4 裏切りの螺旋
最初にグランセに会ったのは、ちょうど一ヶ月前のことでした。翌日が休みだった私は、任務が終わってゆっくりと帰路につきました。その日デイルは見張番で、顔を合わせずに帰りました。
王城の門を抜けてすぐの薄暗い裏道で、誰かと話しているグランセを見かけました。彼についての噂があることはそのときは知らず、王の印のついた剣の柄が見えたので、近衛兵なのだと、そして横顔に見覚えがなかったので見習いなのだろうと思いました。
相手の姿はしっかりは見ておりません。ただ、マントの端から長い髪が僅かにのぞいていました。色まではわかりませんでしたが。
気に留めずそこを通り過ぎたのですが、一言だけ、聞こえました。『あの貴族のオーベルか』と。私は振り返り、迷いました。その声音が良い噂ではないことを示していたからです。
足音が止まったことで不審に思ったらしいグランセが表通りに顔を出し、私と目が合いました。そのとき、私は咄嗟に逃げてしまったのです。その場から走り去ろうとしました。けれどグランセは追ってきて私の腕を掴み、「待て!」と大きく叫びました。
勿論、追いついているのですから彼の本当の目的は私を捕まえることではなかったのです。私があそこで何かを聞いたのかどうかを確かめるため、でした。私は愚かにもそこで「何も聞いていませんから」と言ってしまったのです。
グランセは私を掴んだまま裏通りに連れて行き、「まずいことになった」と先ほどの相手に告げました。相手はフードを深く被っており、顔はわかりません。髪もこぼれないようすっぽりとマントの中に仕舞いこんでいて、そのときは見えませんでした。グランセが「あとで連絡する」と言うと頷いて、去りました。
「今の人は?」という私の問いにグランセは答えず、逆に私の名を問いました。先ほどのことがありますから、私は慎重にファーストネームだけを告げました。そして「あなたは?」と問うて、やっとその相手がグランセ=フォリッジだと言うことを知りました。恥ずかしながら私は、彼が元・近衛精鋭だったこともそのとき知ったのです。
私の身分が近衛兵だということを知るとグランセは一瞬目を見張り、所属を問いました。私が答えると少し考え込み、そしてファミリーネームを聞いてきました。
私がそこで本当のことを告げるか否か、とても迷ったのはお分かりかと思います。しかしここで誤魔化しても仕方ないと――私はフルネームを名乗りました。当然、グランセは瞠目して問い質しました。お前の父はあの、レオノール=オーベルか、と。
私はゆっくり頷きました。父の名を聞いてグランセは逡巡しているようでした。そしてしばしの間の後、「家は西方だったな」と、私の家の地名を口にしました。そしてそのまま、西に向かう道を歩き始めたのです。私は驚いて彼に追いつき、その肩を掴みました。どういうことなのかと問いました。
さっきあなたはオーベル家の名を口にしていた、それと私の父と何か関係があるのか、と――何も聞いていないと言ったばかりなのに、です。それほど私は慌てていたのです。しかしグランセはそのことに触れず――恐らく彼には初めからわかっていたのでしょう、私が彼らの話を聞いてしまったことを。
「きちんと、話すよ」と、グランセは言いました。真摯な瞳でした。「初めて会った男にこんなことを言われてあなたは心外かも知れないが、どうか心して聞いて欲しい、今から話すことはすべて真実だ」と、グランセは言いました。
私は……まずは聞いてみようと思いました。近衛兵として、何事にも冷静に対処するよう鍛えられていたつもりでしたし、そう出来ると、思っていました……
そこでフェルはぷつりと言葉を切った。その先に続く話が重いものであるということが、俺にもわかった。わかったからこそ何も聞かず、ただ、奴が話を続けるのを待っていた。たっぷり、十五分は。
グランセが話してくれたことは、私の一生で最も重く、最も意外で、最もあってはならないことでした。つまり――内通者がいる、というのです。私の、家に。
父なのか、と咄嗟に訊ねました。グランセは真面目な表情で私を見返し、ゆっくりと首を振りました。「あなたの親父さんでは、ないようだ」と。そこで私はほっと息をつきました。良かった、父がまさかそんなことをするわけが無い、と。しかしグランセの次の言葉は私を打ちのめしました。
「しかし、オーベル家から情報が漏れていることは確かだ」と。そして彼が私を見る眼の色で、僕はわかったのです。彼は、私を疑っている、と。
その考えは正解でした。私の喉元には、グランセの剣の先が突きつけられていたからです。彼は何も言いませんでした。ただ、じっと私を見つめていました。私は剣の存在に驚きはしたものの、それから妙に落ち着いてしまって「どうした、やれよ」と逆にグランセに言い放ちました。
「殺されたいのか」と、彼が言いました。「反逆罪で殺されたいのか」と。私は妙にしんとした気分になって、ゆっくり静かに首を横に振りました。
「疑われるということは、私に落ち度があったからだ」と言うと、グランセは「そうじゃない」と否定して、ゆっくり剣を収めました。「すべて疑うのが俺たちの性分なだけだ」と言って、「どうやらお前でもないらしい」と続けました。
しかし、家にはあと母と妹しかいませんし、まさか彼女たちがそんな大それたことをするわけがありません。私は必死でグランセに向かって「それは何かの間違いだ」と言いつづけました。何かの間違いだ、オーベル家にそんな事をする者はいないと言いつづけました。
