すべての始まり
すべてを動かしたのは、1枚の羊皮紙だった。
手紙を読んだゾルタン・シックザール枢機卿は発狂しそうになった。いや、もしかしたらすでにしたのかもしれない。喉がひりひりと痛かった。
昂った気持ちを落ち着けようと、シックザール枢機卿は今自分が立っている場所を見渡す。
聖職者のみが立ち入りを許された至聖所。そこの一段高くなった場所に置かれた主祭壇は、いつも通り神聖な器物を戴いており、神々しい威光を辺りに放っていた。霊験あらたかな聖杯と純金製の十字架、燭台に視線を定めると、自然と波立った心も落ち着いていく。
気を取り直して、再度手紙に向き直る。そしてその内容がロクでもないということも再認識した瞬間、彼はあらん限りの声量で叫んだ。
「……なんじゃとおおぉっ!!?」
ゴーン……ゴーン……。
大聖堂の鐘が鳴る。低い轟音と絶叫が重なり合い、奇妙な不協和音を奏でた。
大聖堂の庭に植えつられていた大樹が揺れ、枝に乗っていた小鳥は大空へと飛び立った。
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王都の中心街にある大聖堂は、朝日が昇ると内部が宝石のように華やぐことで有名だ。光の道筋が色鮮やかな薔薇窓を突き抜け、緑や赤などの色に染まって礼拝所を照らす様は、まさしく極彩色の薔薇だ。
参拝者用の長椅子を見つめるステンドグラスは水色や青で彩色され、光を纏う神に跪く男女と、神に傅く聖人、純潔の象徴である白百合が浮き上がる。青は古来より紫と並ぶ神秘の象徴だとされているから、大聖堂の西側にあるこの礼拝所でも多く使われている。
その蒼く淡い光に照らされた、至聖所の大祭壇より一回り小さい祭壇。週末の朝に行われるミサで、神父が説教する場所だ。
祭壇の傍らには、一対の翼を広げ飛び立たんとしている子供の彫像があった。天使像である。それは大理石を彫っただけの像とは思えないほど精巧に作られていて、澄んだ石造りの瞳は遥か彼方を望み、すべてを見透かしているよう。
ゆったりとした布がなびき、豊かな髪もそよいでいる。石の硬質さが取り払われ、本物に似た軽やかさがあった。
天使は神の御使いであり、人々の祈りを聞き届けるという。その像の御前にて跪く娘も、一般信者に出入りを開放する前に早朝の祈りを捧げていた。
年の頃は十代の中頃か。手入れの行き届いた漆黒の髪と、対をなす滑らかな雪の肌。整った蕾の唇。幼さの少々残る目鼻立ちが容貌を愛らしく仕上げている。
閉ざされた瞼の奥にどんな煌めきが秘められているのか、まだ分からないが、それでも娘の持つ純真さは全身から溢れ出ている。
まるである種の宗教画だ。ぼんやりと観察していたら、背に真っ白な翼が透けて見えそうなほど、彼女は取り巻く聖なる空間と調和していた。
美しい情景をいつまでも眺めていたい欲を払い除けて、シックザール枢機卿は静寂を裂いた。
「<セラフィナ>」
力強いラテン語が礼拝堂を満たす。低いしゃがれ声は困惑が入り混じっていた。
最後の聖句を唱え終え、娘はしゃんと姿勢を正して立ち上がる。さらりと流れる黒髪。指ごと胸の影に隠れていた細い左手が、ようやく朝の光を受けた。
左の薬指に銀の指輪をはめる彼女は、今年で19。14歳で結婚適齢期とするこの国では、嫁いでいてもおかしくない年だ。とはいえ、彼女は既婚者ではない――――修道女である。
彼女がはめている指輪は、神との霊的な婚姻関係を結ぶ道具だ。大陸で広く信仰されているメサイア教の教典には『教会は神の花嫁』という記述がされており、誓願を立てると男女関わらず指輪をはめる。修道女の着衣も宗教上では花嫁衣装であり、ゆえに彼女は生涯独身を誓っている。
「<カルディナリス? どうなさいました?>」
義理の父親でもある彼を、セラフィナは敬意をもって『枢機卿』と呼んでいる。
枢機卿は、しわくちゃの手で握り締めていた羊皮紙を渡した。羊皮紙をしまっていた封筒に、彼女の名が明記されていたという。外回りをせず、大聖堂で動き回っているだけの修道女に宛てた手紙とは珍しい。しかも教会の人間でなく、外部から。
差出人は宰相――――宮廷のとても偉い人だ。彼のサインとともに、テネーレの国花である百合の印が押されている。
一体何が書かれているのだろう。セラフィナは文面に目を通した。
『主の恩寵めでたきシスター・セラフィナ・シックザール。貴公を次期テネーレ王立騎士団の総轄長に任ずる。 ――――テネーレ宰相 アルレット・ウィレム・ウィクリー』
「<……はい?>」
頭も心も真っ白になった。
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薄暗い部屋。面積の広さが静寂をより強調する。高い天井から垂らされた天蓋のカーテンは室内の半分以上を占める寝台を囲い、一部を除いて隠すように覆っている。ビロードの生地は壁に取りつけられたランプの灯を返して紅く照り、光の当たらぬところは漆黒の影を落として波打っている。床まで流れる長さは、まるで寝台に忍び寄る人影みたいだ。
部屋の窓も締め切り、一切の陽光が射さぬよう徹している。寝台に眠る人物を刺激しないため、侍医の判断だ。今、宮廷の侍医はカーテンを開いた隙間に身を乗り出し、せわしなく医療器具を出し入れしている。時折カーテンの向こうより、うめきに似た重々しい息遣いが漏れた。
