…潜む、アロワナ。
とあるきっかけで突然転がり込んだこのマンションの一室も、一週間もすると自分の部屋となんら変わりなく思えてきて、本棚に並ぶ哲学書やらレコードなんかも自分で買い揃えて集めた物のように感じられてしまう。
いくつもの部屋の中から一番自分好みの一室を決めて、そこへなんとなく気に入ったジョルジュ・バタイユの一冊を持ち込む。その部屋にもたくさんのレコードがあって、適当に選んだ1枚をプレーヤーに掛ける。ここに住み着いてからはブルーノートのジャズを聞くことが多い。
バタイユの文章を行ったり戻ったり読んでいると、自分の輪郭が少しずつぼやけていくような気持ちになる。それは決して悪い感じじゃない。その感覚を惜しむように、彼女が寝ている部屋のベッドに潜り込む。
行為の後で彼女が疲れてまた寝てしまうと、また本を読むかレコードを聴くくらいしかすることもない。ここにノートパソコンと一緒に持ち込んだ仕事にはまだ期限があったから、他に思いつくことといったら、台所で食事を作るくらいだ。食材はそれなりにそろっていたし、酒も洋酒なら棚に並んでいたから、わざわざ下のコンビニにいく必要は無い。
彼女は自分の部屋にたくさんのスナック菓子を買い込んでいた。本当にたくさん。信じられないくらい。信じたくないくらいだ。
僕がそのマンションで食事をつくるのは自分のためだけだ。彼女は基本的に自分で買い込んだスナック菓子しか食べようとしない。
彼女の旦那が、自分が海外へ行く間彼女が苦労しないように買い置きしておいた野菜・果物や冷凍食品、缶詰類(レバーペーストやら、キャビアにフォアグラ、あん肝のまである)には全く興味を示さない。僕の料理にそれらはずいぶん役立ったけれど。
マンションに来て何日目なのか、数えるのをやめた。
僕は久しぶりにカレーを作った。スナックしか食べない同居相手と自分しかいないこのマンションでカレーを作るということは、少なくともこの鍋が空になるくらいの間はここにいるつもりになったってことになる。意識はしていないけれど。
その日はカレーを寝かせるために、食事は戸棚にあったフランスパンに、思い付きで作ったオニオンバターを塗ってすませた。そして、夜は溜まった仕事を片付けた。
その日、僕は寝なかった。そして、彼女は起きなかった。
5時ごろの日の出を見送って、朝の9時に仮眠をとった。
昼の2時に米をとぎ、3時にご飯が炊けたのでカレーの鍋に火をつける。セロニアス・モンクのソロピアノがコンポのスピーカーから流れると彼女が台所に目をこすりながらやってきた。珍しく自分から起き出してきたのだ。
「カレー作ったんだけど、食べる?」と聞くと、意外に「…うん。」と返事が返ってきた。
僕はここに来て初めて彼女がスナック菓子以外のものを口にするのを目にした。
「なんかさ、最近ずっとスナックしか食べなかったじゃん?他に何か食べたい物があったら作るよ?」
「…じゃ、ハンバーグとかミートソースとか、チキンライスがいい。とりあえず、次食べたくなった時にはハンバーグを食べる。」
僕が彼女のためにハンバーグを焼くことになるのは明日の昼くらいかな、なんて思っていたけれど、実際はその3日後の夜だった。カレーの鍋も空になっていた。
彼女は信じられないくらい睡眠時間が長かったし、目を覚ましてもトイレ以外にベットから出ることもほとんどなかった。まるで風邪を引いて学校を休んでいる子供みたいだ。
トイレ行く前にはスナックの袋を開ける。2,3口頬張るとトイレに行き、洗面所で歯を磨いてまたすやすや寝る。
僕が抱きたくなって、布団にもぐって肩を抱きしめると、まるで待ち構えていたかのような、つまり今まで眠っていたとは思えないすっきりした瞳でこちらに応える。
