【第7話】王都から届いた不快な招待状。私を捨てた実家が、今さら「連れ戻したい」だなんて冗談はやめてください
嵐の前の静けさというべきか、カステル辺境伯邸の朝は、驚くほど穏やかで甘い空気に包まれていた。
昨夜の宴で、領民たちの前で堂々と「聖女」として崇められ、挙句の果てにジークヴァルトに強引にお姫様抱っこで連れ去られたリーネ。彼女は今、主寝室の豪奢なベッドの上で、身動きが取れずにいた。
「……閣下。あの、もう朝ですわ。お掃除を……お掃除をさせてください」
リーネの背後から、太い腕が回され、逃げ場を塞ぐように抱きしめられている。
ジークヴァルトは、起きてはいるものの、その顔をリーネのうなじに埋めたまま離そうとしない。
「……あと五分。いや、一時間だ。昨夜の宴では、不特定多数の男たちに君を凝視された。私の独占欲がどれほど削られたか、君には理解できないだろうな、リーネ」
「そ、それは皆様、お酒が美味しくなったのを喜んでくださっただけで……っ。あ、苦しいですわ、閣下」
ジークヴァルトは溜息をつき、ようやく腕の力を緩めた。だが、そのまま彼女を解放するのではなく、今度は正面から向き合い、彼女の丸眼鏡をそっと指で直す。
その瞳には、熱を帯びた執着の色が隠しようもなく溢れていた。
「君が淹れるお茶、君が磨き上げた床、そして君が作る食事……。それらすべてが、今の私の命を繋いでいる。……リーネ、君がいない世界など、私はもう一秒たりとも耐えられない」
「……閣下。私、ただの地味な掃除女ですのに、そんなに仰っていただけて……」
リーネが顔を赤くして俯いた、その時だった。
扉の向こうから、ハンスの硬い声が響いた。
「閣下。……お休みを妨げて申し訳ありません。王都より、緊急の使者が参っております」
ジークヴァルトの眉がぴくりと跳ねた。その瞬間に室内の温度が数度下がったような錯覚を覚えるほどの、鋭い魔圧が放たれる。
「……通せ。リーネ、君も同席しろ。おそらく、君に関する話だ」
◆
応接間に現れたのは、見覚えのある紋章を胸に付けた、尊大な態度の使者だった。
エルストリア伯爵家――リーネを「ゴミ」のように捨てた、あの実家の使いだ。
「ジークヴァルト閣下、ご健勝のようで何より。本日は、わが主であるエルストリア伯爵、ならびに王家より、こちらの親書を届けに参りました」
使者はリーネを一瞥すると、鼻で笑うような仕草を見せた。
「……ふん。相変わらず地味で冴えない娘だ。まあよい。リーネよ、喜べ。伯爵様が、お前を実家へ連れ戻してやると仰っている。聖女の力に目覚めたという噂が本当なら、家のために役立てる機会を与えてくださるそうだ」
使者が差し出した手紙。ジークヴァルトがそれを奪い取るように受け取り、封を切った。
隣で内容を覗き込んだリーネは、あまりの身勝手さに目の前が暗くなるのを感じた。
『リーネへ。お前のような無能を辺境伯に嫁がせてやった恩を忘れるな。
噂によれば、お前は浄化の力を持っているそうではないか。実家ではそんな素振りも見せなかった癖に、小癄な真似を。
今、エルストリアの屋敷は原因不明の悪臭と腐敗に悩まされている。妹のセシリアも肌荒れが酷く、泣き暮らしているのだ。
今すぐ王都へ戻り、家の掃除と浄化を命じる。それが、お前を育ててやった親への義務だ。拒否すれば、辺境伯との離縁を王家に申し立てる用意もある。……分かったらさっさと荷物をまとめろ。』
――あまりにも、あんまりだった。
実家にいた頃、リーネは毎日、日の出前から深夜まで掃除をさせられていた。
彼女の無自覚な【洗浄】が結界となり、あの屋敷の清潔と健康を守っていたのだ。
それを「当たり前」だと思い込み、彼女を追い出した途端に屋敷が汚れ、家族が病み始めたというのに、彼らは反省するどころか「掃除しに戻れ」と命令してきたのだ。
「……リーネ。君は、この『泥溜め』に戻りたいか?」
ジークヴァルトの声は、驚くほど静かだった。
けれど、彼の手の中で、厚手の羊皮紙が「みしり……」と音を立てて歪んでいる。
「……いいえ。私は、帰りたくありません。あの場所には、私を必要としてくれる人は一人もいませんでした。私は、ここで閣下のお掃除をしていたいんです」
リーネの小さな、けれど確固たる意志。
それを聞いた瞬間、ジークヴァルトの周囲でバチバチと黒い稲妻が弾けた。
「……聞いたか、使者。私の妻はこう言っている」
「な、何を仰る! これは王家も関与している話ですぞ! 聖女の力は国の宝。一辺境伯が独占して良いものではない! さあ、リーネ、今すぐこちらへ……っ!」
使者がリーネの腕を掴もうと、手を伸ばした。
その指がリーネに触れる寸前――。
――ドォォォォン!!
