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月夜の逢瀬


 目が()えて眠れない。反対側の壁に面する寝台にしがみついたディナダンは、対照的に安らかな寝息を立てている。寝つきの悪いイグナーツは羨ましくてならない。

 ひたすら横になっていても瞼は重くならず。少し喉の渇きを覚えた。水差しなら充分な量が執務机に置かれてある。ただ身体を動かしたら疲れてくるかもしれない。そう思い至ってイグナーツは起き上がり、そっと部屋を出た。


 目指す場所は中庭。太陽が昇っている頃はワイワイガヤガヤと耳が痛いくらいだったが、真夜中の騎士団城は足音が鼓膜を揺らすほど静まり返っている。地上を深く暗い青に染める天頂の月。だだっ広い庭園にぽつんといる状況は、例えがたい寂寥(せきりょう)を覚えさせた。


 中庭には騎士団城で日常的に利用される清潔な井戸があり、三角形の上屋のてっぺんには国鳥の鷲像が取りつけられている。

 縄を引き寄せ、釣瓶に汲まれた水を両手で作った皿で飲む。ひんやりと冷たい液体が臓腑に滲みる。


 気配を感じて渡り廊下に引き返し、外に出て見上げると5階のある一室で(だいだい)色の発光物が灯っていた。

 あそこはちょうど、総轄長……もとい修道女が居座る執務室だ。こんな夜更けに何を。寝ないのか。


 ――――不健全じゃねえか。


 とはいえイグナーツが心配したり、彼女を気遣かったりする義理はない。

 それなのに、どうも気になってしまう。

 ほわほわとした執務室の光は、当分消える気配がない。

 彼女が連日、書類事務に忙殺されていることはフロレンスから聞いている。3ヶ月も手付かずなら行き場のない仕事は溜まるに決まっている。どれだけ頭とペンを走らせても1日でこなせる量などたかが知れている。しかも修道女(よそもの)だ。作業効率はもっと悪い。それならせめて、夜は休めばいいものを。


「…………何考えてんだ」


 彼女がどうしていようと関係ない。大体イグナーツを筆頭に、王立騎士団では彼女を受け入れたくない騎士が大多数だ。過労が(たた)っていっそ辞めれば良い。

 ところが、彼の暗い考えとは反対に、靴先は執務室に向かっていた。廊下を歩み、階段を越える。


 最上階の通路を歩くと、他の部屋とは異なる色合いの扉に近づいた。執務室か、補佐官の部屋だ。騎士団城では焦げ茶色の扉が一般的な中で、この2室だけ象牙色に塗られている。

 扉を叩くと、可愛らしい返事がした。開錠音はない。そもそも施錠をしていなかったのか。あり得ない非常識さにイグナーツは愕然とする。


 扉が開いて現れた姿に、さらに彼は立ちくらみを覚えた。


 騎士たちの寝間着。左右の前身頃を胸の前で交差させるように重ね合わせ、帯を締めた紺のガウン。修道女も例外なく着ている。修道服で隠されていた細い首筋や白い胸元が露わになっている。長い髪は後ろに流され、まっすぐに伸びて左右対称に浮き出た鎖骨がさらされていた。月明かりが注ぎ、真っ白な素肌に誘うような艶がちらめく。

 たとえ彼女への好意が皆無だとしとも、これを見せつけられて意識せぬ男がいようか。

 ディナダンに口づけされた時は本気で嫌がっていた娘が、深夜に男が訪れた時はおいそれと扉を開けるのか。――――否、あの口づけは教義に反するから嫌がったのだ。こいつは男という生き物をまるで理解していない。

 訪問したのに扉の前で何も言わず突っ立っているイグナーツに、セラフィナが首を傾げた。石鹸とは異なる甘やかな香りが立ち昇る。


「ブルーハさん?」

「……貞操観念」

「はい?」


 イグナーツの悪態を聞き取れず、きょとんと夜空の瞳を丸くする修道女。


「こんな夜更けにそんな格好でドアを開ける女があるか」

「ノックの音がしたので……聞き間違いでしたか?」

「そういう問題じゃねえ」


 長く教会に従事してきたせいか、彼女の思考回路は世間一般とズレていて、俗世の汚い欲望とはかけ離れている。純真とは聞こえが良いものの、危うすぎる。おめでたい頭だから総轄長就任を了承するのだ。ちゃんと教育しとけよ、とイグナーツは聖職者を恨む。

 淡い光源が照らし出す執務机にイグナーツは意識を移す。そこにどっかりと()しかかっていたのは、積もりに積もった数限りない書類の束。見ただけで気分が萎えてくる。

 これだけの量を、小娘が1人でこなしていたというのか。


「あの。ご用件は?」


 自分に用があると信じきっているセラフィナが彼を下から覗き込む。小さな体躯。腰なんて、片腕を回してちょっと力めばへし折れそうだ。きつく巻かれた帯が女性らしいほっそりした線を浮き彫りにしている。

 無垢な黒水晶の双眸に吸い込まれそうになった。込み上げる感情を押し下げ、イグナーツは親指の腹で娘の目元をつついた。


「クマ」

「はい?」

「無理してんだろ。目の下、黒いぞ」


 驚くほど白い肌は、我慢をすればすぐ疲れの色がにじみ出る。自身の内なる悲鳴に気づいていない娘はふるふると首を振った。


「そんなことは」

「騎士のこともなんも知らねえ奴が疲れてないわけねえだろ。倒れたって知らんぞ」


 清潔感漂う寝台を顎で示して、彼は部屋を出ようとする。長居するつもりはなかった。執務室の明かりが目障りだった、それで寝かせに来たのだ。彼女の体調など、どうでも良い。

