紫陽花とコーヒー
私の独り語りも、早いものでもう六回目になります。
道洞君に言わせると
「そろそろ水着っすよ!
水着!
超ー海っすよ!
海!
それがダメなら温泉回っすよ!
超ー温泉!」
なんて、意味不明な事を口走っていましたが、 残念ながら水着なんて、もう何年も着ておりません。
と、言うより、夏場はお宿も年で一番忙しい繁忙期で、お休みんなんて夢のまた夢です。
私が袖を通すのは水着ではなくて、青い生地で、襟が黒く、『版画の宿 西山荘と書かれた、このハッピだけです。
水着がダメなら温泉回?
はあ。
温泉は沢山ありますよ?
それこそ売るほどあります。
ご予約して頂けるのなら、思う存分堪能できますよ?
よろしくお願いします。
え?
私は入らないのか?
はあ。
入りますよ。
主にデッキブラシ片手に入りますが。
なにか?
裸で?
タオルとか巻いて?
バカ言っちゃいけません。
ハッピです。
スラックスは膝の辺りまで折り返します。
あたしが温泉で磨くのは肌じゃありません。
主に風呂桶と床です。
シャンプーの香りとかしないの?
ですって?
ご冗談を、お風呂で香るのはマジックリンでしょ。
温泉でてもサッパリとかしませんよ。
むしろ、湿気と汗で顔や体がベタベタになります。
そんなのこの世界の常識じゃありませんか。
でも、たまには入るんでしょ?
入るのは主に上村のおばちゃんですね。
よく仕事上がりにお風呂もらって帰りますね。
見ます?
あたし?
私はお母さんが、ちゃんと家でお風呂準備してくれるので、自分家ではりますよ。
ああ。
でも、たまに宿直の時とかは、お宿のお風呂を借りる事もあります。
そうそう、吉乃ちゃんや麻子ちゃんはここに住んでいるので、よくお宿のお風呂入ってますね。
私と違って、吉乃ちゃんは大きいですよ。
マシュマロみたいです。
あ。
でも見ちゃダメです。
吉乃ちゃんは私のですから。
そう言えば、麻子ちゃんも凄いです。
あ。
でも、こちらもダメです。
なんせまだウブなので。
あ。
期待させちゃいましたか?
それは申し訳ありません。
砂浜での水着も、温泉でのポロリもありません。
だって、お外は雨が降っているんですから・・。
第六話
『紫陽花とコーヒー』
版画の宿 西山荘のフロントの裏は小さな事務所になっています。
予約のチェックや、部屋割り、土産物の売上を管理する事務所です。
ちゃんとしたのは、別棟の社長室の横にあります。
そしてこのフロント裏の事務所の脇には、小さな給湯室があり、毎朝最後のお客様をお見送りすると、そこでコーヒーを落とすのが私の日課になています。
珈琲じゃなくて、コーヒーです。
だって、そんな大それた物じゃないんですもの。
普通の何処にでもあるコーヒーメーカーで落とすんです。
給湯室のすぐ横は控室です。
更衣室とも言いますね。
従業員の休憩室としても使われます。
タイムカードもここにあります。
控室の先は勝手口です。
普段私達は、そこから出入りします。
そして、この事務所、給湯室、控室と接するように、大きな厨房があります。
今は「朝のお疲れ女子会」の最中です。
普段、小鉢なんかを盛り付ける大きなステンレス製の盛り付け台は、朝のお見送りが終わった上村のおばちゃんを始めとする中居さん達の女子会会場になるのです。
思い思いに持ち寄った茶菓子と、お茶を並べて雑談に花を咲かせています。
今日も賑やかな笑い声が、この事務所まで聞こえてきます。
事務所と厨房を隔てる暖簾の隙間から覗くと、吉乃ちゃんが楽しそうに笑っています。
麻子ちゃんは、元々内気な娘ですから、まだまだ慣れないようですね。
なんだかソワソワしながら俯いてお茶を飲んでます。
一応、私も女子の端くれですので、たまにこの会に混じる事もあるのですが、残念ながら私の場合はお見送りが終わった後に、チェックアウト時のレジの精算だとか、日報だとか、本日分の宿泊分の台帳をチェックしたり、代理店からのメールをチェックしたり、中居さん用の部屋割り表を作ったりと、何かと多忙でなかなか女子会には混じれません。
