最悪なご対面
カクヨムさんでの執筆開始に合わせ、こちらでも活動再開しようと思ったのですが、見直すと「うおおおおおお……見てられねえ!」という箇所がいくつも出てきたので、今までの分を一旦下げさせてもらいました……。納得のいく文章って難しい……。
「イグは大聖堂に来たことなかったんだっけ?」
馬で騎士団城のある丘を駆け下り、太い通りを抜ける。王都一番の中心街である噴水広場が視界に入ったところで左側に現れた脇道に入れば、表面を余すところなく精微な彫刻で埋め尽くされた2つの尖塔と壮麗なファサードが目に飛び込んだ。大聖堂である。
「ねえよ。暇な奴らが行くんだろ」
「暇って……。腐っても信者だろう? うちの騎士にもミサには必ず行く奴が結構いるじゃないか。僕も毎年、実家に呼ばれて行っているし」
大聖堂を平面図に表すと、頭部だけ半円を描いた十字型になる。玄関広間の拝廊を後端とすると、そこから十字架の横棒のように出っ張った、翼廊と呼ばれる通路に行き着くまでの一本道が身廊。回廊が囲む丸い上端は内陣であり、教会関係者のみ踏み入られる聖域だ。内陣の奥には段差があって、それの上に祭壇が安置されている。段の面積をほとんど占める祭壇の辺りは特に至聖所とされる。
ただし、至聖所は聖職者専用の祈祷空間である。一般参拝者が祈り告解し教えを請う場所は、翼廊の左端に誂えた礼拝所だ。翼廊の右側は施療院へ通ずる渡り廊下が敷かれている。
「へえ。設備が整ってんだな」
純粋に感心するイグナーツ。怒りはいったん収まったようだ。
「でもフロー。そんななら修道女の外見ぐらい分かれよ」
至極もっともな一言をイグナーツが投げかける。フロレンスは顔を難しくさせた。
「……説教がつまらないんだよ。居眠りするしかなくて、女の子どころか聖職者の顔すら覚えていない」
「…………。俺以上に信仰心薄いだろ、お前」
そんな雑談も交えつつ、大聖堂の隅に馬を繋ぎ、ランプを手に内部へと侵入する。重たい扉を開ければ、不気味なほどに冷たい静寂が青年たちを迎え入れた。
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草木も眠る深夜。セラフィナはこっそりと自分が寝起きする僧房を出て礼拝所に入った。今朝は週に一度のミサが開かれる安息日で、大聖堂に集まったやんちゃな子たちが天使像をペチペチ触っていたのを思い出したのだ。セラフィナは一般の信徒と異なり、礼拝所でミサを受けない。あくまで信者のための祭儀なので、彼女は目立たない場所で参加しているのだ。だからこそ、色んな点が目につく。
あちこちに手垢や唾液が付着しているだろうと、厨房から水を汲んで清潔な雑巾で拭く。天使像の胴体がある程度片づいたら、次は頭部を拭くために椅子を運んでくるつもりだ。
同じ場所を何度も重ねてこすっていく。天使像の造りは精密なので大変だ。石像なのに風に吹かれてなびいているとばかりの写実的な襞が幾つも織られているから、折り目も念入りに拭かねばならない。
丁寧に大理石の像を磨いていると、物音がかすかに耳を揺らした。聴覚を研ぎ澄まして、翼廊の方向に意識を傾けると、それが人の声だと認識できた。人数は2人で、男性か。穏やかな声つきと、荒っぽい口調。
会話の中身は聞き取れないが、礼拝に来たわけではなさそうだ。だいたい深夜、わざわざ祈りに来る人などいない。聖職者だって寝静まっているのだから。
壁に張りつき翼廊の通路を覗き見れば、夜陰と物影が折り重なってできた無明の闇の中で、火玉が怪しく揺れている。セラフィナは首筋がぞわりとざわめくのを感じた。
――――まさか……。
シックザール枢機卿に昔、悪魔について教えてもらったことがある。神の聖なる御遣いでありながら邪心を肥やし、愚かにも謀反を企てて地獄へと罰された者たちの残忍さを説明し尽くされて、震え上がったものだ。
不気味な談笑、浮遊する焔、じわじわと大きさを増す足音。幼い日の恐怖が喉元まで込み上がる。
――――悪魔……?
