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「甘く、冷たい、氷菓子」第一話



「甘く、冷たい、氷菓子-3-」



 そうしている内に夜が明けた。白に反射する鋭い太陽の光。夜通し運転しつけ疲れ切った身体に容赦なく降り注ぐ、眩しすぎるその光。いつの間にか雪は止んでいた。

 余程疲れがたまっていたのだろう。太陽が昇っても、スノーモービルが大きく揺れ動いても、少女の寝息が乱れることはなかった。

 困ったな。

 ずっとスノーモービルを走らせているが、一向に何も見えてはこない。一面に広がる銀世界に不安が募る。

 本当にこのまま真っ直ぐでいいのだろうか。それともどこかで曲がらなくてはならないのだろうか。見たところ何もないこの場所でどうしたら良いのか分からず、彼は右往左往した。

 ……後ろで寝ている少女を起こすべきだろうか。

 サイドミラー越しにまだ眠っている少女をチラリと見やる。昨日とはガラリと変わり、薄いピンク色にそまった少女の頬。規則正しい寝息。安心しきっているのかその口には微笑が浮かんでいた。たいへん無防備な幼いままのその姿。そんな少女の姿に呆れ、彼が顔をしかめる。

 何だか起こしてしまうのは忍びないような気がした。

 仕方がなく目を前に戻し、また先へと進み続けた。

 昨日は焦っていてよく見えなかったが、よく観察してみると、この黒いスノーモービルには左ハンドルの近くにデジタル時計が付けられていた。

 緑ネオンの地に黒い文字。現在、時刻は九時ちょうどだった。

 そういえば腹が減ったな……

 不意に自分が昨日から何も食べてないことを思い出す。左手をそっと空っぽになった胃の辺りへと添える。

 ぐるるるるるるるるるう。

 鼓膜を揺らす空腹を知らせる盛大な音。その音に、驚いて二人が肩をびくつかせる。

 「え、えへへへへ。お腹空いちゃいましたね」

 少女が寝ぼけ眼をこすり、半ば寝ぼけながら照れくさそうに笑う。

 「そうだな」

 彼が独り言のように呟く。それが、必死に笑いを堪えている彼に今できる精一杯の気遣いだった。

 「そろそろ、ご飯にしましょうか」

 話題を変えたくって早口に少女が言う。と、同時に熱が集まりどうしようもなく熱くなった顔を下へと向けた。

 恥ずかしい。

 少女の顔が林檎のように真っ赤に染まるのを彼は見なかったフリをして、スノーモービルをその場に停止させた。

 少女がバイクから飛び降り、少女の座席の下にある収納スペースからノート一冊分ほどの大きさで、辞書ほどの厚さの簡易テントを取り出し、雪の上へと置く。これもラビン作だ。しかし、これは中々に使い勝手が良く、泊りがけの長期任務では毎回必ず携帯していた。

 毎回こういう役に立つだけの発明をしてくれればいいのに……

 簡易テントと共に入っていた、テントの設置スイッチを押しながら少女は昨日の爆発を思い出し、眉をひそめた。

 「食べ物はこのリュックの中でいいんだよな?」 

 ふいにそう問われ、少女が彼の方へと振り返る。ちょうど、彼が座っていた座席の下からあの色とりどりになってしまった白いリュック取り出そうとしているところだった。

 「はい、そうです」

  答える少女の横で空気が弾ける小気味の良い音と共に、自動的に組みあがった真っ白なテント。その中へ彼がリュックを片手に潜り込む。その後で少女が続いてテントの中へと潜り込んだ。

 テントの中は質素な部屋のようで、真っ白な壁に茶色い床がご丁寧に敷かれていた。中はすでに太陽光パネル式熱製造機が稼働しているためか、ほんのりと生温かった。

 彼は目を見開き驚いた。こんなにハイテクなテントを見たことがなかったから。

 それと引き換え、少女は慣れた様子で淡々とテント内の環境設定をするため、壁にかかった布敷モニターとにらめっこしていた。

 「体長はー寒がりだからー。お、ん、ど、は高めにして……っと」

 へんてこな節を付け歌うように少女が独り言を呟く。

 彼は、はてなと首を傾げた。確かに彼は寒がりのはずだった。しかし、ここに来るまでの間一度もその寒さを感じなかった。いや、感じてはいたがあくまで寒いという情報が脳に伝わっていただけで、自分の身体が冷たくなったり、寒さに震えるということはなかったのだ。

