【第6話】領地の快気祝いで、安酒を最高級の神酒に変えてしまいました。騎士団の皆様、跪くのはやめてください!
カステル辺境伯領の領都は、かつてない熱狂に包まれていた。
「死神」の呪いに打ち勝ち、奇跡の復活を遂げた主、ジークヴァルト・フォン・カステルの快気祝いが執り行われることになったからだ。
広場には大きな焚き火が焚かれ、山盛りの料理と、領民たちに振る舞われるための大量の樽酒が運び込まれている。
「リーネ。……本当に、その格好で行くつもりか?」
屋敷の玄関ホールで、ジークヴァルトが苦虫を噛み潰したような顔でリーネを見下ろしていた。
今日の彼は、黒銀の正装に身を包み、非の打ち所がないほどに苛烈な美貌を放っている。対するリーネは、淡い鼠色の、装飾のほとんどない地味なドレス姿だった。
「はい。私は地味な掃除女ですから、目立たないのが一番ですわ。あ、でも、ハンスさんに止められたので、あの【魔導銀の箒】は置いてきました。代わりに、これを持っていきますね」
リーネが自慢げに掲げたのは、実家から持ってきた古ぼけた真鍮のブローチだった。
しかし、それはリーネが昨晩、【洗浄】の魔力で一晩中磨き上げたものだ。彼女の『神域の純浄』をたっぷり吸い込んだその安物は、今や伝説の白金をも凌駕する、神々しいまでの純白の輝きを放っていた。
「……リーネ。君は『地味』の意味を履き違えていないか? そのブローチ一つで、王都の公爵夫人が卒倒するほどの魔力が溢れているのだが」
「えっ? ただ、汚れを落としただけですよ? さあ、閣下、皆様がお待ちですわ!」
困惑するジークヴァルトの手を引き、リーネは元気よく宴の会場へと向かった。
◆
会場に到着した瞬間、数千人の領民と騎士たちの視線が二人に注がれた。
凛々しく、圧倒的な存在感を放つ辺境伯。そしてその隣で、控えめに、けれど不思議な清涼感を纏って微笑む地味な少女。
「おお……! あれが、閣下を救ったという奥方様か……!」
「なんて清らかなお方だ。見ているだけで、長年の腰痛が楽になる気がするぞ……!」
ざわめきが広がる中、ジークヴァルトはリーネの腰を強く引き寄せ、周囲を威圧するように低い声で挨拶をした。
「皆、よく集まってくれた。私がこうして再び剣を取れるのは、隣にいる私の妻、リーネのおかげだ。今日は無礼講だ、存分に楽しんでくれ」
歓声が上がり、宴が始まった。
リーネはジークヴァルトの隣の席で大人しくしていようとしたが、職業病がそれを許さなかった。
「あら……。あちらのテーブル、お酒がこぼれて汚れていますわ。拭かなくては」
「リーネ、君がやる必要はないと言っているだろう!」
ジークヴァルトの制止も聞かず、リーネは「ついでですから」と会場を回り始めた。
彼女が歩くたびに、雑踏の埃っぽさが消え、会場の空気が澄んでいく。
そして彼女は、配給用の安価なワインの樽が並ぶ一角に通りかかった。
「……うう、酸っぱい。今年の冬は寒かったからな、酒の出来が悪いのは仕方ないが……」
顔をしかめて安酒を飲む負傷兵の騎士たちの姿が、リーネの目に留まった。
かつてジークヴァルトの部下として戦い、体に傷を負った者たちだ。彼らの不自由そうな手足を見て、リーネの胸が痛んだ。
(お掃除のついでに、少しだけ『不純物』を取り除いてあげましょう)
リーネは、大きな酒樽にそっと手を触れた。
心の中で「雑味を消して、清らかに」と念じながら、微弱な【洗浄】を流し込む。
――その瞬間。
樽の中から、シュアァ……と小さな音が響き、芳醇な、あまりにも芳醇な「果実と太陽の香り」が周囲に爆発的に広がった。
「な、なんだ!? この信じられない香りは……っ!」
驚いた騎士が、樽から溢れた酒を一口含んだ。
次の瞬間、彼は目を見開き、その場に固まった。
「美味い……! なんだこれは、王室御用達のヴィンテージを遥かに超えている! いや、それだけじゃない。身体が……身体が熱いぞ!?」
彼の腕に刻まれていた古い傷跡が、リーネの浄化魔力を吸い込んだ酒によって、みるみるうちに薄くなっていく。
魔力回路が活性化し、衰えていた体力が劇的に回復していく感覚に、騎士は叫んだ。
「奇跡だ! この酒を飲んだら、動かなかった指が動くようになったぞ! 奥方様……奥方様が、お酒を神酒に変えてくださったんだ!」
その声を聞きつけ、他の騎士や領民たちも次々とリーネの元へ押し寄せた。
リーネは「いえ、ただ不純物を抜いただけですから」と困惑するが、彼女の行く先々で、安酒が最高級の美酒に変わり、病人が快復していく。
「リーネ様! 我が家の赤子の咳が止まりました! ありがとうございます!」
「聖女様だ……! カステル領に、本物の聖女様が降臨されたぞ!」
広場にいた数千人が、一斉にリーネに向かって跪き始めた。
「カステル領の聖女様万歳!」という地鳴りのような咆哮が響き渡る。
そんな中、ジークヴァルトの堪忍袋の緒が、ついに音を立てて切れた。
「……もう限界だ」
凄まじいプレッシャーを放ちながら、ジークヴァルトがリーネの元へ歩み寄る。
跪く人々を割り込み、彼はリーネの細い肩を抱き寄せると、そのままひょいと軽々と彼女を横抱き――お姫様抱っこにした。
「ええっ!? 閣下、皆様が見ておられますわ!」
「黙れ。……これ以上、君を他の奴らの目に晒したくない。君が微笑むだけで、この領土の男たちが全員君に心酔していくのを、黙って見ていられるほど私は寛容ではないんだ」
ジークヴァルトの瞳は、これまでにないほど深く、暗い独占欲の色に染まっていた。
彼は跪く騎士たちを冷徹な視線で射抜くと、宣言した。
「酒はいくらでも飲め。だが、私の妻を拝むのはそこまでだ。……リーネは私のものだ。彼女の微笑みも、その力も、一滴たりとも他人に分かつつもりはない」
ジークヴァルトはそのまま、赤面してバタつくリーネを抱えたまま、宴の主役でありながら足早に屋敷へと戻ってしまった。
翌朝。
この「奇跡の宴」の噂は、商人のキャラバンを通じて、風よりも速く王都へと運ばれていった。
「死神辺境伯の妻は、泥水を神酒に変える聖女である」
「彼女が歩く道には、枯れ木に花が咲き、病人は一瞬で癒える」
その噂を、王都の薄暗い屋敷で、歯噛みしながら聞いている者たちがいた。
リーネの実家、エルストリア伯爵家の人々だ。
「……そんな馬鹿な。あのゴミ溜めに捨てた無能な女が、聖女だと? ……何かの間違いだ。だが、もし本当なら……」
リーネを「役立たず」と切り捨て、今や自分たちの屋敷が「原因不明の悪臭と腐敗」に悩まされている彼らは、邪悪な考えを巡らせ始めた。
自分たちが捨てた「宝」を、力ずくで取り戻そうという、愚かな計画を。
だが、彼らはまだ知らない。
今のジークヴァルトが、リーネを一秒でも奪おうとする者に対して、どれほど慈悲のない「死神」へと変貌しているのかを。