目を覚ましている人物はセラフィナのみ。つまり、彼らと真っ向から挑んで大聖堂を護れる唯一の人間だ。けれど彼女に悪魔祓いの資格はない。悪魔祓いを執行できるのは司教以上の聖職者なのだ。ならば、それに準ずる備えをしなくては。
――――主よ。お導きください。
彼女は足早に天使像に戻って主の加護を願い、聖水が注がれた聖水盤に寄りかかった。白い手から血の気が引くほどロザリオを握り締め、波立つ胸中を鎮める。
悪魔と対峙する時は警戒を緩めてはならない。気を抜いたが最後、彼らはその隙に突き入って押し広げ、心身を侵食するのだ。
セラフィナは神経を尖らせ、じき訪れる悪魔を待ち構えた。
彼らの口調が次第に明瞭になってくる。高まる緊張。首に提げたロザリオを手繰り寄せる。
焔が入り口で止まり、高々と翳された。
「ん?」
足場しか照らさない真っ暗闇でも、フロレンスとイグナーツは人影を感知した。王都の犯罪の取り締まりだけでなく各地で起こる盗賊被害や国境沿いでの他国との小さな衝突なども鎮圧する職業柄、人の気配には聡い。夜目も利くので一歩先から闇に呑まれた大聖堂の内部も、迷うことなく進める。
目の前に立つ人物はひどく小柄だ。年老いた聖職者かもしれない。
「誰かいらっしゃる――――」
フロレンスの呼びかけを高らかな声が遮った。
「In Nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti vobis iubeo. ――――Vadite retro, Diaboli! (父と子と聖霊の御名において汝らに命ずる。――――去れ、悪しき者よ!)」
鈴の音のごとくだ。そう詩人は詠うに違いない。
何を喋ったか聞き取れなかったものの、声色から察するにまだ少女だ。虚勢を張るようにロザリオを突きつけている様子は幼く感じる。シックザールの修道女とは別の娘だろうか。
「…………」
『…………』
「…………?」
娘はロザリオをこちらに向けたまま固まっている。鬼気迫る空気が漂っていたので黙って見守っていたら、やがて彼女は困惑気味に腕を下ろした。フロレンスとイグナーツを顧みることなくポカンとロザリオの十字架を見下ろす。
「え、あっ、あれっ? 違ったですか? でも合っています……よね?」
『…………』
そんなこと、フロレンスたちに確かめられても困る。
にじり寄ってみると、少女は小さく悲鳴を上げて後ずさった。この距離ではさすがに顔までは識別できない。
少女が突如背を向けた。焦った、軽い靴音。暗色のヴェールがさらさらと揺れる。
忙しない足音が失せたかと思うと、直後、得体の知れない液体が激しい水音を立ててイグナーツにぶっかかった。足元がずぶ濡れになる。
「おわ!!」
イグナーツは狼狽し、出かけた足を引っ込める。
反射的にランプを庇ったおかげで、幸いにも内部の焔には冷水がかからず済んだ。再度灯りを前方へ向けると、娘が聖爵を携え、聖水盤に張った聖水を掬おうとしていた。
イグナーツの怒りがついに限界を超える。
「っ、の野郎!!」
「イグ!」
盛大に悪態をつき、友人の制止も聞かずに娘の懐へ突進した。聖爵を取り落とした少女は、最後のあがきとばかりに胸元で踊るロザリオを男の顎へ突き出す。
イグナーツは娘の腕を掴んだ。修道服越しからも感じ取れる、しなやかで、か細い腕だった。
彼女が息を呑んだ気配がする。構わずに彼はランプの灯火を上げ、娘の顔面へ強引に近づけた。
「……っ」
光に照らされ、真っ白な相貌が露わになった。
月光が幾筋にも零れて濡れる、艶々とした漆黒の長い髪。潤んだ夜の瞳にも凍てついた光がよぎり、イグナーツを瞠目している。宵闇をものともせず淡く輝くような肌は驚くほど真っ白で、浮き出た肢体はかなり華奢だった。
薄く開かれた唇は叫びたげに震え、ぷっくりと艶やかだ。イグナーツは怒りを忘れ、止まってしまう。
月のおぼろな微光がステンドグラスを透過し、彼女の背後で煌びやかに冴え渡る。まるで色鮮やかな半透明の羽根が何枚も重なり、はためくよう。
言うなれば、そう――――本物の天使かと見紛う少女だった。
不覚にも見惚れてしまい、手首を掴む力が緩む。それを娘は振り払った。
「Noli……noli me tangere!! (さ、触らないで!!)」
「イグ!」
娘の荒い抗議とフロレンスの大声が重なる。フロレンスが2人を引き離し、穏やかな口調で彼女に話しかけた。
「申し訳御座いません。いきなり危害を加えてしまって。お怪我はありませんか?」
肩で息をする娘の瞼が極限まで持ち上げられる。少女は背伸びをしてフロレンスの顔を眺め回した。フロレンスも腰を屈めてやる。
「……悪魔じゃ、ない? 貴方たちは……? ……貴方はどこかで……」
彼らの使う言語が国の母語たるムルタ語と分かって、少女は呪文じみた言葉を封じる。これでようやく意思の疎通ができそうだ。
しかしながら、やっぱり会話が成り立たない。
フロレンスが眉をひそめて悩んでいると、自分たちが通った翼廊からカツカツと何者かが歩いてきた。持っていたランプより一回り大きい灯火が、その人たちを照らす。
金縁眼鏡を鷲鼻にかけた低身長の老人と、灰色の髪を撫でつけた厳つい老人。射殺さんばかりの目つきでフロレンスたちを睨み据えていた。
「Cardinalis, Pater! (爺様、パードレ!)」
娘の口から母国語と異なる、少々巻き舌気味な言語が飛び出た。さっきと発音が似ている。安堵した表情で老人に駆け寄る。
「Quid est? (どうしたのじゃ?)」
金縁眼鏡の老人が安心させるように、彼女の頭に手を置く。
「Seraphina, Qui sunt? (セラフィナ、あやつらは誰じゃ?)」
「Nescio (分かりません)」
ラテン語だ、とフロレンスは理解した。ミサの説教中にうたた寝をしていた時、このような言葉がつらつらと抑揚をつけて語られていたように思う。
「おい、何を喋ってるか分かるか?」
小声でイグナーツが問いかけてくる。フロレンスは首を横に振った。ラテン語は聖職者の宗教言語である。知っているわけがない。
金縁眼鏡の老人と少女が話し込んでいる間、長身の老人がカツカツと青年たちの許へ歩み寄った。灰色の眼光は炯々と、2人を外そうともしない。
「どいつだか分からんが、なにゆえ侵入したか」
「あ! そうです、この人!」
長身の老人の詰問を自分の声で覆い、娘は思い出したようにフロレンスを指差した。
「時々礼拝所にいらっしゃっては最後列の席について、居眠りする方です!」
『…………』
礼拝所の空気が一気に低下した。
「覚えられてんぞ。光栄だなフロー」
「慙愧に耐えません……」
フロレンスは赤ら顔を押さえ、うつむいた。
例によってラテン語部分は調べたのですが、自信はありません……。