まあ。
ぼっち。
と言ったら、ぼっちですかね。
そんなこんなで、最後のお見送りが終わって、フロントを出た私は給湯室に寄ります。
そこでコーヒーを四杯分落とすのが日課です。
あ。
でも、いっぺんに四杯飲むわけじゃあないです。
最初の一杯だけマグカップに入れて、後はステンレス魔法瓶になっている水筒に入れます。
一杯、二杯落とすよりも、四杯分くらいいっぺんに落とす方が、味が安定するからです。
あと、保温も。
コーヒーメーカーに付いている保温機能は、常時加熱をしますし、デキャンタも口が広くて、沢山酸素に触れてしまって、コーヒーはすぐに酸っぱくなってしまうのです。
ステンレス魔法瓶の水筒に入れていれば、2~3時間は熱いですし、風味も落ちません。
あ。
もちろんこれも沼さんに教えてもらったんですけどね。
師匠です。
師匠。
ちなみに、私以外のコーヒー愛好家は沼さんだけです。
吉乃ちゃんは、苦いから苦手!なんだそうです。
麻子ちゃんには、試しに飲ませたら凄い顔で固まっちゃいました。
中居のおばちゃん達に至っては「お茶がいい。」 んだそうです。
で。
私以外の唯一のコーヒー愛好家の沼さんは?
と言うと、現在旅の空です。
どうやら夏前のエージェント回りが佳境に入ってるみたいです。
パソコンやインターネットでの予約が増えた今日でも、
「大番頭に、そう叩きこまれましたので。」
なんて、沼さんは言って、足で稼ぐ仕事にこだわっています。
一見アナログで、効率も悪そうなそのやり方で、果たしてお客さんは取れるの?
と、聞かれると、それが実は、バカにならない量のお客さんを取ってくるのです。
ですから、社長も、多少費用が嵩もうとも、沼さんの行動については放任です。
ですから、実際の所、どんな営業をしているのか?
かなり謎に包まれた部分も多いのです。
「一見デジタルな世の中になっていても、画面の向こうには人間がいるんです。 やっぱり大事なのは生身のつながりです。 それに、うちを使ってくださるお客様は、パソコンが苦手な世代も多いです。 いつの時代も『仕事は足で稼げ』ですよ。」
なんて、沼さんは笑って言います。
小粋でクリーンな沼さんの事ですから「生身のつながり」とかが変な意味でない事は信じていますが、やはり謎な部分の多い人です。
ほんと、スパイみたいな人です。
ちなみに、うちの街の温泉業界では、沼さんのそれを指して
「長沼マジック」
と、呼んでいる社長さんや、番頭さん方も少なくはありません。
何度か沼さんに
「営業に同行させてください。」
と、お願いをした事はあるのですが、その度に
「優ちゃんはお宿を守っていてください。」
と言われるだけでした。
まあ、あれだけ人当たりが良くて、いつも優しい小粋なお兄さんです。
行く先々で人気なのは、簡単に想像がつきます。
現に、たまに旅行代理店から届くビジネスレター。
書類とか、パンフレットとかに付箋で沼さん宛のお礼とか、メッセージとかが貼られてるの、良く目にしますもん。
あ。
そう言えば、この前、とうとうピンクの可愛い便箋が入っていた事ありました。
丸文字で「長沼さんへ」って書いてあるやつ。
私の憧れで、大切なお兄ちゃんに、勝手に何してくれちゃってるんですか。
さすがにそれには私もカチンと来ました。
うーん。
嫉妬なのでしょうね、きっと。
とにかく面白くありません。
とは言うものの、沼さん宛に届いたラブレターです。
いくら面白くないとは言え、ビリビリ破いてしまうのは、さすがにモラル違反だと思うのです。
あたし、一応、大人の女ですし。
ですから
こっそりゴミ箱に捨てときました。
てへ。
さてさて。
私は淹れたてのコーヒーの入ったマグカップを片手に、フロント裏の事務所に戻りました。
