「甘く、冷たい、氷菓子」第一話
「甘く、冷たい、氷菓子-2-」
「隊長!」
泣き叫ぶ声にも似たその声。未だ、耳障りな音を立てて弾ける電子回路と警告音など、もう少女の耳には届いていなかった。
青白く濁った水の中で水草のように、蜜色の髪と彼に着せられた真っ白い実験服が揺らめく。真っ白な肌とうさぎの耳。少女よりも二十センチ程高いわりに、とても細いその身体。間違いない、アサ隊長だ。
少女の目の淵から透明な涙が溢れ出す。それを拭うこともせずに腰に付けたポケットの中から、小さなハンマーを取り出す。
「今そこから出してあげますからね、隊長」
遠くから聞こえてくる男達の怒声。罵声。銃声。警告音。
ハンマーを振りかざす。蜘蛛の巣状に半径五センチ程度のひびが薄っすらと入る。また、ハンマーを振りかざす。ガラスの軋む音。白い蜘蛛の巣状のひびがその両手を四方八方へ伸ばす。目の前の水槽の中で色とりどりの管を付けたられた彼だけを見つめる少女。異常とも言えるその姿。
何度も、何度も、硬いガラスをハンマーで殴りつける。軋む音が大きくなる。細かくなった蜘蛛の巣。後ろから迫り来る男達の怒声。あと、一回。少女が大きく仰け反ってハンマーを勢いよく振りかざす。
水圧に押されて内側から砕け散る、軽いガラスの音。ガラスの隙間から溢れ出す青白い液体。少女の熱を奪うその液体の冷たさ。それはまるで氷菓子のように。
「アサ隊長!」
液体が外へ溢れ出したことにより重力が通常通り働き、彼の身体が下へと力なく崩れ落ちる。ぶつりと嫌な音を立て、彼の身体から抜けていく色とりどりの管。
慌てて少女は、崩れ落ちる自分よりも大きな彼の身体を抱きかかえた。その腕や足に氷のように冷たい液体がかかることも、ガラスが突き刺さることも気にせずに。
「隊長!起きてください!隊長!」
喉が裂けてしまいそうな程大きな声で少女が彼の耳元で叫ぶ。
「んっ……」
ぐぐもった声と共に、酷く苦しそうに咳き込む彼の眉間に皺が寄る。薄っすらと開く青緑色の二つの瞳。少女が一番好きなそのビー玉のように美しい二つの瞳。
「こ、こ……は?」
酷く掠れた彼の声。
「ここは実験室です……それで助けに来ました!」
歯を出し、頬を薄っすらピンク色に染め笑う少女。仮に、少女らしい愛くるしい格好をしていたならば、そこそこ可愛いと賞賛出来たであろうその姿は、真っ白い服や黒い髪にべたりと張り付いた赤黒い血液のせいで不気味さを増すだけだった。
彼の顔があからさまに引きつる。無理もない、目の前でこんな狂った少女がいきなり自分を助けに来たなどと言うのだから。彼は目だけを左右に動かした。自分がたった今置かれている状況を確認する為に。
「さぁ、隊長早くここから逃げ出しましょう!」
少女が嬉しそうに彼の手を引く。その力は少女とは思えないほど強いもので、彼は掴まれた手に走る痛みに顔をしかめた。
少女に導かれるままに割れたガラスにぶつからぬ様にそっと外へと這い出す。ほんのりと冷たい空気が彼の身体から熱を奪ってく。そんな彼の前に少女が着ている物と全く同じ戦闘服と下着が差し出される。一体いつの間に出したのかと疑問に思うほど素早いその少女の動きに、彼は驚き目を丸くした。
「とりあえず、これに着替えてください……あっ、タオルも必要ですよね」
少女が半分だけ肩から下ろしたリュックの中から青色のタオルを一つ取り出し、彼へと差し出す。彼はそれを受け取り、頭を拭きながら「ありがとう」と短く礼を言った。
「いえいえ」
少女が満足そうに微笑み、くるりと後ろを向いた。警告音はまだ鳴り止まない。
彼は濡れた身体を拭き、渡された白い戦争服に着替えながらふと頭に浮かんだ疑問を少女へと投げかけた。
「助けに来たって言ったけど、そもそも、お前は誰なの?」
「えっ……」
突然彼から発せられた言葉に少女の頭が動きを止める。
一体、今なんて?
