別離の出会い
自分の僧房にて、セラフィナはガラスのない穴開き窓に頬杖を突き、眼下に広がる街並みを堪能していた。街の人々は大聖堂に近い大通りをひっきりなしに行き交い、馬車道を挟んだ石畳の街道には常設の屋台が軒並み連ねてひしめいている。様々な服の色、装い、威勢の良いかけ声とわいわい賑わう買い物客が彼女の胸を弾ませる。
セラフィナは外の世界を知らない。窓から見える景色が彼女にとっての『外』で、一歩たりとも足を踏み出したことがない。セラフィナの白く透き抜けた、漆黒の髪に眩く映える肌がこのことを如実に表している。誘拐など犯罪を怖れたシックザール枢機卿の過保護すぎる方針のせいだ。とはいえ教会の人間は最低限の外出以外、1日の大半を大聖堂で過ごすので、セラフィナは幼い頃から疑問を持たず受け入れていた。
だからといって、外に恐怖を抱いているわけでもない。ほんの少し、憧れがある。毎日、大聖堂を訪れる王都や他の地域からの人々、異国の巡礼者。その人たちの世間話を聞くにつけ、面白いなあと感じる。
大聖堂の生活は、あまり変化がない。それはとても心地良いけれど、でもたまに王都で起きる色んな出来事に遭遇してみたくもある。
今、そんな願いが叶おうとしている。セラフィナが大聖堂でなく、テネーレの王立騎士団に移るのと引き換えに。
王立騎士団とはどんなところだろう。国を守る騎士たちが詰めているという想像くらいはつく。では他には? と訊かれると、答えられない。初めて耳にした『総轄長』については言わずもがな。
セラフィナがなぜその『総轄長』に就任せねばならないのか、きっと神の思し召しなのだろう。神のお導きに従っておけば自然と答えが見つかるはず。篤い信仰心がゆえ、彼女はさほど深刻に捉えていなかった。
「あ……」
行商人が釣りたての魚を振り歩く売り声、周囲の陽気さを掻き消す馬車の車輪の音が、風に乗ってセラフィナに届く。
漆塗りの重厚そうな四輪馬車だ。滅多にお目にかからない外装の馬車を見るや、人々があっと押し黙って退く。馬車は大聖堂を目指している。
「<セラフィナ>」
僧房の扉が開けられる。聞き慣れたラテン語。ダニエル神父だった。セラフィナに階下へ降りてくるよう促し、紫の布袋に仕込まれた棒状の物体を差し出す。
「<餞別だ。持っていくといい。必ず入り用になる>」
受け取り、彼に続いて大聖堂の正面玄関に降り立つ。開け放たれた入り口には、背の高い青年が立っていた。左目の黒い眼帯が鮮烈な、綺麗な金茶の髪の若者だ。優しげで凛々しい、品のある端整な顔立ちがセラフィナを見据えている。
一歩一歩、セラフィナは青年との距離を縮めていく。青年が右手を伸べてくる。握り返す前にセラフィナは振り返り、固唾を呑んで見守る聖職者と大聖堂の内装をぐるりと視界に収めた。
――――19年。
身寄りのないセラフィナを育て上げ、護ってくれた場所、人。何物にも代えがたい、彼女の居場所。当たり前だった家族。
お別れなのだ。
実感し始めて、じわじわと胸が締めつけられる。息が難しい。空気を吸うと涙が零れそうで、ぐっとこらえる。
「…………」
セラフィナは布袋をひしと抱き締め、青年に向き直る。フロレンスが頷く。セラフィナは骨張った右手にか細い左手を重ねた。
――――さようなら。
*******
青年の手にいざなわれ、遠のいてゆく愛娘の小さな背中を見届けながら、シックザール枢機卿は回顧した。
娘が祭壇に現れた、あの夜の出来事を。
身も凍るような寒さが吹き荒び、雪が降りしきる夜。甲高い声に起こされて、彼は礼拝所へ降りていった。階段と廊下を渡る間、吐く息が真っ白だったのを覚えている。
やまない叫びに導かれ、彼は礼拝所でまたとない幻想と出会った。