グランセはちょっと聞き飽きたようにぶっきらぼうに「わかってる」と言います。「わかっていない!」と言い返すと、「落ち着け、オーベル」と私をたしなめ、「別にオーベル家の人間が漏らしているとは言っていない。オーベル家からその話がもたらされているだけだ」といいました。
今ならその彼の言葉を瞬時に理解することも出来ますが、そのときはまったく意味がわかりませんでした。パニックになっていたのでしょう、仕方なくグランセは街道を外れてちいさな酒場に入ると、ゆっくりとすべてを語ってくれました。
そこでもう一度言葉を切ると、
「すみません、うまく話がまとまらなくて」
と、フェルが頭を下げる。俺は途中でつけた煙草をくいと灰皿に押し付けて「いや」と首を振った。
「時系列で説明してもらう方がラクだしな、理解が。俺は冷静な指揮官じゃないんでね」
フェルの瞳に僅かに安堵感が生まれ、小さく頷く。
「つまり、私の家の使用人が情報を漏らしているのではないか、とのことでした。グランセたちが調べた結果、怪しい人物が二人まで絞り込まれたと――」
「グランセ、たち?」
俺はフェルの言葉尻を逃さずに聞き返す。フェルははっとした表情で口をつぐむ。
「夜中に会ってるって女か」
俺がふうと溜息とともにそう言うと、フェルは僅かにうな垂れたまま、続ける。
「……はい。ただ、彼女は単なる連絡係で、彼らは組織的に調べていると言っていました。それから…軍属ではない、とも」
「軍属じゃねぇ、だと? それがどういう意味かわかってるのか?」
意外な言葉に思わず声を荒げて聞き返すと、フェルは俺の目をまっすぐに見て質問の意図を正確に読み取った、と思う。ヤツはきゅっと唇をかみ締めたまま、小さく頷いた。
「私も同じことをグランセに訊ねました。軍の秘密組織ではないのかと。しかし、返事はノーでした。グランセのように軍にいながら彼らに協力している例もあるようでしたが……」
そこでフェルはふつと言葉を切って俺を改めて見やり、
「ハリーさんもご存知なかったとあれば、それは事実でしょう。軍属ではない何らかの組織が、ひそかに反逆者を洗っているということです」
と、きっぱりと告げた。恐らくこのあたりの結論はヤツも散々っぱら考えた挙句なんだろう。
しかし……俺が聞いたことがねえとなると本気で軍以外の組織、か? 反乱軍を見張ってるってんならそれほど問題ないとは思うが、一体何を考えて――? そこまで愛国心のある連中がいるってのもマユツバっぽい気がするぜ、ったく。
「ハリー様」
居住まいを正し、フェルが強い視線で俺を見る。
「昨夜グランセが彼女と会っていたのは、緊急で呼び出しがあったからだそうです。『実戦演習のことが反乱軍に漏れた、留意せよ』と」
「はーん……で、その場に反乱軍ってのが乗り込んできたってワケか」
だんだん読めてきたぜ、何がどうなってんのか。
「はい。……私がこちらに合流する際、出来るだけ話が漏れないように努めたのですが、恐らくそこから漏れたのでしょう。申し訳ありません」
ぺこりと頭を下げるフェルに「気にするな」と短く声を掛けておいて思い出した。そういや出発の準備の時はフェルが一番遅かった。あの時はさして気にも留めてなかったが、フェルなりに気を使って家の中に話が漏れないようにしたのだろう。……無理だったみてえだが。
「で? 追っかけてったキールがひとりで何とかしたわけじぇねぇんだろ?」
反乱軍がどれだけの組織か知らねぇが、あんなガキひとりにやられるようじゃ捨て置いたって問題ない。グランセがひそかに動くぐらいだ、簡単にいかない相手なんだろう。
「はい、通りがかった者が助けてくれたそうです。フードを被っていて、顔が見えなかったと言っていました。かなりの使い手だったと」
「偶然に、か?」
「もしかしたらエストラーダ隊長かもしれない、と私は考えたのですが…」
俺の問いに、ちらりとフェルが上目遣いで視線を寄越してから答えた。
「いや、そいつはねえだろう」
セレがもし何か感づいていたとして――グランセたちを使って内偵させるなら少なくとも俺やレダには話をするはずだ。昔のあいつならそういうこともするかも知れねえが、今の立場じゃ無理だろう。
「はい、キールは隊長じゃなかった、と言っています。ただ、雰囲気は似ていたようで、男か女かはわからないと言っていました」
「女かも知れねえってことか?」
こくりとフェルが頷く。
「ちらりとフードの端から長髪が見えたそうです。上背もそれなりにあったようですが、メイフィールドのこともありますし、男とは断定できないと」
ランシアは確かにデカイ。その辺の兵士よりがっちりしてるし、腕もいい。それを知ってるキールなら男か女か判断出来なくて当然かも知れねえな。
考え込む俺を、フェルが不安そうな目で見ていたのに気づいて、「心配いらねえよ」と俺はニッと笑った。
「もし、反乱軍が城を落とすつもりなら、この機会を逃さないでしょう」
フェルは真面目な表情を崩さない。俺にも黙ったままでいようとしたさっきよりかは重荷を下ろしたような顔ではあるが、いまだ厳しいままだった。さて、どうしたらいいか――
まあ、一番無難なのは演習を取りやめることだ。狙ってくるかもしれない反乱軍の存在すら、今の俺たちには想像もしていなかった。とはいえ今から城に連絡したとしても、結局はその存在が闇に消えるだけだ。向こうで派手に防御に出れば姿さえ現さない可能性だってある。尻尾を掴んだ今なら、餌をちらつかせて引っ張り出せるやも知れず、ってとこだな。
「わかった」
「ハリー様……!」
ぽんとフェルの肩を叩いて、俺は腹を決めた。じっと俺を見つめているフェルに向かってにやりと笑うと、
「お前は何も言わなくていい。グランセもだ。それだけ伝えとけ。ああ、あとキールを呼んで来い」
とだけ、言った。