「悪いけど、俺……」
まさか、そんな……。聞きたくない。聞きたくない。
最悪の事態を想像し、少女の身体が虐められっ子のように情けなく震え出す。
そんな少女のことなどお構い無しに彼は、自分の中から湧き上がる違和感と疑問を投げかける。
「お前のこと全く知らないんだよね。どっかで会ったことあったっけ?」
「そんなはずはっ!」
絶望的な言葉。少女は目一杯に涙を浮かべて彼の方を振り向く。まだ着替え中だったらしく上半身が裸だった彼に、慌てて少女はまた顔を背けた。
「本当に申し訳ないとは思うけど……」
彼の酷く沈んだ声が鼓膜を揺らす。ガラスが刺さり出来た傷に今さら水が沁みてきた。
「知らないはずはありません!だって、だって隊長は私の――」
先を言おうとしたその時。扉のすぐ向こう側から足音が一つ聞こえてきた。
まずい、もうここまで。
少女はリュックを下ろし、中から自分の友人であるASB銃を取り出し立ち上がった。
とにかく今は追っ手を始末しなくては。
瞼や頬に浮かぶ、べたつく涙を服の袖で乱暴に拭う。この腐った軍の実験で、彼が記憶を消されている可能性はあるとは最初から分かっていた。覚悟もしていた。だが、実際に忘れられたと告げられる事がこんなに辛いことだとは思ってもみなかった。
手にした銃を強く握り締め歩き出す少女。
「そこにいるのは分かってるぞ! 大人しく出て来い! この反逆者め!」
男の怒声。足音からして先程より人数が増え、おそらく扉の少し先に三人は敵がいる。
「隊長……着替え終わったら声かけてください。私はそれまであいつらの足止めをしますので」
「えっ、ちょっと、お前!」
隊長の聞き心地の良い声に耳を傾けつつ、少女は歩みを進めた。少女の手の中でどす黒く光るASBライフル。獣のようにぎらりと沈んだ不気味な少女の黒い右目。
足音が近づく。少女が銃を成人男性のおよそ胸の位置辺りに照準を合わせ構え、扉の外へと飛び出す。
前。およそ八メートル先一人。銃を構えている。その奥に二人。一人は銃を降ろし、一人は銃を構えていた。そして、さらにその奥に一人……・
手前から順に、少女は男達の左胸の位置に照準をすばやく合わせ直し、引き金を引く。その手に元同胞を殺す迷いはない。ただ、隊長を逃がす為に障害になるものは全て殺す。それだけが少女の頭の中を支配していた。
引き金を引き右へ左へ、敵が撃ってくる銃弾を避けながら、三点バーストで的確に相手の心臓を打ち抜いていく。
一人、血の海に沈む。そうして、また一人、血の海へと身を沈める。
頬を掠める銃弾。そこからだらりと涙のように溢れ出す生暖かい血液。それを拭うこともなく、次から次へと敵へ銃弾を浴びせる。
マガジンを一つ使い切る頃にはどうにか、三人全員を撃ち殺せた。いつの間に止めてしまっていたのだろうか。酷く息苦しいと感じ息を吐き出した時。初めて少女は自分が息を止め引き金を引いていたことに気づいた。と、同時にその事実に自分でとても驚いた。始めの頃はともかく、戦場にすっかり慣れてしまってからは呼吸を忘れてしまうほど酷く銃撃戦に緊張したことなどなかったから。
まったく、隊長のことになるといつだって調子が狂って嫌になっちゃな。
少女が顔をくしゃりと歪め苦笑する。それから、息を大きく吸い込んだ。硝煙の臭いと生臭い死んだ人間の臭い。
これで、もうしばらくは大丈夫だろう。
「隊長ー、そろそろ着替え終わりましたか」
先程までの緊迫感はどこへやら、少女がどこか間の抜けた声で彼に声をかける。
「あぁ、もう少し……よし、できた」
その声に少女が口元に笑みを浮かべ扉の方へと振り向いた、その瞬間。
「危ない!」
彼の叫ぶ声。視界の端に映る六つ目の扉の影からこちらへ向けられる何か――銃口だ。気づいた時にはもう遅く、また振り返り銃を撃つほどの時間も、完璧に銃弾を避けるほどの時間も少女には残されていなかった。
まずい。と、思ったと同時に鳴り響く銃声に目をぎゅっと強く瞑り、身体を軽く捻りながら力を込める。これから少女を襲うであろう衝撃と痛みに耐えるべく。
……あれ?