薔薇窓とステンドグラスを透かす雪明かりが祭壇上に降り注ぎ、まるで神の恩寵を一身に浴びるかのように寝かされていた赤ん坊。大きくて鋭い叫びは、あの子の泣き声だったのだ。生まれて間もなく捨てられた子供だろうが、あの瞬間から彼には天より遣わされた御使いにしか映っていなかった。
跪いて神を賛美し、その子を抱えると、驚いたことに泣き声がやんだ。今にして思えばぬくもりを求めていただけだったのだが、あの不安そうでどこか安堵したような表情に、枢機卿の心は鷲掴みにされた。
それまで街の不良少年を一睨みで更生させるほどの鬼爺だったのに、その日から親馬鹿へと一変した。赤ん坊を『神がもたらした天使』とあっちこっちに触れ回り、教皇の許に押しかけて仰々しい洗礼をさせ、『天使のように愛らしい』という意味で天 使と名づけた。聖書では、天使は9つの階級に分けられており、その中でも最も神に近しい存在なのが熾天使。彼女の名はそれから拝借したものだった。
以来、彼はセラフィナを溺愛している。
外出を禁じ、野郎共が礼拝しに来た時は常に目を光らせた。できる限り彼女から離れるまいとしていた。
短かった黒髪はクセなくまっすぐ伸び、ふにふにした手足もしなやかに成長した。世間知らずと不用心さを除けば、自慢の娘だ。いつしか街の人々も『天使』と呼ぶようになり、誰もが彼女を愛している。
愛しい我が子が、まさか王立騎士団の総轄長に任命されるなんて。どうしたことか。護られすぎた日々が祟って、男たちに取って食われるかもしれない。
「<…………2年になりますかな>」
隣に立ち、同じく娘を見送っていたダニエル神父が、ラテン語でぽそりと呟く。
「<先の国王が死んで、息子が即位したそうです。噂によるとだいぶ急進的な性格だとか>」
「<それがあの子と何の関係がある>」
「<恩寵が欲しいのでは?>」
ダニエル神父の、影の具合で黒にも見える瑠璃色の瞳が枢機卿を見下ろす。
「<主の祝福と教会の力。どの国でも歴代の王が奪おうとしてきたものです。宮廷の目的もまさにそれでしょう。そして教会も、あの国に大きな顔をされるのが好ましくないから妥協した。利害が一致したわけです>」
「<じゃが、なぜあの子を>」
「<橋渡し役でしょうな。宮廷と教会の長が表立って取引するとどうしても外野がうるさい。それにあの子は『天使』です。遣わしたような演出をするにはうってつけだ>」
シックザール枢機卿は俯いた。ダニエル神父のいう『あの国』とはどこを指すのか、知っている。教会の懸念事項でもあるからだ。いつかは対応に乗り出すと予想していたものの、まさかセラフィナを担ぎ出すとは想定外だった。
「<儂は、あの子をこんな目に遭わすために、育てたわけでない>」
近頃一段とシワの増えた手を握る。
「<あの子がより多くの人々に愛されながら、神の花嫁の勤めを立派に遂げるのを見届けたかった>」
「<これも主が課した試練では?>」
「<そんな試練があるかっ>」
軽口めいた返事を一喝する。
神は愛する者に過酷な試練を課すという。だが本当に愛しているのならば、若い修道女に騎士団などという男ばかりの集まりを率いらせるだろうか。聖書でもこんなに突拍子もない試練は書かれていなかった。
ああだこうだ不満を訴える枢機卿にダニエル神父は肩をすくめ、言い聞かせる。
「<猊下が承認なされた以上、何も申せますまい。なんとかなると信じましょう>」
教皇の名を口にされてグッと押し黙る。それを出されてしまっては文句の言いようがない。
彼女を乗せた馬車はとうに走り去っていた。大聖堂の聖職者たちは感情を押し殺した顔で持ち場に戻っていく。他の者らは終始無言だった。ダニエル神父も、静かになった枢機卿を一瞥して踵を返す。
なんとかなる。その場しのぎの無責任な言葉だ。本当は誰も楽観視していない。彼女がちゃんと生きていけるのか、無事に過ごせるのか、不安ばかり募る。
信じるのではない。
そう思い込むほかないのだ。