部屋にあったバタイユを読みつくして、次はジョイスでも読もうかな、なんて考えながら切干大根に味付けしていると彼女がキッチンにやってきた。僕は冷蔵庫から、あらかじめ焼く直前まで用意しておいてラップに包んでおいた肉と少しの玉葱の物体を取り出した。
フライパンの上でそれをハンバーグに仕上げながら、僕は尋ねた。
「旦那さんさ、外国出かけて当分帰ってこないって、一体どのくらい出かけてるの?」
「うーん、あと2,3年くらい。どうして?」
「いや、僕がここにいる時に突然帰ってきたりしたら大変かな?なんて思ってさ。」
「大丈夫。日本に帰る日がはっきりしたら早めに連絡するって言ってたから。それまでは別に男の1人や2人住まわせても構わないって。」
「変わってるね。」
「日本人じゃないから。たしかアメリカ人じゃなかったかなぁ。いつも生まれ故郷のレニングラードの話してるの。」
僕がこのマンションに住むようになったきっかけは、深夜のファミレスで約25年ぶり彼女と再会したことだった。
僕はほとんど家で仕事する。基本的なことはメールで済む。そして、特に用があればたまに東京に出てくる。東京に来て会社での用が済むと、終電ぎりぎりまで都内をほっつき歩く。
ちょうど、その日は終電を逃してしまい、日付が変わるまでゲームセンターの隅で一人でビリヤードを打った。その後は、昼間に古本屋で買ったケルアックの『路上』をファミレスのドリンクバーで注いだ甘ったるいカフェオレを飲みながら読んでいた。
2時をまわると、スピーカーからマッコイ・タイナーの弾く「round about midnigt」が流れた。
ふと隣のテーブルに目を向けると、自分と同じ歳くらいの女性がこっちを見ていたのに気が付いた。(その時の彼女は、僕に何かを思わせていたのだけれど、それが何だったのかが今では思い出せない。)
目が合うと彼女は話しかけてきた。
「あの…、私と同じ幼稚園だったよね?名前は思い出せないんだけど…」
「ああ。多分同じだと思うよ。こっちも名前は思い出せないけどね。」
それが再会だった。
具体的に、幼稚園児のころの記憶としての彼女は、名前も顔も、具体的に何を話して何をしたなんて僕の記憶に残っていなかった。そもそも、僕にそんな昔の、小学校に入る以前の記憶など残っていない。ただ、そのまわりの空気感が、消えた記憶のどこかにはまり込みそうな、そんな気がしてならなかった。
そのあと2人の間に交わされた会話は、全て現在、もしくは限りなく近い過去に関わるものだった。昔の共通の時間を確かめることはなかった。けれど、ユリの香りが風に吹かれて薄れていくように、それなりに長い時間のなかに広がって散ってしまった記憶のどこかに、彼女が存在していたことははっきりと確信していた。
そして、その夜から彼女の、マンションの一室と、そのベッドに転がり込むようになったのだった。
不思議なくらい一人の時間が続く。
一人でいることが好きな僕には、こんな部屋で好きなようにできて都合がいいけれど、単純に快適だという以上に、すりへらしていく時間の流れに対して、官能的な感覚さえ抱いてしまう。昼間は鳴りっ放しのスピーカーと、深夜だけスイッチが入れられる液晶テレビ。
僕は深夜しかテレビを見ない。大勢の人たちが見ることを前提に作られる番組に興味がもてない。ニュースの中の事件に一つ一つさえ、人々の気を引くために起きているような気がしてしまう。誰のために見せているのか分からなくなるような、ある意味自分勝手ともいえる深夜のテレビは、僕の神経に安らぎを与えてくれる。
チャンネルを回すと、ジョン・コルトレーンが「you don't know what love is」の美しいバラードを奏でていた。自分がどこにいるのか分からなくなる。読みかけの小説と現実の混同。眩暈と軽い頭痛。
昼頃に目が覚める。彼女の寝室へ行ってみるとまだ寝ているようだけれど、スナック菓子の空き袋が一つ増えている。一度目が覚めてまたすぐ寝たんだろう。僕に用があれば遠慮無しに起こしてくるはずだから。