しかし、来るはずの衝撃も痛みも一向にやっては来なかった。おそるおそる目を開く。
あっ。小さな声が漏れ出す。
六番目の扉の前に倒れ伏す先程まで少女を狙っていた戦闘服の男。
「まったく、油断するな。馬鹿」
容赦ない罵声。彼を振り返る。彼の手には灰色の硝煙が銃口から揺らめくSA銃が握られていた。少女の顔に満面の笑みが広がっていく。
「隊長!」
少女が彼に勢いよく抱きつく。
「うわぁっ!?」
まさか少女がそんな行動に出るとは予想してうなかった彼の身体が、少女の体重を受け後ろへと倒れこむ。
「やっぱり隊長が使ってこそ、その銃は生きますね! 惚れ惚れします!」
少女が握り拳を胸の前で作り熱く語りだす。
まったく何なんだこいつは。
身体に乗っかったまま喜々としながら、勝手に盛り上がる少女を心の中で毒づきながらチラリとその顔を見つめる。
一応敵ではないのだろうけれど……
青白い肌をべったりと真っ赤な血で彩った少女。その不気味な姿に顔をしかめる。
味方だとしてもこんなやつはごめんだな。
彼が大きくため息をつく。一体何がどうしてこんな状況になってしまったんだ。確か俺はついこの間、国を守るために田舎から北のホワイトアイス軍に入団して……あれ、それで、何で実験場なんかにいるんだ?
彼がふいに浮かんだ疑問に首を傾げる。そんな彼のことなどお構い無しに、はっとした様子で突然彼の上から慌てて退き、手をせわしなく動かしながら喋りだす少女。
「あ、すいません! うれしくって、つい……重かったですよね?本当にすいません、隊長!」
少女が申し訳なさそうに、少女の少し釣り上がった眉を下げる。そんな少女を彼はぼんやりと眺めながら、ようやく自由になった身体を持ち上げる。その手に先ほど少女に抱きつかれた際に手から離れてしまった、妙に手にしっくりとくるSAライフルをしっかりと握り締めて。
「大丈夫だから気にするな。それより――」
廊下の先を見つめる彼の瞳が細い矢のように鋭く細められる。
とりあえず今はこの少女に従うしかないだろう。
ちくしょうと心の中で自分を呪う。目の前でニコニコと不気味な笑みを浮かべる少女に縋る他に得策が見つからないことと、自分の記憶が一部すっぽりと抜け落ちてしまっていることに。
激しく鼓膜を揺らす警告音。遠くの方から聞こえてくる男たちの罵声と怒声。
「早くここを出たほうがいいな」
「了解です、隊長」
少女がその場に素早く立ち上がり、彼に向けマニュアルに書かれているようなきっちりとした敬礼をする。それが少女ができる精一杯の敬意の表し方であった。
それから少女は空になったマガジンに玉を注ぎ込み素早くリロードし、先程実験室の中に置いて来たリュックを取りに室内へと急ぎ足で戻っていった。
リュックの中身は主に砂糖菓子類、それから保冷バッグに入れた氷菓子がいくつか――
私達人間は一日、約百五十グラム以上、獣人はその半分以上の砂糖を摂取しなければ三日で死に至る。そんな不便な私達の体。そして、そんな生きていく上で最重要となる砂糖を手に入れるため、日夜戦闘が各地で繰り広げられている。食料以上に重要なそれをいかに多く手に入れるかが国力を左右するからだ。
だから、砂糖は私達にとって悪魔のような存在だった。
そして、人間である少女と獣人の彼にとってこの先どうなるか分からない道の中で、どんなに荷物になるとしても大量の砂糖菓子などを持っていくことは必須であった。
少女が十キロほどもある大きく重たいリュックへとその不健康そうな血行の悪い腕を伸ばす。
「よくこんなもん持てたな」
それを遮るように白く細長い腕がリュックを掴み上げる。少女が目を丸くしながら彼を見上げる。彼はリュックをその薄い背に背負いながら独り言のようにそう呟いた。