 これは一体……

 「隊長ー、温度設定はいつも通り二十五度でいいですか?」

 少女が振り返る。それに適当な相槌を打って答える。

 おかしい。明らかにおかしい。

 彼は眉間に皺を寄せ考えた。たった今だって、暖かな空気は感じているが、そこに心地よさは感じない。何も感じない。そんな自分の身体の変化に彼は酷く驚いた。

 そんな彼の変化など露知らず、少女はせっせと食事と菓子の用意をし始める。用意といっても、簡易コンロで缶詰などを温めたり、菓子を食べやすいように袋から取り出し、皿に盛り付けるだけなのだが。

 食事を暖めている間に少女は一度テントを出て、今まで乗ってきたあの真っ黒なスノーモービルを隠すための真っ白なシーツを被せに行った。

 まったくラビンの奴め……・

 シーツをかけながら心の中で罵る。

 このスノーモービルには黒以外の色は似合わない! 黒以外で塗れって言うのなら作るのを止めてやる!

 カラーリング作業に入った際、ボディが黒だったために白に変えてくれと頼んだ際、ラビンは目を三角にし、両腕を天へと突き出してそう抗議してきた。

 いつもそうなのだ。

 少女の持つASBライフルしかり、このスノーモービルしかり、彼には戦場で見えなくするよりもその機械が一番美しく見える色に極力したがる。

 そのせいで時々、敵見つかったりするが――

 あれさえなければ最高の技術者なんだけどな……。

 少女は人知れず溜息を吐いた。こんなこと考えたって仕方が無い。頬を一度叩き気分転換する。まだ、冷め切っていない目を一度大きく見開き、テントの中へと戻る。

 「ただいま……って、隊長?」

 テントに戻り真っ先に目に入った彼の顔は、血の気が引き真っ青になっていた。そして、その手には簡易コンロをつけるために少女が使っていたライターが握られ、その先には……。

 「ちょっと、何やってるんですか隊長!?」

 自らの左の小指を火にくべている彼を慌てて止めに入る。素早くライターを取り上げ、手を伸ばしても届かない位置へと投げ捨てる。

 それから、慌てて少女は先程彼が火に当てていた指を掴み確認する。

 え?

 小さな声が漏れ出す。少女は彼の小指を見て目を丸くした。

 どこにも火傷の跡などなかったから。

 いくら簡易コンロ用の温度が低いライターだったとは言え、火は火だ。本来ならば肌が焼け爛れ、血と皮膚が混ざり合いぐちゃりと変形していてもおかしくはない。しかし、彼の指には傷跡一つ存在しなかった。だだ、そこには、いつも通り白く細長い指が顔を覗かせているだけであった。

 「なぁ……どういうことだよ、これ」

 彼の肩が虐められっ子のようになさけなく震えだす。自分の身に起きた事が理解できないといった様子で目を大きく見開き、呼吸は酷く荒くなっていた。ここまで取り乱した彼を今まで見た事がなかった少女はどうしていいか分からず、口を閉じたり、開いたり、目をぐるぐると回していることしかできなかった。

 「俺の体は一体どうしちまったんだよ!」

 自暴自棄気味に彼が荒々しい口調で叫びだす。行き場の無い怒りが彼女の心を刺す。

 「分かりません……ただ、私と同じように戦場に特化した身体に作り変えられたのは確かだと思います」

 少女の声が情けなく震えだす。彼の鋭い眼差しに射抜かれ、少女はその場から動けなくなってしまった。

 実験場に幽閉されていたと聞いた時点で、自分自身の身に何かをされてしまっているのだろうと彼は薄々勘付いてはいた。しかし、果たしてこんな魔法みたいなことが可能なのだろうか?

