、同じ物は二度と手に入らないわけだし?」
わざとらしく無念そうに首を振って、ちらりと八紘を見る。
八紘はぐっと言葉に詰まった。なんだか仕組まれている気がしなくもないが、自分が備品を壊したのは事実だ。
本当にやばいことを頼まれたら職員室に駆け込もうと考えながら、諦めて重い口を開く。
「……あの、どうしたらいいですか」
「うわあ、ありがたいなー! 上桐サンには取材に付き合って欲しいんだよね」
八紘が「どうしたらいいですか?」と語尾を上げるより早く、神足は明るい調子でさらりと言った。
思わぬ真面目な相談に、八紘は眉間にしわを寄せる。
「えっ? 取材って……」
「ちょっと気になる場所があるから、一度じっくり調べてみようと思ってね。ちなみに場所は昨日のビルだよ。きみも熱心に見上げてたよね?」
言われて、八紘は例の『スチールウールビル』を思い出す。
自分が目にしたものは勿論不穏だが、オカルト好きの神足に誘われるなんて、いわくつきに違いない。
霊感がない八紘は幽霊の類は見たことがないが、今後見たいとも思わない。なんとか断ろうと口を開いた。
「いや、でも、学生が勝手に入るなんて、駄目なんじゃないですかね?」
「許可はもらってるんだ、屋上からの景色を撮らせてほしいってね」
「ほ、他の部員さんとかは……」
「今日は偶然、誰もいなくてね。帰りだってそれほど遅くはならないはずだし、ちょっと手伝ってくれるだけでいいんだけどなあ」
猫なで声で言う神足に、八紘は考える。
もしここで断ったら、可愛い後輩に迷惑がかかるかもしれない。助手くらいなら仕事としては楽だろうし、心霊現象だって日が沈むまでは起こらないだろう。
仕方がない。八紘は小さく息をついて、神足に頷いた。
「わ、わかりました。助手って、具体的には何をすればいいんですか?」
観念した様子に小さく笑って、神足は目を細めた。
「別に? きみに見えているものを、僕に教えて欲しいだけなんだよ。ね、縁切りの上桐サン?」
思わず正した背が、日陰に冷やされた靴箱にとんと当たった。