 壊れてしまえと思いつつも彼女を訪ねた、己の不可解な行動にも腹が立ち、イグナーツは扉の取っ手をひねる。


「ありがとうございます」


 イグナーツの足が止まった。振り返らずとも彼女の満面の笑みが脳裏で再現される。


「わざわざ心配してくださって」


 ついさっき、彼女のクマを押した指。指先に彼女の柔肌の感触がまだ残っていて、どきりと(うず)いた。爪が皮膚に食い込むほど手を握り締め、そんなはずはないと否定する。

 心底ありがたんでいる声色は、彼の息を詰まらせるのに充分だった。イグナーツは声を絞り出す。


「……別に。ただその明かりが下から見えて鬱陶しかっただけだ。じゃあな、修道女」


 今度こそイグナーツは部屋を出た。バタンと大きな音を立てて扉を閉める。


 廊下に出、さっさと降りて部屋に戻ろうとイグナーツは奥の階段を目指した。

 執務室に背を向けざま、


「こんばんは」

「!」


 振り向き(ぎわ)に補佐官の隻眼とかち合う。フロレンスは執務室のある側と向かいの壁にもたれかかり、腕を組んで立っていた。親しげな面差しだが、目は笑っていない。


「気づいてたのかよ」

「とっくにね。僕の部屋と総轄長の部屋、他の部屋と同じで元は相部屋だったんだよ。あとから分離されたけど、突貫工事で薄い板で隔てただけ。だから相当静かにしないと聞こえちゃうよ」


 無体を働けば身内だろうと斬り伏せると暗に告げている。その証拠に、寝間着姿には似合わぬ武器が彼の腰に()かれていた。


「どこぞの馬鹿が早くも血迷ったかと思ったじゃないか。帯剣して損した」

「ということは、お前。もしあいつに乱暴してたら、俺を殺したと」


 フロレンスは右手を広げた。彼の掌には剣柄を握った痕がうっすらと残っており、イグナーツは改めて友人の容赦のなさを感じた。そのことを肯定するかのごとく、補佐官は晴れやかな笑みを広げる。


「勿論」


 言葉と表情が矛盾している。


「まあ、お前で良かったよ。ディナダンだったらどうなってたか」

「それ以上は聞かねえぞ」


 ディナダンは無類の面食いだ。初対面の娘をあれだけからかったということは、気に入っている証拠である。――――あいつが夜間に訪問したら、それこそ彼女の純潔に危機が迫る。


「で、本当のところ何がしたかったのさ。緊急でもないのに。非常識だぞ」

「うるせえな。夜更かししてたから叱っただけだ。倒れられたらそれもそれで腹立つ」

「それだけの理由?」


 あら意外。と口元に手を当てて首を傾げられるが、娘がしてこそ愛らしいと思える仕草を男にされても(わずら)わしいだけだ。


「……お前こそ、なんで起きてんだよ」


 時刻は月が頂点を(きわ)める真夜中。日中ひたすら身体を動かし鍛えていた騎士はとうにベッドに沈んでいる。


「総轄長が終わらせた書類の確認。抜けがないか見ておかないと」


 枚数があって大変なんだよ、とフロレンスが珍しくぼやく。聞けば、彼女は入城して昼食を食べ終えてからずっと閉じこもっているらしい。


「全部1人でやってんのか」

「あの子の名前がいるんだから、当たり前だろ」

「んなもん、お前が勝手に書きゃ」

「公文書偽造って知っている?」


 恐ろしい未処理件数だと思うが、着任早々に急き立ててさせるだろうか。


「強要したわけじゃないよ。あの子、あの量を見て自分から片づけにかかったし」


 話すフロレンスの口ぶりは嬉しそうだった。厳しい戒律に弱音を浮かべることなく従順に過ごしてきた信おっしゃ生活の賜物か、彼女は真面目だ。言われたことは必ずやる。しかもできる限り早く。文句も言わない。投げ出すこともない。没頭する。こんなにも聞き分けの良い上司は貴重だ。お飾りの人形としては最高である。あくまでも、事務処理上は。


「…………あの子はまだ、仕事?」


 フロレンスはじっと執務室の扉を見つめる。瞳は、扉の奥で執務机にかじりついているであろう娘に注がれていた。


「ありゃ徹夜する気だぞ」

「そう。早く終わるならそれに越したことはないし、僕は大歓迎だけど」


 あくまで休ませる気は毛頭ない補佐官が恐ろしい。補佐官は総轄長の身の回りや予定の調整を図る、文字通り補助的な立場のはずなのに、その働きが一切見えない。フロレンスだって騎士団城と宮廷を行ったり来たりと走り回り、その間に修道女に否定的で反抗心を高めている若い騎士をなだめすかして疲れ気味とはいえ、酷ではないか。


「……あの子が心配?」


 しかめ面のイグナーツを見て取って、フロレンスが意味深な目つきを寄越す。


「おかしいなあ。普段のお前だったら、他人が何してようが、迷惑にならない限り文句をつけないのに」

「フロー……お前、人をどんだけ消極的な奴だと」


 口の端をヒクつかせながら抗議すると、フロレンスは見透かしたようにくすりと微笑んだ。


「なんだかんだ言って気に入っているじゃないか」

「うっせえ」


 低く毒づいて、対処不可能になるまで言い詰められないよう、イグナーツは早々と彼に背を向けた。


「素直じゃないな」


 愉快げなからかいが鼓膜を揺らす。ふざけるなと反発する気も失せ、イグナーツは黙殺を決め込んだ。


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