表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

黒い海

作者: 凍星 蚊帳
掲載日:2026/07/21

上手くなります。

 君が死んだ夏というのは、心にむなしかった。私が死んだなんて知った時、ちょうど蝉が湿るように鳴いていた。しーしー、時折ぎー、なんて喚くのだから夏の情景に半ば癒着しているようなその喧噪がどうにも気に食わなかった。だから、心臓がちりちりとこそばゆく、うっ血に近しい所感、その音が石に染みるようにしんと肌に滲んだとき、もう終いだと思った。朝に放った磯に香る魚の網、夕暮れ眺めの湿り風、日陰の畳の線香の折れ、そういう夏に私は独りだった。

 玄関に出、戸の(つか)に銀色に顔が歪んでいる。開けた戸に予想されるは熱気、視界のどこか湾曲するような渦をうつむいた頭蓋に思いながら、腕が上げようにも厄介だと気にする。しばらく伏して、夏の癒着がさわがしく湿り気を増すころに柄に手をやってみる。・・・黒い靴があった。揃えてあった。つま先はこちらにあった。そこにはだれも居なかった。唯、黒い靴があった。

 気味が悪い。熱気ばむ外にはしんとした日差しに靴の影が引き伸び、まるで黒い塊。不気味な、黒い塊だった。

「やっほ。」

喉を締める、沈黙、静かにする。伏せた眼はきっかり下を向き、そこに漆のような靴。塊の横に脚。白けた脚と黒い塊。じくじくと膿むように蝉がぎーと唸る。白い表皮だった。冬、朝に昇る月のそんな淡泊な白に似て、少しそっけなく青があった。きっとこれは死人だなんて考えた。だから、喜びまじり恐れ、声の呼応に呪いだとか悪霊だとかを危惧する矢先。

「影を探してほしい。」

包丁でつつかれた豆腐のように、とんっと心臓が鳴った。私は四肢に力んではきゅっとそこへ眼をやり、なげうつ心づもりで恐れを直視した。

「・・・死んだんじゃなかったの。」

「ふふっ、死んじゃったのさ」

もうその時分には、こらえることを忘れてしまった。身体の脱力に世の色彩は絵の具のように擦れて、しばらく(うずくま)っては、押し殺すように泣いた。途中、君がかがんで背中をさすってくれる。そっと、何も言わずに。静かにさすって、なんだか頬に筋がつたった。

 しばらく経つとようやく、細く筋も消え、君も止しては二人で笑い合う。

「だいじょぶそ」

「ありがと」

影がなかった。玄関先に落ちる袈裟懸(けさが)けの日と、黒い塊の影、私と、やっぱりお月のような仄かな白の影のない君。

「影を探すのを手伝ってほしい」

胸に突いた細い人差し指に汗が見えず、むしろそれは月をこねてこさえたような冷々とした感じ。ちらちらと淡く発光しているのか君の肌の辺りだけ、いかにも幻想的だった。しかし、それは青白かった。血を失ったか流れていないか、君の身体は妙に艶のない。青白かった。やっぱり君は死んだんだと思った。

 みぞ辺りから指の離れていくのを感じる。私は微かな(さび)しさに、離れゆく指の腹に自分の指を重ねてしまう。君は少し止しては又指を(すべ)らせて、それは冷えている、しかし私には温かだと感じさせた。すると瞬間、火照りが起こった。安心は導火線だった。君は、服を着てはいなかった。そうして君は、はだかだった。

「・・・見たの。」

やけに蝉が五月蠅(うるさ)い、私は気が違って仕舞ったか、千切れんばかりに首肯した。鈍い下地の白の撫子の着物。刹那に(まと)って、足下裸足も気にせず、月のような白の横、黒い塊がまるで惑星の影のように錯覚した。

それから私たちは色々な所を巡り歩いた。大抵はたわいも無い話で、時々懐かしさに心が感傷的になることがあっても、尚もここぞとばかりに二人は話すのを止めなかった。そんな構えで、君が生前、思いのあった場所を探した。