短大の頃から使ってる、ゴツくて大きなマグカップです。
あ、所々欠けてる所もあったりするのですが、思い入れがあってなかなか捨てれません。
パソコンの起動ボタンを押すと、一拍置いてカリカリという音がしてきます。
窓から外を眺めると、雨が降っています。
お宿の玄関先にある紫陽花はしっとりと雨に濡れて、青々と手を広げる葉は、つやつやと元気そうです。
眼下に広がる温泉街はモノトーンです。
濡れて、灰色で、どこか淋しげに泣いているようです。
あ。
灰色の世界の中、賑やかに色とりどりの花を咲かせている場所があります。
駅のホームです。
皆さん、今から自分の街へと帰って行くのでしょうか。
色とりどりのおしゃれ着や、傘が、列車を待つ駅のホームに咲き乱れています。
でも、次の列車が来たら、あの賑やかな花たちも居なくなってしまうのですね。
温泉街の先には、私達の街のシンボルとも言える川が流れています。
その向こう側が、私の家のある田園地帯になっているのですが、今は雨に煙ってしまって、川に架かる赤く大きな鉄橋が見えるだけで、田園地帯はぼやけています。
つい先月まで、あれほど鮮やかに咲いていた菜の花たちも、今では収穫されてしまいました。 今はぼんやりと畑の広い土色が広がっているだけです。
晴れていれば、私の家の裏手の山のその向こうに、3000mを越える雄大な日本アルプスの山々が姿を現すのですが、今日はそれも見えません。
繁華街から離れたこの山の手の古い温泉旅館が、今日でもお客様に愛され続けているのは、大女将や大番頭が守り続けた伝統やまごころもありますが、この客室から見える雄大な景色も、その大きな要因となっているのです。
「おっ、お先に失礼しますっ。」
おや。
素っ頓狂な声を上げて、麻子ちゃんが大慌てで着替えて出て行ってしまいました。
ゴールデンウィークが終わって、あの「新人歓迎会」くらいからこっち、麻子ちゃんはちょくちょく朝の仕事を終えると、こんな感じで大慌てでどこかに出かけてしまいます。
昼過ぎの休憩終了までにはだいたい帰ってくるのですが、たまに擦り傷や、痣を作って戻って来ます。
麻子ちゃんの実家は神奈川で、何を思ったのか、この4月から実家から遠く離れたこの西山荘で住み込みで働いています。
ですから、こんなに頻繁に慌てて外出するような友達もいるようには思えません。
だってあんなにウブで、内向的な麻子ちゃんですもの。
彼氏どころか、友達がこんなに早く出来たとも思えません。
でも、あの痣や擦り傷。
ちょっと心配です。
何か、悪い事に巻き込まれていなければいいのですが。
「あらあら。
麻子ちゃん凄い勢いだねー。」
「だねえ・・。」
麻子ちゃんがドタバタと走り去っていく背中を見送る私の横で、可愛らしい声がします。
もちろん吉乃ちゃんです。
片手にお煎餅を持った吉乃ちゃんが、事務所を覗いてくれました。
軽く私にタックルした吉乃ちゃんは、そのまま腕を絡ませて、手に持ったお煎餅を私の目の前でユラユラと揺らしています。
「女子会のおすそわけ。」
そう言って、微笑んでいます。
隣の控室を見ると、さっきまで女子会をしていた上村のおばちゃん達が、朝の仕事を終えてのんびり着替えを始めていました。
ガチャガチャとタイムカードの音が聞こえます。
掃除係の山村のおばちゃんは、それとは対照的にバタバタとバケツを片手に客室に向かって行くところでした。
さっきまで私の腕にしがみついてた吉乃ちゃんは、今は私がしていたように、窓の外の景色を眺めています。
「優姉ぇ。
しばらくバイクはお休みだね。」
と、ぼそりと言いました。
梅雨も本格化して、ここ2~3日は雨続きです。
普段通勤に使っている私の愛車のVTZ250も、最近は納屋でお留守番の事が多いです。
「いやいやなんの。
晴れ間を見つけたら、ガンガン走るよ!」
私はそう言って、吉乃ちゃんにウインクしてみせました。
「あ!