 少なくとも彼が居た時代にはなかった技術だ。しかし、それから何年か先。科学が発展した時代ならばありえなくもない話だろうけれど……。

 にわかに信じがたい。だけれど、たった今自分の身に起こっていたことだ。受け入れなくてはならないだろう。

 込み上げる怒りを飲み込み、彼が溜息を吐く。少女の肩が大げさに上に上がる。

 今はとりあえずこの少女の話を黙って聞くしかない……か。

 「悪い……取り乱した」

 彼が左手で顔を覆い隠す。

 「いえ」

 「それで……詳しく話してもらえるか? 俺のことと、これからすべきことを」

 少女が無言で頷く。

 それから、彼と少女は食事を取りながら沢山の事を話した。

 そして、少女の話はこうだった。

 まず、彼は現在二十二歳で、階級は大尉。そして、実験体になる前の四年間、彼はとある特殊小隊の隊長をしていた。獣人ということもあり、普通の人間よりも元々優れていたが軍で訓練を受けていく日々の中でその才能が開花していき、結果、地上戦では彼の右に出るものがいないほどの実力を身につけたのだという。

 そんな御伽噺のような話を聞き、彼は自分がまるで自分が物語の主人公にでもなってしまったような、そんな不思議な心地がした。

 それから彼は、ある日少女に声がかかった長期の人体実験の話を、少女の代わりに引き受けた。それが丁度今から半年程前の話し。それから一週間後。彼は戦死したと少女や彼の親類などには連絡が行き、それ以降彼の行方はさっぱり分からなくなってしまったそうだ。

 「……だから、詳しい実験の内容とかは分かりません。でも、ラビンと落ち合えれば何か分かるかもしれません」

 「ラビン?」

 彼が小首を傾げる。たしか入隊式の時に聞いたことがある名前だ。

 「ラビンのことも忘れちゃったんですか? ……それは、それは、ラッキーですね」

 少女が口元に下衆な笑みを浮かべ、明後日の方向へと目を向ける。

 時々少女がその仲を疑ってしまうほど、彼とラビンは仲が良かった。しかし、今。彼はラビンのことをすっかりと忘れてしまっているようだ。

 少女が低く不気味に笑い出す。そんな少女を彼は顔を引き攣らせながら見つめた。

 「……それで、そのラビンって誰なんだ?」

 中々自分の世界から戻ってこない少女に痺れを切らし、彼が問いかける。少女は、はっとした様子で慌てて元の愛想のいい笑みを顔に浮かべなおす。

 「ラビン・アシュビィー。えっと、ですね、一言で言うなら天才技術者ですね。そして何故か私と隊長の整備士を主にしています」

 天才技術者なのに軍の整備士……。

 「あっ」

 思い出した。彼が目を大きく見開く。そんな彼の様子に少女がはてなと首を傾げる。

 確か入隊式のあの日。何かの代表者として三つ揃いの灰色のスーツに身を包んだ、そんな名前の気取った男がいたような気がする。そして、一目見ていけ好かないその姿に、こいつとだけは絶対に仲良くできないと思ったっけかな。

 彼が一人頷く姿を少女が曇った顔で見つめる。

 「まさか、ラビンのことだけは覚えているんですか?」

 酷く恨めしそうな少女の声に彼は思わず首を横に振った。

 「いいや、覚えたというよりも……」

 「いうよりも?」

 「記憶がなくなったところよりも前の話だから、覚えてるじゃなくって知ってたというか……」

 歯切れ悪く彼が言う。その物言いがますます少女の疑惑の目を強くする。

 「隠さなくたっていいんですよ。お二人はとても仲が良かったんですから」

 「仲がよかった!?」

 彼の声が盛大に裏返る。

 「え、えぇ、はい」

 少女が目を丸くしてきょとんとした顔をする。

 まさか、そんなはずは――

 彼が首を振る。第一印象は最悪。それに歩兵と整備士は確かに頻繁に会うこともあるだろうが、隊内の仲間とは違う。仮に、仲良くなったとしても上辺だけの仲ばかりであることが多いと、その昔、五つ上の彼よりも前に軍に入隊した近所の兄さんが言っていた。

 しかし、少女の口ぶりから言ってどうやらそうではないらしい。

 「あの、もしかして本当に覚えてないんですか?」

 少女がおずおずと尋ねてくる。彼はそれに一度頷き答えた。

 少女が右手を握り締め、ガッツポーズを胸の前で作る。

 ざまぁーみろっ!