ユニットバスにお湯をため、ラジオを聞きながら浸かっていた。音楽番組の合間にニュースが流れる。この部屋の外では時間はしっかり流れているようだ。正直僕は自信がなかった。
ビートルズの特集が終わって、邦楽の番組に代わったので風呂から出ることにした。外を見ると夕方だった。
温泉に行きたくなり、一晩だけ外泊した。リクライニングチェアに座って一人テレビを見ながら、気付いたら眠っていた。起きたのは5時。朝湯に入ってから、9時にはチェックアウトした。朝食は頼まなかったので、帰り道のスタバでベルギーワッフルをキャラメルマキアートと一緒に注文した。渋谷でCDを買い込み、山手線に乗っていたら地元の友人と再会した。昼過ぎまで居酒屋で話し込んだ。マンションに着いたのは夕方6時で、彼女がトイレ以外に起きた形跡はなかった。
台所の食料品はまだまだ無くならない。生ものが欲しくなるとすぐそばのデパ地下のスーパーへ買いに行く。これが外泊以降籠りきりになっている生活の中で、唯一ともいえる外の世界との接触だった。そんなたまにの外出があっても、マンションの外で世界が動いている実感なんてまるでなかった。テレビやラジオのニュースもみんなフィクションだ。新聞はとってすらいない。ネットは信用していない。
日付の感覚どころか、今一体何時なのかも分からなくなる。目が覚めたときに時計をみると、短い針が6時を指している。外は薄暗い。朝なのか夕方なのかわからず、テレビを付けると朝だった。それまでは夕方のつもりだった。多分もうすぐ夜なんだろうと思っていた。ベランダに出て外を見ると、向かいのビルのオフィスではもう仕事を始めているサラリーマンがいる。それを眺めながら、昨日グラスについだコニャックを飲む。人肌が恋しくなり、寝室の扉を開けに行く。
竜宮城か、ひっとしたらただの水槽なのか。循環する水のなかで、自然に発生する藻を食べて生きているようだ。時々、水面から光がさす。水草が光合成をして、酸素が生まれる。だからいくらでもここにいられる…。
仕事を終えて、時計をみると3時だ。外は暗いから夜中なんだろう。またコルトレーンがテナーを吹き始めた。今夜もバラードだ。僕はうっとりした気持ちで彼の演奏に聞き入った。
「どうしたの?砂嵐の画面なんかずっと見つめて。」と僕は突然声を掛けられる。
テナーの音色が突然止み、僕の耳にはテレビのノイズだけが入ってくる。画面がちらつく。
「お寿司が食べたい」彼女には珍しくすっきりした声だ。
「…いいよ。今から着替えたりして、それから築地に向かえば6時には着くはずだから。」
日の出直後の街に出て、地下鉄の駅に向かうと、ちょうど始発が出る時間だった。駅を出て、少し歩くと築地に着く。小雨が降りだす。いくつかの店を通りすごし、たまに軒下で雨宿りしながら、なんとなく客の入ってそうな店を選んだ。もちろん早朝だからあてにはならない。
「いらっしゃい!」
威勢の良い声に迎えられて店内に入ると、スーツを着た男と化粧の濃い女のカップルが4,5組、眠そうな顔の若い女が2,3人酒を飲みながら寿司を食っていた。
僕達は、カウンターに座って、中トロとか平目とか、思いつくままに注文しては醤油をつけて食べた。
徐々に空腹が満たされる。
「疲れた。」と彼女に言われ、僕達は板前に一言言ってテーブル席に移った。
「もしかして寝るの?」
「微妙。」
「なんか頼む?」
「お茶。あとガリも。」
僕はお品書きを見て、自分用にワイルドターキーをロックで注文した。
眠そうにでガリをかじる顔を見て、僕もガリをかじる。やっぱりバーボンには合わない。ナッツを注文する。他の客が帰っていく。眠い日曜の朝に彼らの一日は終わるのだ。僕の一日はいつ始まって、いつ終わるのだろう。ただ僕はガリをかじる眠そうな顔を見つめながら、グラスの氷を回すのだ。
「何?あの魚。」