凄まじい衝撃波が応接間を駆け抜け、使者は背後の壁まで吹き飛ばされた。
ジークヴァルトが立ち上がり、リーネの前に立ちはだかる。その背中からは、かつて戦場を支配した「死神」の、冷徹で圧倒的な殺気が溢れ出していた。
「……汚らわしい手で、私の光に触れるな。……離縁だと? 王家が命じようが、神が命じようが、リーネを渡すつもりはない。彼女を『無能』と蔑み、道具として呼び戻そうというその傲慢さ……万死に値する」
ジークヴァルトは、手元に残った親書を軽く握り込んだ。
次の瞬間、紙は灰にさえならず、因果そのものを消滅させるような黒い炎に包まれ、無へと帰した。
「ハンス。この無礼者を今すぐ庭へ放り出せ。……そして、王都へ伝令を。カステル辺境伯ジークヴァルトが、妻リーネを侮辱したエルストリア伯爵家に対し、正式に抗議、および絶交・絶縁を宣言すると。……それから」
ジークヴァルトは床に這いつくばる使者を、氷のような視線で見下ろした。
「……次にリーネの名をその汚い口で呼んでみろ。その瞬間、エルストリアの領地ごと、この世から消し去ってやる」
使者は悲鳴を上げながら、腰を抜かして這うように部屋から逃げ出した。
静寂が戻った部屋で、ジークヴァルトは深く息を吐くと、震えるリーネを優しく、けれど壊れ物を扱うような慎重さで抱き寄せた。
「……怖がらせて済まない。だが、これだけは覚えておいてくれ。君はもう、誰のものでもない。私の妻であり、この地の主人だ。君を傷つける者は、たとえそれが血を分けた家族であろうと、私は容赦しない」
「閣下……。ありがとうございます。でも、王都の方々が怒ってしまったら……」
「構わない。むしろ好都合だ。……いい機会だ、リーネ。君の素晴らしさを理解できず、君を虐げた連中に、自分たちが何を失ったのかを……骨の髄まで分からせてやろう」
ジークヴァルトは、彼女の額にそっと唇を寄せた。
その瞳に宿る熱い決意。それは、愛する者を守る騎士の誓いであり、同時に、宝物を独占しようとする王の欲望でもあった。
「……王都へ行く準備をしろ、ハンス。ただし、リーネが『帰る』のではない。私が、私の宝を世界にお披露目しに行くのだ。……最高級のドレスと、最高の護衛を整えろ」
こうして、地味な掃除女だったリーネを巡る争いは、辺境の屋敷を飛び出し、王都全体を巻き込む大きな嵐へと発展していくことになった。
一方、王都のエルストリア伯爵邸では。
リーネが去ってからというもの、銀食器は瞬く間に黒ずみ、噴水からは泥水が湧き、美しいはずの庭園には不気味なキノコが繁殖し始めていた。
「お姉様さえいれば、こんなことには……っ!」と叫ぶ妹セシリアの顔には、隠しようのない大きな吹き出物がいくつも浮かび、彼女が誇っていた美貌は見る影もなくなっていたが――それは、彼らがリーネという「祝福」を自ら捨てたことによる、当然の報いでしかなかった。