「陛下の容態は」
病人の治療に死力を尽くしている侍医の背中に問いかければ、飛び上がられた。
「宰相閣下」
首だけ回して、侍医はいつの間にか部屋に入っていた宰相の男を振り返る。そして視線を落とし、辛そうに答えた。
「私も手を尽くしてはいるのですが、陛下はほとんど食事に関心を示さぬようになり、体力のほども……」
「分かりきったことを言うでない」
声を潜めて宰相がぴしゃりと一喝すると、年老いた侍医は首をすくめた。慌てて綿の詰まった柔らかな寝台で重々しく横たわる身体を見下ろし、太い息を流す。
「安定しています。ですが悪化の中での安定です。意識はたまに明瞭になることもありますが、お言葉につきましてはほとんど聞き取りにくくなっておいでです。これからも治療に専念する所存でおりますが、どう長らえても年内には」
「……そうか」
宰相はくるりと背を向けた。扉を睨み、腕を組む。
「陛下が罷られてしまえば、殿下おひとりになる」
現在の王太子は10歳を迎えたばかり。学力のみなら申し分ないけども、自ら国を治めるには政務経験が乏しく心許ない。母たる王太子妃は産褥の床で永遠に眠り、先代の王太子であった父は病弱が元で後を追うように亡くなった。遺された幼い子をしかるべき時まで育て上げるべく、祖父にあたる国王が休みなく国政を執った。
その果てが、寝台で力なく息をする老人へ。大変な変わりように宮廷の人々は深く案じ、王室の動向を注視している。
「殿下の即位は問題ない。我々がお支えする。……だが年端のいかない君主を戴けば、あの国がどう動くか」
宰相の頭の中で厳しい計算がうごめく。最善とは言いがたいけども次善の策に近い対応は、今はひとつしか浮かばない。
「そのためには、求心力のある人間を傍に置く必要がある」
そう。たとえば――――世界で広く信仰されているメサイア教の、聖職者。聖職者と接する際は、王侯貴族も庶民も関係なく最大の敬意を払うのだ。それだけメサイア教の支持は篤い。かの威信は一国の王室の権勢をもしのぐといわれている。
そのような神に仕える者を王太子と並ばせれば、教会の権威をあたかも君主の威光のように利用することができる。神が国王に加護を与えているという演出だ。しかもメサイア教の最高権力者ともいえる教皇はテネーレで聖務を執っている。これほど諸国に打撃を与えるものはない。
「そんなことが可能なので?」
事前に計画を聞かされていた侍医は、不安げに念を押す。
メサイア教の教会は人々に救いの道を説き、分け隔てなくすべての人間が祝福を受けられるよう祈りを捧げている。宮廷に肩入れすることはないし、政治にも介入しない。世俗の権力者とは距離を保っているのだ。いくら国を護るためといえ、そうそう力を貸してくれるとは思えない。
「今回はできると踏んでいる。あの国は教会にとっても脅威だ。教皇猊下は初め難色を示されておられたが、しつこく交渉したおかげで1人寄越してくださることとなった」
とはいうものの教会の人間は高齢者が多く、引き入れるにしては頼りない。しかも地位ごとに多く存在する聖職者から1人を抜き出したところで、大した影響には至るまい。宰相が欲するのはそうした者ではなかった。もっと、あまねく認知されていて、神の使者としての説得力を備える逸材を。
「教会の『天使』だ」
考えついた末が、十代のうら若き修道女だった。年齢と性別にかなりの不安が残るものの、通常神父が行う洗礼を神の代理人たる教皇から直接授かり、ゆえにその覚えめでたく、またテネーレ市民の支持が篤いということで決断した。
「あれを、王立騎士団の総轄長に据える」
白くふわついた侍医の眉が跳ねた。
「正気ですか? あってはならないことです。争いを嫌う教会を騎士団に入れるなど。しかも修道女とは。騎士団内部の反感も買います」
「ちょうどよく空きができてな。今までの総轄長が歳を理由に辞めた。事前に話を通したが、好きなようにしろと言っていた――――不満だったのか任期を待たずに出て行ったが」
「それは……」
「何かあれば、王立騎士団か辺境騎士団、地方騎士団が一番動きやすい。動きやすい集団の先頭に教会の人間がいると良い顕示になる」
「『天使』様にはあまりの苦痛でしょう。理解を得られると思えません」
「修道女の心情などどうでも良い。ただの飾りだ。王立騎士団には優秀な補佐官がいる。奴が実質の総轄長のように統率すれば騎士たちも黙るだろう」
「上手くいくとは……」
教会で名だたる『天使』が王立騎士団の頂点に立てば、国民も支持するだろう。教皇には『天使』を派遣しても各国の教会や聖職者を動かしたりしない、積極的な協力は一切しないと釘を刺されたが、どこかで譲歩せざるを得ない時期が来るだろう。
「どちらにせよ、慣れさせる必要がある。今、我々が求めるのは時間だ」
そこでいったん話を断ち、寝台に横たわる国王に向き直って姿勢を正す。血走った顔つきで宰相は国王の枯れた手を握った。
「どうか陛下。王太子殿下のため、国のため。もうしばらくご辛抱くださいませ」
生かされているだけの国王は、耳を傾けることなく呼吸するのみ。