あわびや平目が泳ぐ水槽の隣に、もうひとつ大きな水槽があって、そこでは黒に近い灰色の大きなうろこを持った、大きな魚がゆっくりと泳いでいた。
水槽はとても大きいが、魚が大きいぶんとても狭い。
「アロワナだよ。アマゾンとかにすんでるやつ。」
「食材?」
「まさか。観賞用だよ。生きてるエサしか食わないんだよ。だからあれ飼う人は、生きたこおろぎとか、めだかとか用意していないといけないんだってさ。」
のそっと水槽のガラス越しにこっちを向いた。
と、突然隣の水槽に網が入れられ、平目がすくい上げられた。驚いた顔でアロワナはそれを見た。
他のテーブルの客が「それこっちにも一つ!」と叫ぶ。僕も頼んだ。
「お茶いかがですか?」と若い職人がやってきた。
「…あ、下さい。」と彼女が答えるの。
「あのさ、あのアロワナっていつからいるの?」
「あれですか?3年くらい前からです。」
「そっか。3年か…。」
「どうしたの?」
「いや、3年もあそこの水槽にいたんなら、随分たくさんの魚を見送ってきたんだろうなぁと思ってさ。いつも、次は自分かもってアロワナなりに感じてきたのかもしれないしね。」
「毎日お隣さんが殺されていくんだものね。」
「死刑囚だって、死刑の当日までいつ自分が殺されるかしらないんだよ。他の部屋の囚人が出て行くのを聞いて、次は誰なんだろうって。あのアロワナも似た様なこと感じているのかもね。でも実際は殺されずに天寿を全うする。後から入ってくるフグや平目は次々に殺されていく。」
アロワナはゆっくりゆっくりと水中を進む。もしくは流れに身をまかせているだけなのかもしれない。
突然ひらっとターンした。ウロコが光ったとき、虹のような光がはしった。
「ねぇ、旦那さんずっといないけど平気?」
「うん。いればいたで話とか楽しいし、でもだからといって特に家事とかしなきゃいけないわけじゃないし、それにいないならいないで適当にやってるし。お金は3億くらいあるから、もし帰ってこなくても生活には困らないし。なんかすごい適当なんだけど、とりあえずあのマンションにいられれば私は満足なの。」
ガリを食べ終わり、うとうとしてきたのか眠りだした。授業中の高校生のような格好で。
僕は彼女の寝顔を見ながら、何も映らない鏡のことを考えていた。
普通の鏡は反射したものしか映さない。でも、実は映っていない部分にも世界が広がっていて、逆に鏡の世界から見えない現実の世界も同じように広がっていて、どこにどんな差異が生じているのか、確かめるすべは当然無い。
そして何も映さない鏡は、互いの世界が接している部分すら我々には想像もつかない差異、もしくは想像もつかないほどの同一性がある。そして接しているのが、普通の鏡のように現実の世界と鏡の世界という二つの世界なのではなく、本当は同じ世界同士の面である可能性だって有りうる。アフリカ大陸と南アメリカ大陸の、ぴったりとくっつきあう海岸線のように。
わかるかい?
何も映らない鏡にかざした君の姿は、きっと美しい熱帯魚なんだ。
アロワナが放つ色彩。
静かな寝息。
僕は突然外へ出たくなった。こんな都会ではなく、ビートニク達が走り回った砂漠のような大きな世界へ。
あのマンションで、僕は昼も夜も無くしていた。それはそれで悪くない。でも今は、逆に昼も夜も振り切って世界を駆け巡る、そんな欲求が膨らんでいた。
僕は水槽の中にずっと沈んだままでいすぎた気分だった。鬱病になりそうなくらいのけだるい官能。失われていく衝動。甘い依存性。
あと一週間だけあのマンションで生活して、今度はできるだけベットの中で、ずっと2人でからみあって、そうして、自分のアパートに戻って回りを片付けたら、飛行機でニューヨークまで行き、車を借りてロスまで走ると決めた。はるか朝日を追いかけて、迫る夕日から逃れるように。
水槽のアロワナが翻り、水槽の壁にぶつかった。ドスンと大きな音をたてて。