ぽっかりと空いた口と飴玉のように丸くなった瞳。その間抜けな顔に彼が小さく噴き出す。
「荷物は俺が持つ。代わりに案内役は頼んだ」
クツクツと愉快気に喉を鳴らし笑う彼。そんな彼の様子を、首を傾げて不思議そうに見つめる少女が二つの瞳を一回、二回、三回と大きく開いたり閉じたりする。
しばらくして、ようやく彼の言葉の意味を理解した少女の顔にぱあっと花が咲くような笑みが広がっていく。
隊長はやっぱり隊長だ。心の中で少女が呟く。前に何度も同じように彼に荷物を持ってもらったことがあったが、その度に彼は少女が気にせぬよう、ぶっきらぼうに少女に適当に他の用事をいいつけ自分はさっさと荷物を持ってしまう。以前と変わらぬその優しさ。記憶を失っていたとしても変わらない彼の本質。少女には、それがとてもうれしかった。
そんな少女を尻目に扉の方へとさっさと歩いて行ってしまう彼。その少女より大きな背中を追いかける。
ほこりと血液と青白い液体で元の白さを完全に失い、色とりどりにカラーリングされてしまったリュックが彼の背中で上下に揺れ動く。今度はそれを自分の背中ではなく、彼の背中から見つめた。
「それでどこへ行けばいいんだ?」
扉を出てすぐに彼が半身だけ振り返り尋ねる。
「この先、ずっと道なりにまっすぐ行ったところに階段があります。それを下りると非常口があるそうです。そこは壁が薄く、爆破すれば外に出ることができるそうなので、そこに向かいます」
「分かった」
「私が先導しますので、隊長はいつも通り後ろの敵をよろしくお願いします」
少女の言葉に返事をする代わりに、鼓膜を揺さぶるSAライフルの音が三回。続けざまに聞こえてきた。これもいつも通り。必要以上に会話をしない彼にとっての返事がこれなのだと少女は解釈していた。
銃声の元も、その先も確認せず、先程の銃声を皮切りに少女は目的地に向け一気に走り出す。力強く廊下を蹴る固い軍靴の音。
確認したくなっていい。隊長が敵の額をその正確無比なコントロールで打ち抜いた音なのだから。
少女は正面の長く続く灰色の廊下だけを見つめて走った。断続的に聞こえてくるSAライフルの銃声に耳を傾けながら。
一定のリズムで放たれる弾丸の音はまるで、母が子のために歌う子守唄のように少女に安心感を与えた。
曲がり角を右へと曲がった所で敵が二人。待ち構えていたのか銃を持ち、勢いよく飛び出してきた。その敵に少女は驚くこともなく、その強張った表情を浮かべる額に三発ずつ弾丸を撃ち込む。
赤を散らし崩れ落ちていく人間の脆く儚い身体。少女がそれを振り返ることはなかった。
さらに、ついさっき殺した敵兵達の陰から少し先の開け放たれた扉をバリケード代わりに、こちらへ銃口を向けている一人の兵士を見つけた。
とっさに一番近くで地面に倒れ伏そうとしていた、まだ出来立ての死体の服を左手で掴み、盾代わりにする。と、同時に三回。続けざまに聞こえてきた銃声。
銃弾がぶつかる強い衝撃で大きく波打つすでに事切れたその身体。真っ赤な花があちら、こちらへと咲き乱れる。自分より一回りほど大きなその死体を盾代わりにしたまま、また歩き出す。
ひぃっ。
喉の奥から漏れ出す情けないその声が少女の口元に笑みを作り上げる。死体の隙間から見える、真っ青になった敵の眉間へと銃弾を撃ち込む。
小さな穴が開き、そこから真っ赤な花弁を伸ばす血液。
相手が死んだことを確認してから、盾代わりにしていた死体を後からやってくる隊長にとって邪魔にならないであろう位置に投げ捨てる。それから、先ほど敵が身を潜めていた位置まで一気に走りこむ。そして、近くに敵がいないことを確認してから扉の裏へと隠れた。
「リロード!」