 例えばそれは、とある肉屋だった。赤色の(ひさし)が若干の涼みを作り、横開きの硝子戸の傍に古びた長椅子が木を腐らせていた。「ここはね、通学路にいつも見かけるお肉屋さん。登校時間にはもう開いていて、朝の涼けさもあって白の電燈に照らされたここは、すごく冷たい氷のような気がしたんだ。」そう云って赤帽被りの廂の下へ入って行く。「すいません。コロッケ二つ下さい」。ちっちと針時計の音が響き、肉の冷凍にやけに寒かった。二つ。私が指で求めた。頬のこけた男が、ほいと紙で包んで二つをくれた。君は少し苦い顔をして、しかし嬉しそうにコロッケを頬張った。その時私は外の蒸し暑さと冷凍の寒さとで、ここに病棟の感じを与えられた。薄ら笑いを蓄えた頬のこけた肉屋の男、撫子の裾の白けた青い血脈の裸足、そうして又濁った翡翠(ひすい)のような(かび)臭いタイル。これらがどうにも、店の冷ややかさと白色電燈特有のあの感じと相まってイヤに病棟だとかを連想させて仕方がなかった。一瞥すると、あの男が影に潜んで、嗚呼やはり、サスペンスだ。と、そう思った。

 例えばそれは、妙な緊張だった。君はいつとは無しに発狂した。「わた、しが。わたし、なんで・・・ふぅ、・・・だいじょうぶ、だいじょうぶだいじょうぶだいじょぶ・・・(以下繰り返し)」。君は次第に衰弱して行き、やがて、「あっ、ア、あッ、あ」とだけえずいていた。私は寄り添うことをし続けた・・・。例えばそれは、鳥居の赤い神社だった。もう幾日の後、祭りが行われる。「う~んとね。実はね。」着物姿の君は美しかった。撫子の花がツタとの綾を(こしら)え、鈍い白の生地、殊に、北の冬鳥のはらの羽毛の鉛白。その色味にまばらな黒が散ると、君の印象はアバンギャルドだ。神社に巣くう前衛だった。「その、ここに君と来よう、なんて思っていました。」私は物静かに聞いていたが、それは何だかもの淋しい心持を胸に一つ感じたから。君は、神様に祈ろうなんて云うが、私はそれに縋ることは出来なかった。拝む君は何を思ったろうか。額から髪が垂れて頭蓋を覆う、もう夕時の暮れ、静かに君を死人では無い一人の女だと思った。静かに思って、じっと淋しかった。樹木の傘に一つ電柱が高い、配線と影はまるで無秩序に、その黒糸の合間に月が白かった。

 そうして、私たちは浜に居る。潮の匂。とうに点いた街灯の明りに虫たちがたかっていた。漆のような夜の闇、波に攫われる砂の多いこと。海の向こうは夜の底が開いていた。君は一人、黒い波にあしを詰めている。

「危ないよ。」と云った。

君は何を言うとも無く、着物の裾を濡らし、撫子を波に揺蕩わせる。それは私には危険なことだと思ったし、すぐに止して欲しかったが、その撫子の着物の濡れを見ていると妙な気の起こるのを感じた。君はじっと動かなかった。大振りきては小振りという波の緩急があれど、君は動かなかった。一寸先の夜の底、君の前には黒い壁があるように思えた。風が強かった。はためいて、夜の底に君は白かった。君は何を思っている?

「・・・花火をしよっか。」そう、君は云った。

 ここへ寄る手前、いくつか種類を物色し少ないながら色の豊かな花火を選んでいた。風の強い夜。いや、夜の海に風の弱かった試しはない。私は足の掬われぬよう、そんなことを心に浮かばせながら波に手を浸す。直後、私を支配したのは妙な不安である。海の切っ先が波として、刺すでもなく、闇の底に曳きずり込む黒い溶岩のような印象。月光の僅かな漏れに、波の始発も見える。この海は黒く、夜の闇により漆黒に浮かんでいた。これらがどうにも私を惹き付けるのだった。