その時は優姉の後ろに乗せてね!」
と、吉乃ちゃんはねだってきたのだけれども、
さすがに私は、まだ二人乗りにはあまり自信がありません・・。
「ん~・・
ダメ。」
私がそう答えると、吉乃ちゃんは可愛い顔をぷっくりと膨らませました。
「優ちゃんのけち!」
私と話す時の吉乃ちゃんは子供っぽい。
喜怒哀楽を大袈裟なくらいに現します。
それとは逆に、従業員や、お客様の前では、とてもお淑やかに振る舞うのです。
話す声のトーンもわざと低くして、なるべくゆっくり話すようにしているみたいです。
たぶん、これは普段の反動なんでしょうね?
吉乃ちゃんが私の前でだけ、こうやって子供っぽい姿を見せてくれるのは嬉しいです。
あの初雪の夜。
私はこれから一生、吉乃ちゃんを守るんだ。
そう心に強く誓いました。
ただ、6歳も年上の私より、吉乃ちゃんの方が随分しっかりしていたりもするので、どちらかと言えば、私が助けられてしまう事が圧倒的に多いのですが・・。
それでも、私の前でこんな仕草を見せてくれると、少なからずこんな私でも吉乃ちゃんを支えられているんだな。
そう実感する事ができます。
あ。
あともう一人いました。
吉乃ちゃんが気を許して、こういう姿を見せるヤツが。
「あいつと同等か・・。」
と思うと、ちょっとだけ肩も落ちてしまいますが、まあ、仕方ないですよね。
なんせあいつは大番頭の息子ですし、私と同じくらい吉乃ちゃんとは長い付き合いですもの。
「けちー!
けちー!
優ちゃんのけちー!」
冗談なのか、本気なのか?
吉乃ちゃんは、そう言いながら私の前で小躍りしています。
私が少し困った顔をすると、ペロリと舌を出して笑いました。
まったく、この娘は・・。
そして、吉乃ちゃんが小躍りしたり、クルリと回ったりする度に、淡い紫色の着物の袖が揺れます。
つい先日まで着ていた、吉乃ちゃんらしい春っぽい淡いピンクの桜の着物も良かったけれど、この薄紫も良く似合います。
淡い紫色。
こういうのは、藤色って言うんでしたっけ。
どこか懐かしい色合いの着物です。
吉乃ちゃんが小さくクルリと回った時に、袖に何かが見えました。
それは、よく見ないと気が付かないような薄い灰色のシミでした。
私はこれに見覚えがあります。
「吉乃ちゃん。
その着物って、ひょっとして?」
私がそう尋ねると、小躍りしていた吉乃ちゃんはぴたりと止まって、静かに、静かに微笑みました。
「うん。
おばあちゃんの。」
その吉乃ちゃんの静かな笑顔は、少しはにかんだようにも、少し淋しげにも感じられる笑顔でした。
「もう梅雨じゃない?
ピンクもいいけど、何か違う色ないかなあ?って、タンス見てたら出てきたの。
『藤色』って、晩春の季語なんだって。
知ってた? 優姉?
見方によっては紫陽花っぽいし。
この時期に便利かなあ・・。って。
それに・・・。」
それに。
その後は吉乃ちゃんは俯いて話しませんでした。
でも、言葉になんかしなくても、なんとなく吉乃ちゃんの気持ちは分かります。
あたしだって一緒。
心細いから誰かに支えて欲しいんだよね。
その着物着てると、大女将が支えてくれてる気がするんだよね。
でも、途中で言葉を止めたのは、自分でよく分かってるから。
それは吉乃ちゃんがもう、色んな人達に支えられている事。
それを自分でも良く分かっているから、これ以上「誰かに支えられたい」って言えないんだよね。
皆の気持ちを大事にする吉乃ちゃんらしいよ。
大丈夫。
あなたは私が守る。
私が支える。
いつだって。
いつまでだって。
だって、あたし、お姉ちゃんだもん。
私はうつむく吉乃ちゃんの手を取ると、何か言葉をかけようと思ったのだけれども、丁度いい言葉も思いつかなくて
「今度、二人乗り練習しとくね。」
と、微笑みました。
少し涙目で顔を上げた吉乃ちゃんは、まるでお日様のように私に微笑みました。
長雨の朝。
コーヒーの香りがする西山荘の事務所に、一足早い向日葵の花が咲きました。