 少女がニヤリとまた口元に不気味な笑みを形作る。そんな少女を彼はげっそりとした顔で見守った。

 ふへ、ふへ、と空気の抜けた個性的な笑い声。彼がそんな彼女を尻目に皿の上に残った食事をたいらげる。そして、食べ終わってからほんの少し砂糖が足りない気がした。

 脳が乾くような感覚。砂糖が足りない時、この世界の人々は脳が乾くような感覚に襲われる。やがてそれが酷くなっていき、頭に白い靄がかかり何も考えられなくなる。ついでに、サトウキビが身体からじわり、じわりと生えてくる。そうしている内に、全身が何も考えられなくなり、サトウキビが完全に成長しきると同時に死に至る。

 考えただけでもそのおぞましい姿に身震いする。

 幼い頃、一度、家出をした際に彼は糖分不足でサトウキビが生え死にかけたことがあった。その時の、生への欲求が無くなっていき、生を感じられなっていく何とも言いがたい気味の悪い感覚。あんな目にはもう二度とあいたくはない。覚えていないけれど、少女の話からおそらく、だから彼は戦った。だひたすらに生を感じられる、死と隣り合わせの最前線で。

 首を左右に振り、背後から手を伸ばす死への恐怖を振り払う。

 「なぁ、ちょっと砂糖が足りないからもう少し貰ってもいいか?」

 気持ちを早く切り替えたくって少女に尋ねる。

 少女は皿に残った食事を慌てて口の中へかき込み、彼と自分の皿を引っ手繰るようにして片付ける。リスのように膨れ上がった少女の淡いピンク色の頬。

 少し可愛いな。彼は思った。

 少女の喉が大きく上下に揺れ動く。それから少女は、花の咲くような笑みを顔に浮かべ、待ってましたと言わんばかりに「ですよね、足りませんよね!」と喜々としながら言う。

 少女がリュックの中を探りお目当ての青い小さなクーラーボックスを取り出す。

 「じゃぁーん!」

 語尾に音符が付きそうなほど楽し気なその声。開けたクーラーボックスから白い空気が漏れ出す。それを彼の目の前へとずいと差し出す。

 彼がそっとクーラーボックスの中を覗き込み、小さな声を漏らす。

 その中にはカップアイスと棒アイスが四本ずつ。計八本入っていた。

 「隊長はどれにします?」

 少女が彼の覗き込むようにして尋ねる。

 どれが良いかと言われても、な……。

 バニラ、チョコ、イチゴ、抹茶。ソーダ、コーラ、あずき、みるく。全て味が違うアイスを目の前にして彼が小さく唸る。

 それもそのはず。全て彼が好きな味だったから。また、彼が生粋の甘党であったためなおさらである。

 アイスを吟味する彼とそれを嬉しそうに見つめる少女。

 「……じゃあ、チョコを貰おうかな」

 たっぷり一分以上考えに、考え抜いて、彼はそっとチョコ味のカップアイスを指差した。

 「では、私はバニラをいただきましょうかね」

 チョコとバニラのカップアイスを取り出しながら、少女が歌うようにそう言った。

 中身が溶けぬようしっかりと蓋を閉め直し、またリュックの中へとクーラーボックスを仕舞う。そして、代わりに紙の袋に包まれたうすっぺらい木製のスプーンを二つ取り出す。

 チョコアイスと一緒にそのスプーンを彼へと差し出す。

 「ありがとう」

 「いいえ」

 短い事務的な会話。だけれど、不思議とその淡々とした会話が苦痛に感じなかった。むしろ、心地が良いとさえ感じた。

 バニラアイスのカップの蓋を手に力を入れて少女が引っ張る。

 空気の抜ける軽い音。それから更に、アイスの表面を覆うビニールが途中で破けぬように慎重に剥がしていく。

 どちらか一つだけでも良いのではないかといつも疑問に思うが、衛生面など少女にはよく分からない諸々の事情のせいでこの先もずっと、このままなのだろう。

 何だかそれが妙に気に食わなかった。

 だからと言って、食べることを止めるでもなく、紙袋を破り木製のスプーンを取り出し肌色の甘い水の塊の上へと勢い良く突き刺した。

 手に伝わる硬い氷を押しのける感触。少女の目が糸のように細くなる。まるで人を指したときの感触のようだと思った。

 そういえば、実験室にいた彼ら――元々、仲間であったあの軍人達。あの少女に殺された人々は一体どうなったのだろうか?