 水の溜めたビニールの(はま)る程の窪みにして、砂の上に二人火をつけ、横倒れの風に悪戦苦闘しながら、君がいつか持っていた朱のライターをかちりと着火するとやすりの辷る感じが私の好みだった。火花のちっと打ち、(かね)で囲ってあるライターで、いかにも高級だった。「盗んだ。」君は云った。どこに仕舞っていたのか。「内緒」と答えた。「そう。」ある種の緊張と危うさと、私の悪心に危うかったが、しかし同時に私は嬉しかった。炎は橙だの赤だの、花火をかざす。そうして私たちは暫く遊んだ。ススキのような火の散れが新緑だったり瑠璃(るり)だったり、しーと火が絞って終いには黄金に落ち着く。ほかの方も良い。木の実をいぶるようなぱちぱちした音に、焼けた銅の青みが開く。傾け、火の垂るその仕草に星水母(ほしくらげ)見做(みな)し、漆黒のすそで二人、火を掛け合った。「あっち!」「冷たいで~す、感じませ~ん」君と私と、馬鹿なことに夢中に遊ぶ。

 線香花火を眺めている。幾本も遊んだ後、残るは二本。盗品のライターを着火し、その火が消えぬようにと身体を寄せあって炎をしのいだ。花火をたらし、橙の火に線香をくべる。玉が生じた。手前に赤く、下に近づいて黄色い、そんな玉が生じた。君は見惚れている。少しすると、しりしりと玉の芽吹きが起こるのだった。冷えた夜に、線香は快かった。君はじっと玉を見つめて、私はふと胸が高鳴った。しかし君の花火は水に終わった、早かった。残り火は爛々(らんらん)と照っている。しりしりと音のよく。辺りは静かだった。いつか風も止んで、夜の闇に波のさざめきが聞こえている。月明りは曇りに隠れて、夜の底はより深くに沈んでいた。君はじっと残り火を見つめる。着物の裾に撫子があって、それが少しだけはだけている。そっと素肌がのぞく。すると私の瞳は潤んでいた。独りの夏に君と出会った思い出が線香の傍で走馬灯のようだった。私は君を好きなのである。君の瞳に黄金の玉がはじけて居る。その投影を見つけると、それは宝珠だと私は思った。そうして淋しさも朗らかに、じっと朗らかに溶けていくのだった。

 もう終いか。そうか。もう終いか。残り、その僅かな残りを見て、そう思う。

「影は無かったね。」私はぽつりと云った。

・・・君はしばらく静かに頷くでもなく、私の方を見ているらしかった。

「あったよ。」しかし君に影は無かった。

どうやら私は泣いているらしい。頬に筋がひっそり引いていた。君は静かであった。私をじっと見つめて居た。二人で見つめ合って、二人の視界の端の角と角とをが重なるように、じっと静か。私は筋を隠すように垂れた花火を眼ほどに上げて、

「好きです。」しりしりしりしりと、線香玉の影は君の心臓に重なっている。まるでそれは命のようで、いつか君には影があるのだった。もう終いだろう。玉は弱くなっていた。夜の浜に淡く揺らいだ。君は袖を抑えながら手をやって、その玉の下に掌を置いた。

「お元気で。」玉が落ちて雫をつかむ。

もう、夜の底は冷え切って居た。波も音を浜に置いては消えていく。月光は微かに雲の隙間から覗かせて私の向かいを照らすのだ。白んだ月はそっけなく。君はひっそり消えているのだった。

 男は立っていた。月明りの下、向かいに黒い塊があったのだ。今宵は風の冷え々々としていた。潮の匂が吹いてきた。男は黒い塊を拾った。そうして黒い塊のあった場所の砂をいっぱいに詰めて行く。丁寧に詰めていって、やがて男は海の先に又立っていた。

 ・・・私は一人、黒い海にあしを詰めている。波の緩急に身体が揺すられ、眼前には夜の底が深かった。されど私は動かなかった。風が吹こうと波が引こうと動かなかった。真暗なこれに君が何を思っていたのか、私は黒い波に期待した。私はしばらく静かであった。そうして私は黒い塊を力なく、この波へと沈めて行った・・・。

 黒い海に砂が攫われている。それは只の砂だったが、それは確かに遺灰だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