少女がと高々に叫ぶ。それを聞いた彼の歩みが、開いた扉の部屋のすぐ傍で止まる。少女がリロードをしている間、自分がこの場を守らなければいけないことを彼は本能的に知っていたから。
少女が腰に付けたポーチの中から、丸いパチンコ玉大の銃弾がびっしりと入った半透明な入れ物と、Bモード専用マガジンを取り出す。弾丸が詰まった入れ物は、リロードしやすいようにと入れ物の先が出っ張っており、そこをマガジンに刺すことによって弾丸が補充できるようになっていた。少女は慣れた手付きでマガジンへ入れ物一杯分の弾丸を注ぎ込む。それから、ASBライフルをBモードに変え、Aモード用マガジンから先ほど弾丸を込めたBモード用マガジンへと入れ替える。
装弾数二百発の特殊ライフル。少女が彼の部隊へ配属なって二年目の少女の誕生日の日。彼が、彼の友人である整備士のラビンに頼んで特注で作ってもらったというこの銃。この世界にたった一つだけ。彼からの贈り物であるそれは少女の友人であると共に、宝物であった。
少女は丁寧に、しかし素早くリロードを済ませ彼がいる方へと顔を半分だけ出す。それを彼は横目でチラリと確認し、今度は彼が「リロード」と短く言った。喧しい空間の中、その声は小さくとも愛おし為か、少女の耳にはクリア聞こえた。
返事もせずに少女は先ほど彼がしていたように、部屋と廊下の間へと行き彼のリロードが終わるまでこの場を守る。
引き金を引きっぱなしにして敵がこれ以上は進めないように弾幕を張る。一発、一発の威力自体は他の物に比べてそこまであるわけではない。しかし、それでも当たったら勿論痛いし血も出る。最悪打ち所が悪ければ死に至る。だから、敵は下手にこちらに近づいてはくることは出来ない。
後ろから聞こえてくる彼が銃弾をリロードする乾いた音。自然と喉の奥から空気が漏れ、笑い声が込み上げてくる。
久々に戦うことが楽しいと思った。
理由は簡単。ただ一つ。あれだけ恋願った、彼とまた一緒に敵を殺しまわれる日がとうとう来たからだ。半年前と同じように背と背を合わせて。
欠けたパズルのピースがぴったりと合うような感覚とは、まさにこういうことを言うのだろうと少女は思った。
それは彼も同じだった。
彼はこのSAライフルと呼ばれる銃も少女のこともまったく知らなかった。さらに言えば戦場になど一度も行ったことがない、まだ訓練兵だったはずだった……。
だけれど、身体は勝手に動き回る。水を得た魚のように生き生きと、本能のままに引き金を引く彼の右手。そんな本能に流されたまま何も考えずに動き回ることが彼にとって、とても心地よく感じられた。
それから、どういう訳だか初対面であるはずの少女の動きが次はどのように動くか、彼には手に取るように分かった。まるで長年連れ添ってきた相方であるかのように少女のことが思えた。しかし、少女のことは何も思い出せない。思い出そうとする度に頭に靄がかかりそれを阻止する。そのくせ、頭のどこかが次は少女がどう動くからお前はこう動けと命令してくる。そして、彼はその声に従い動き続けた。
頭の中で響く聞き覚えのあるその声に逆らうことは出来た。しかし、それをすることが得策ではないことを彼は知っていた。だから、彼は従う。頭の中に響くその声に。
少女が奇声にも似た笑い声をあげながら引き金を引き続ける。その姿は、まだ幼さが残る少女についた大量の血液も合わさり異常なほど不気味に感じられた。まるで死神のようだ、と彼は心の中で思った。
無機質な灰色の壁を赤く彩り、不気味なほど静かだったはずのこの実験施設を銃声と叫び声、それから警告音でいっぱいにした、たった一人の少女。背中を這う冷たい汗。
「行くぞ」