 まだ硬すぎるアイスを無理矢理抉り出し、口の中へと放り込む。

 冷たいという物は感じる。たが、どうということは何もない。

 彼と似たように、少女もまた温度というものに対し身体が極力反応しないように作り変えられていた。しかし、彼と違い彼女の体調はしっかりと温度に左右される人間のままであった。

 口いっぱいに広がるくどいくらいに甘ったるいアイスの味。

 少女と彼、それからラビンが消えてしまった今。あの国はおそらく敗戦への道を一気に駆け下りていくだろう。特に、ラビンという天才技術者とアサという他国の一小隊にも匹敵する戦力を失ったことにより。

 元より戦況は敗戦へ、敗戦へと傾いていた。しかし、それを国民に知らせることをせず、むしろ嘘っぱちな勝利をニュースで流し、国民を泥沼化していく戦場へ次から次へと誘っていた。一言で表すならば、最悪の戦況。

 そして、そのうち取られた苦肉の策が少女や彼のように人柱になる存在を作ることだった。

 ある者は自らの命を国に捧げ英雄に。ある者は死ぬことこそ正義だと世に伝え。ある者は死ぬことを恐れるなと子供たちに教えた。

 演ずるは軍人。あやしげな誓いの文句を並べ立てて、豹のような髭をはやし、名誉欲に目の色を変え、むやみやたらに喧嘩っ早く、大砲の筒先向けられてもなんのその、求めるのは、あぶくのような功名のみ――少女にはこの言葉がぴったりとこの国に合うと思った。

 もう何もかもが滅茶苦茶だった。こんな国さっさと負けてしまえばいいとさえ思っていた。だけれど、自分が死ぬのは御免だった。だから少女は戦った。その身を血に浸し続けながら。

 それがさらに戦況をいつまで立っても抜け出せぬ最悪な状況を長引かせると知っていながらも。

 どんな人々。どんな場所でもそうだ。戦況の悪化は無駄な血で地面を地獄で塗りたくる。

 この目に焼きついたその光景が今もなお消えることはない。いっそ両目が潰れてしまったらいいのに。悪夢から目覚めるたびにそう願った。

 目を瞑っても、耳を塞いでも。惨劇は止まらない。

 もう、見たくない、聞きたくない。彼を連れ出すという口実で軍を逃げてきたも同然の少女。

 少女はそれを負い目に感じていた。だからと言って戻る気にもならなかった。

 また一口。一口。一心不乱にアイスを口の中に放り込む。

 冷たさが舌の上を、喉の奥を、胃の中を這う。

 口の中いっぱいに広がっていくバニラのねっとりとした甘さ。脳を犯すその香り。

 「なぁ」

 ふいに彼が問いかける。その問いかけに少女が顔を上げる。

 「こんな寒いところで、こんな冷たいアイスを食べる意味なんてあったのか?」

 口の中にアイスを放り込みながら彼が淡々と続ける。

 「言っちゃ悪いがアイスよりももっと良いもんがあったんじゃないか? こんなわざわざ体を冷もんじゃなくって……しかも、効率がいいもんがさ、軍から持ってきたんだったら何か他にあっただろ?」

 「ええ、ありましたよ。沢山」

 「だったら何であえてアイスなんだ?」

 くすりと少女が小さく笑う。

 初めは自分も同じように思っていた。だけれど――

 体温でいくらか柔らかくなって食べ頃になったアイスを見下ろす。

 「どうしても寒い時に食べたかったからですよ」

 「何故?」

 「寒い時に食べるアイスが一番美味しいからです」

 少女はそう呟きながら瞼をそっと閉じる。

 寒い時に食べるのが一番美味しいんだよ。

 脳裏に浮かぶ幼い日に見た彼の笑顔。差し出された温かな手には一つのバニラアイス。

 少女だけのものになったその記憶。

 目をゆっくりと開きながら少女は喉の奥をクツクツと笑う。

 まさか今度は自分がその言葉を言う番になるとは思ってもみなかった。

 そんな少女を不思議そうに見つめながら、彼は小さく唸る。顎に手をやり、いかにも考え事をしていますといった様子だった。

 少女が笑うのを止める。

 しばらくの沈黙。

 少女が淡々と残りのアイスを租借し始める。

 さくさくと柔らかな氷をかき分ける小さな音と、外でいつの間にか降り出したらしい雪が地へと滑り落ちる音だけが鼓膜を揺らす。

 テントの中。オレンジ色の仄暗い明り。

 それが二人の顔をやさしく照らし出す。まるで黄昏時のように。

 「――分からなくもないな、それ。」

 沈黙を破る彼の優しげな声。唐突に彼が顎から手をぱっと離し、またアイスを食べ始める。

 突然の発せられた彼の言葉の意味が分からず、思考が一時停止する。

 「えっと……何がですか?」

 「寒い時に食べるアイスが一番美味しいって話」

 彼が小さく微笑む。半年前に私に向けられた笑みによく似ていた。

 彼が記憶を失ってから見た中で一番優し気なその表情。

 少女は自分の頬に熱が集まっていくのを感じた。熱で犯され真っ赤になった頬を隠すように、左手でそっと口元を覆い隠す。

 ふわりと香るバニラアイスの、夢のように甘ったるい匂い。

 そういえば初めて一緒に食べたのはバニラアイスだったっけ。

 尾行をくすぐるその香りと、彼の笑顔に頭がくらくらする。

 恋するというのは、こういうことなのだろう。

 心の中で少女は一人思った。

 「あ、そういえば、まだこれから行く場所伝えていませんでしたよね」

 いつまで立っても熱いままの顔をどうにかしたくって、彼に適当な話題を振る。ついでに、顔を隠すために後ろを向いてリュックの中である物を探す少女。

 そんな少女の気持ちなど露知らず。少し不思議そうにぼんやりと少女を眺めながら、彼は適当な相槌を打った。

 「あ、あった、あった!」

 少女がリュックの中から古ぼけた一枚の地図を取出し、床に広げる。

 かび臭い匂い。かさかさに乾いた今にも破けそうな紙。雰囲気作りも大切だとか言って、まだ真新しいはずのそれはすっかり古風な物にされてしまっていた。

 そこに描かれたシュガマミーレ三千世界。その広大な土地のうち、少女や彼が住むユキミエンペラーの白。それから、その中にぽっかりと浮かびあがる真緑――。

 そこには広大な森が広がっている。そして、森の奥には、メニートウ神話において神々の集合場所とされるドルンチェス山に繋がる扉があるのだという。その昔、彼が子供の頃に聞いたお伽噺なのだと言って教えてくれた。

 「これは……?」

 「神話の中……あの、ドンチェス山に繋がる扉があるとされている森ですよ」

 「おいおい、まさかここを目指してるんじゃないだろうな?」

 彼が訝しげな目でジロリト疑いの目を少女に向ける。

 「そのまさかです」

 「嘘だろ……だって、あれはあくまで神話で……森すらあるかどうか……」

 「そこは、科学が発展したことで、数年前に森自体の存在は明らかになってますので心配ないですよ」

 「だが、そこまでこの地図でたどり着けるのか?」

 「ラビンが作った地図なので間違いないでしょう」

 淡々と語る少女に、彼があからさまに肩を落とす。

 おいおい、嘘だろ。

 頭を垂れて首を左右に振る。

 「大丈夫です。少なくとも隊長は無事にそこまで届けますから」

 少女が笑みを浮かべる。

 その笑みに背中が粟立つのを感じだ。ここに来るまで少女は彼のことばかりを考え、このままでは命さえ投げ出してしまうのではないかと思える少女の狂気に。

 こいつをこのままにしていいのか?