リロードを終え、恐怖を振り切るために彼が口を開く。その声を聞き、少女はようやく笑うのを止め彼の方を振り返る。
うわぁ……
振り返った少女の顔に浮かぶ、無垢で無邪気な幼い子供の笑みにも似たその笑み。その手に握られた少女には似合わない黒光りする銃。その不気味な姿に背筋が凍るのを感じた。
「了解です。隊長!」
少女が幼い子供のように歯を見せ笑う。それからまた目的地へ向け走り出す少女。
彼に再開する前とは打って変わって、今はまるで足に羽が生えたように身が軽く感じられた。口元がにやける。気を抜くとすぐにいつもの能面が剥がれ、子供のような笑みがその青白い顔に広がっていく。鼓動が倍速になって、少女が走るスピードと同じぐらい早く全身に血液が巡っていく。
楽しい、楽しい。
――ひひっ。
少女の喉から不気味な引き笑いが漏れ出す。喉の奥底で空気が震える。
このままずっと二人で戦い続けられたらいいのに。そんな不謹慎な思いが、ふいに少女の空っぽの脳味噌を掠めた。
階段を駆け下りる。冷たい隙間風が熱く火照った頬を撫でる。いつの間にか目の前には灰色の古ぼけた扉が一枚。その上に煌々と光る緑色の光が薄暗いこの空間に、ぼうっと浮かび上がる。
ここか。意外と近かったな。
少女が残念そうにため息をつきながら、肩を落とす。しかし、始まりがあれば終わりもある。最初から分かっていたことだ。
少女が腰に付けたポーチの中から接着型爆弾を取り出し、壁に設置する。それから彼が自分よりも五メートル以上前で追っての処理をしているのを確認してから、爆破に巻き込まれないところまで下がる。
重たいプラスチック製のスイッチを押す。
刹那。耳を劈く派手な爆発音。砕け散る鈍く光る鉄の塊。舞い上がる煙とほこりの薄茶色に染まった空気。砕け散った扉の先から覗く、一面に広がる銀世界と一点の曇りもない紺色の空。酷く冷たい風が少女の黒く短い髪を宙へと舞い上がらせる。
「これから脱出の準備をしますので、あと三分だけしのいで下さい。その後は外で合流しましょう」
少女が甲高い声で叫びながらスイッチをその辺へ捨て、そのまま外へと飛び出す。その背に闇の中で不気味に光る銃を背負いながら。
茶色い煙に紛れてチラチラと粉雪が空から舞い散る。それが頬に、服に、足に絡み付いて少女の体温を奪い去っていく。
非常口から外に出て右へ約十五歩先。その雪の下に少女が求めている物が埋められていた。それの上に被せられた雪の一部を避けながら、ラビンが作った特殊なコントロールパネルを胸のポケットから取り出す。
暗闇の中に浮かび上がる緑ネオンの光が、少女の顔を下から照らす。青白くなった少女の肌がまるで幽霊のように暗闇にゆらりと不気味に浮かび上がった。
パネルに現れた「オープンミー」の白いドット文字。それを軽くタッチする。すると、小さなモーター音が雪の中から鳴り響き、雪の中からミリタリーグリーンの少女の背丈より大きな箱全体が顔を出す。そして――
「また、あいつはとんでもない発明をしたな」
少女が小さくため息をつく。
箱が自動的に開き、中から少女の持つ銃と同じように銀世界の中で不気味に黒光りする二人乗り用の大型スノーモービルが顔を出す。ご丁寧にそのまま、自動で雪の上にまで乗せてくれた。ついでに、ヘルメットが二つそれぞれの座席の上に置かれていた。
もう一度コントロールパネルに目を落とす。そこに写る「ボムミー」という白いポップな文字と、舌を出し両手でピースサインをする、腹の立つ笑顔を口元に浮かべる少年のマーク。
昔。ラビンが自分をモデルにしてマークを製作したのだと、胸を張って言っていたことをふと思い出す。
確かあの時、あのマークを見て、その何とも言えない腹の立たしい顔に彼が心底不服そうな顔をしながら、ラビンを小突いたり、頬を引っ張っていたな。