 胸を掠める罪悪感と恐怖心。

 それから、少女と彼は休憩を終え、また森を目指し走り出した。





 ――それから一体どれだけの距離を走り続けただろう。

 あれだけあった砂糖菓子はもう残り少なくなってしまった。

 少女は最初から分かっていた。こうなってしまう可能性があると。

 それでも、あんなところで死ぬぐらいならいっそ――

 「お前さ、そういえば名前なんていうんだ?」

 雪が全身に積もる。彼の背中に身体を預けた状態でぐったりと虚ろな瞳で宙を眺める少女。

 その背中には白い戦闘服を突き抜け、天使の羽のように無数に生えた淡い黄緑色のサトウキビ。

 「今更ですね」

 「しょうがねーだろ、今まで聞く暇がなかったんだから」

 少女がカラカラと乾いた笑い声を上げる。

 つい数日前から少女の様子がおかしいことに彼は気づいた。だけれど、まさか、ここまで深刻な状況に陥ってしまっているとは微塵も思わなかった。

 急速に成長する命の灯火を喰らうサトウキビ。

 少女に出会ってからもう一週間。

 たっぷりあった砂糖菓子の殆どを彼に食べさせ、自分は粗悪な軍の支給品を少しずつ食べ……結果的に、砂糖不足に陥ってしまったこの馬鹿な少女に心の中で舌打ちする。

 「私の名前はですね――」

 少女が空を見上げる。紺色の空で淡い光を放つ銀色の星と月。

 「ヨルって言うんですよ」

 腰に回った少女の青白い肌。

 「ヨルか……」

 彼も空を見上げる。そこに広がる紺色の空と月。

 「お前にぴったりな名前だな。目色、夜空っぽいし」

 ぽつりと彼が呟く声がすっかり衰弱しきった少女の耳に鮮明に聞こえてきた。

 黒い右目と色を失ってしまった左目。まるで暗い空とそこに浮かぶ月のようだと言って、彼がつけてくれた「ヨル」と言う名前。

 まったく、かなわないなぁ――

 空を見上げる。瞳に映る景色は片目だけ。それでも、月も空も十分見渡せた。

 もう、十分だ。悔いはない。あとはきっとラビンがどうにかしてくれるはず。

 「あっ、あれは!?」

 彼が視界の端に見えてきた闇に沈む濃い緑色に彼が声を上る。抑えきれない興奮のままに、勢いよく少女の方を振り返る。が――

 「おい、ヨル? どうした?」

 地面に落ちた鳥のように、両目をきつく結んだ少女。

 「冗談は止めろよ……なぁ、もうすぐで目的地だぞ? 起きろよ」

 動かぬ少女。その背に突き刺さるように宙に向け生えた無数のサトウキビ。

 彼の背中に冷たい汗が伝う。

 ちくしょう。

 小さく舌打ちをして、スピードを上げる。残り少ない燃料。

 早く。早く。

 急く心。目の前に迫る真っ白な雪の上にぽっかりと浮かぶ緑。

 森の少し手前でスピードを落とすスノーモービル。そして――

 「ああ、くそっ」

 停止したスノーモービルから飛び降り、後ろに座った少女の腕を肩に乗せる。

 「……隊長。もういいです」

 鼓膜を揺らす、掠れた小さな声。

 「馬鹿言ってんじゃっ、ねーよ!」

 「いいんです。隊長だけでも早くラビンのところへ行ってください」

 「ふざけんな!」

 自分でも驚く程大声なが喉の奥から溢れ出す。

 「お前一人知ってて、俺だけ何にも知らないでいたままでいてたまるか」

 少女を引きずりながら森の中に足を踏み入れる。いつの間にか夜は明け、朝になっていた。

 「お前にはな、生きていてもらって。それで、俺の記憶を取り戻す手伝いをさせるからな、絶対にっ!」

 足に絡みつく蔦に足を取られながら、森の奥へ、奥へ。

 「だから、それまでは絶対死なせない。分かったか!」

 枝にひっかかり、服が、頬が、破ける。それでも、一心不乱に生き残るために、生き残る術を探す。

 「……まったく、隊長は強引ですね、いつも」

 くすりと少女が小さく笑い、薄っすらと瞳を開ける。

 わぁっ。

 瞳に飛び込んできた。蔦とコケに覆われた大きな板のような何か。人口じみたその形が、自然の中に浮き立つ。そんな不自然な光景に、少女と彼の口から自然と感嘆の声が漏れ出す。

 「扉だ……」

 彼がぽつりと呟く。

 一歩、一歩とその扉へと彼が近づく。少女は掠れた視界でぼんやりとそれを見つめていた。

 と、不意に、聞こえてきた草を掻き分ける音。少女達とは違う方向から聞こえてくる二つの足音。

 彼が音がした方へと顔を向ける。

 向こう側の森の間から覗く、二つの影。それがゆっくり、ゆっくりと近づいて―


シェイクスピア「お気に召すまま」より一部引用。


これにて、一区切りです。

アイスの下りが書きたかっただけが気が付いたらこんなに長くなりました。

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