まだ楽しかったあの頃をしみじみと思い出し、少女は目頭が熱くなるのを感じた。
大丈夫。あと少し、あと少しの辛抱だ。そうしたら、また三人でいくらでも馬鹿ができるはず。
「おい、三分立ったぞ……って、何だこれ!」
後ろから聞こえてきた驚いた彼の間の抜けた声。下唇を噛み締めながら少女が振り返る。その顔に無理矢理笑みを作り上げて。
「これに乗って逃げるんですよ。あ、荷物は座席の下にある収納スペースに仕舞ってください」
「お、おぉ」
目の前に突然現れたスノーモービルに驚きを隠せず、座席の下へと背負ったリュックを押し込む彼の手が震える。
「あ、そうそう。それと、これの運転は隊長がして下さい」
「え、俺!?」
突然少女に告げられた言葉に目を白黒させる。運転も何も彼はそもそも、スノーモービルに乗った記憶すらなかった。
「大丈夫ですよ。ちょっとボタンを押して、それから進行方向へハンドルを動かすだけですから」
「いや……でも、俺……」
「それに何かあれば、このコントロールパネルで基本的なことは……」
少女がそう言いかけた瞬間、後ろから誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「いたぞ!」
「逃がすな!」
「撃て、撃て!」
後ろから迫り来る男達の声。少女が小さく舌打ちをする。
「ほら、取りあえず早く乗ってください!」
「え、あ。あぁ、はい」
座席に置かれたヘルメットを二つとも持ち上げ、そのうちの一つを彼に押し付けながら、まだ煮え切らない様子でもたついている彼を急かす少女。彼がようやくスノーモービルに乗ったのを見届けてからヘルメットを被り、それから彼に背を向ける形でスノーモービルへと飛び乗った。
「真ん中のエンジンはオレンジボタンだそうです。アクセルレバーは右側にあるやつです、あとはその都度聞いてください。それからナビですがこの……」
鋭い光の筋が闇を切り裂き少女の顔を目掛けて飛び込んでくる。少女は咄嗟に顔の前で腕をクロスし、銃弾が脳を貫くことを阻止しようとする。
次の瞬間。ガラスの砕け散る鋭い音と、火花が散る嫌な音が鼓膜を揺らした。そっと右手に持ったコントロールパネルを覗き込む。
そこに現れたエラーの文字と、二十という嫌な予感がする数字。鼓膜を揺らす不協和音。
「隊長!話は後です。今すぐ出発してください!早く!」
少女が大慌てで彼を振り返り叫ぶ。
「わ、分かった」
彼はおろおろとした様子でそう言うと、急いでスノーモービルのエンジンを入れそして走り出した。
と、同時に。少女は右手に持ったコントロールパネルを、先ほど爆弾で空けた穴からぞろぞろと蟻のように次から次へと出てくる敵へと投げ捨てる。一瞬、画面に映った十五という数字が見えた。
一メートル。十メートル。百メートル。段々とスピードを上げ、実験上からぐんぐんと遠ざかっていくスノーモービル。
投げ捨て、地面に落ちてから十秒後。さっきまで少女たちがいた辺りの場所から、建物の二階分ほどの高さまでありそうな火柱が一本上がった。地を揺らす激しい爆発音。白い雪を掻き消すオレンジ色の炎。真っ暗な夜の銀世界を明るく照らすオレンジ色の光が少女の青白い顔を暖かく照らす。
「なにが起こったんだ!?」
裏返る彼の声。スノーモービルを運転するために頭を前へと向けたままの彼には、つい先ほど起こった出来事がさっぱり理解できなかった。唯一、聞こえてきた耳を劈くような爆発音から、何かが爆発したことだけは分かった。しかし、あの短時間の間に、しかも、この大きな二人用のスノーモービルを用意してきて、それから爆弾を設置したとは考えられない。
一体こいつは何をしたんだ?
少女に向けられる不躾なその視線。
「あぁ、爆発したんですよ。このスノーモービルが入っていた箱とコントロールパネルが」
少女がため息をつきながら、呆れた様子でやれやれと頭を左右に振る。
「まったく、こんなに爆発するだなんて……あいつめ、落ち合えたら一発ぶん殴ってやる」
少女が彼の後ろでぶつぶつと独り言を呟く。少女の瞳にはこの場にいないラビンに対する怒りで、真っ赤に燃えていた。
それもそのはず、少女はこの爆発について何も聞かされていなかったのだから。
あの爆弾もこのスノーモービルも、ここに忍び込む作戦を一緒に立てた際ラビンが事前に用意してくれた物だった。そして、その使い方は教えてくれたがそれ以上のことをラビンは教えてくれなかった。毎度のことながらラビンは必ず元の用途とは違った何かを必ずつけてくる。それについて、いくら尋ねてもラビンはニヤニヤと不気味な笑みを煤で汚れた中性的な顔に張り付けているだけだった。
使ってみれば分かるさ。見たらきっと、君もアサも酷く驚くだろうよ。出発する前にラビンが最後にそんなことを話していた。
確かに驚いた。でも、できればこんな驚きはいらなかった。寿命が縮まるほど驚くとはまさにこういったことを言うのだろう。咄嗟に動けたからよかったものの、危うく少女たちも爆発に巻き込まれ木端微塵になるところであった。
証拠隠滅のためとは言え、いくらなんでもコントロールパネルまで爆発する仕様にする必要性が感じられない。
脳裏に浮かぶ両手をピースサインにし、あのニヤニヤと人を嘲笑うような腹立たしい笑みを浮かべるラビン。
大きく舌打ちをして、その姿を脳内から追い出す。そして、そんな苛々とした様子の彼女に対し彼は先程からずっとびくびくしていた。
先程の銃撃戦や身のこなしから言って、少女にとって彼を殺すことは赤子の手を捻るよりも簡単だということは明らかだった。そのくらいこの小さな少女は強い。だから、そんな少女が発する殺気がとても痛かった。自分に対する怒りではないだろうと思ったが、それにしても恐ろしく思えた。
「あ、あのさ、これからどこに行くつもりなの?」
背中に突き刺さる殺気を一刻も早くどうにかしたくって、彼が重たいその口をそっと開く。
「このままずっと南の方向へ進んでください。詳しいことは明日の朝、朝食のための休憩時に話しますから」
ポツリとそう言うと少女は一度大きな欠伸をした。一昨日からずっと、彼を救出するために夜通し雪の中車を運転したり、走り回ったりしたせいか、ここに来て泥のようにべたりと少女に重くのしかかる疲労と眠気。
足の感覚はとっくの昔に無くなっていた。傷口が時々雪にぶつかりヒリヒリと痛かった。また、全身に麻酔が打たれた時のように、芯から感覚が麻痺してきていた。少女はもう限界だった。
敵が追ってきていないことを確認してから、最後の力を振り絞り、座席の上でくるりと前へと向きを変える。
疲れたな……
少女の頭が前へ、後ろへと首振り人形のように不安定に揺れ動く。そんな少女を、チサイドミラー越しにチラリと横目で彼は確認した。
青白くなった肌に、目の下に出来た大きな黒い隈。血やほこりで、ボロ雑巾のように汚れ見るも無残な姿の少女。
「眠いなら寄りかかってもいいよ」
前を見たままぶっきらぼうに彼が言う。少女をいつまでもそんな痛々しい姿にしていたくなかったから。その理由は分からない。だけれど、頭に響く声がそうしろと訴えかけてくる。
「ありがとうございます」
今にも消え入りそうなか細い少女の声。視界の端で少女が年相応の柔らかく、幼い笑みを浮かべるのが見えた。その顔にほっと息を吐く。
しかし、何故? 分からない。
少女がそっと彼の背中に頭を寄せる。しばらくして、規則正しい少女の寝息が聞こえてきた。
もっと寄りかかればいいのに。それに腰に腕を回せば安定するだろうに。
スノーモービルがデコボコとした道を進む度に、少女の身体が不安定に揺れ動く。危なっかしいその姿に眉をひそめる。
前にも言ったのに、まったくこいつは言うことを聞かない――
前?
たった今、頭の中に浮かんだ言葉が脳内で反芻する。
前とはいつのことだ? そもそも、前にも言ったことがあるとは?
思い出したくとも、そうすることを彼の頭が拒む。実験の際に消された記憶たち。もう、二度と思い出さないようといじられた頭。
頭が両側から鈍器で殴られているかのような痛みが彼を襲う。
何で思い出せないんだ。
もやもやと胸の中で渦巻く気持ち悪い感情。忘れてはいけないことを忘れてしまった彼の中で沸き起こるその感情。それの名前を彼は知らなかった。
そんな感情を振り払うように、目の前に広がる銀世界を見つめる。白い雪と紺色の空以外何もない。スノーモービルのエンジン音と、しんしんと降り積もる雪の音。
ぼうっとそれらに耳を傾けながら走り続ける。変わらない光景がやけに心地良く感じられた。
次で、第一話完結です。
かなり長いですが短編です(震え声