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【最終話】汚れなき世界のその先で。……閣下、あちらに少し埃(天使)が跳ねておりますわ!

 魔導帝国の「大いなる冬」がリーネの手によって洗い流され、世界が本来の輝きを取り戻してから、数年の月日が流れた。

 かつて「死神の領地」と恐れられたカステル辺境伯領は、今や大陸全土から「地上の楽園」あるいは「現世の聖域」と称えられ、巡礼者が絶えない憧れの地となっている。

 一歩その境界を越えれば、空気はクリスタルのように澄み渡り、街道の石畳は毎日磨き上げられたように白く輝き、道端に咲く名もなき花々でさえも、浄化の魔力を吸い込んで宝石のような雫を湛えている。


 だが、その伝説の聖域の主であるリーネの日常は、数年前と何ら変わることはなかった。


「……ふぅ。今日も、とってもお掃除日和ですわ。閣下、見てください。あちらの噴水の水しぶきに、虹が三つもかかっていますわ」


 朝の光が差し込む本邸のテラス。

 リーネは、お気に入りの「最高級・白銀熊のブラシ」を手に、手すりの僅かな曇りを見逃さずにキュッキュと磨き上げていた。彼女の纏うドレスは、かつての地味な灰色から、ジークヴァルトが贈った清廉な白へと変わっていたが、その腰には相変わらずお掃除用のエプロンが誇らしげに結ばれている。


「……リーネ。朝から根を詰めすぎるなと言っただろう。……君が磨かなくても、この領地には塵一つ落ちていないというのに」


 背後から、低く甘い声が響く。

 ジークヴァルトは、かつての刺々しい殺気を完全に「浄化」され、今や大人の男としての深い余裕と色香を纏っていた。彼はリーネを背後から包み込むように抱き寄せ、その細い腰に腕を回すと、当然のように彼女のうなじに顔を埋めた。


「閣下、またそう仰って。……お掃除は、汚れているからするものではありません。……綺麗であり続けるために、毎日心を込めて磨くことが大切なのですわ。……それに、あちらを見てください」


 リーネが慈しむような眼差しで指差した先。

 美しく整えられた庭園の芝生の上で、銀色の髪をなびかせ、黄金の瞳をキラキラと輝かせた小さな男の子が、一生懸命に何かを追いかけていた。

 ジークヴァルトとリーネの間に生まれた第一子、アルベルトである。


「たあーっ! よごれめ、かくごー!」


 幼いアルベルトの手には、リーネが特注で作らせた「小さなマイ・ブラシ」が握られていた。彼は母親譲りの真面目な顔で、石像の足元に付いた小さな土を、一生懸命にゴシゴシと擦っている。


「……ふん。あいつは、私よりも君に似てしまったな。……庭の石像を相手に一時間も格闘するとは、将来が思いやられる」


 ジークヴァルトは溜息をつきつつも、その瞳には隠しきれない親バカな愛情が滲んでいた。……が、すぐにその視線は険しくなる。


「……だが、リーネ。アルベルトが掃除に夢中になっている隙に、私と二人で茶を飲もう。……最近、あいつに君の時間を奪われすぎている。……私の妻を、息子といえど独占させるわけにはいかない」


「閣下、ご自分の息子さんに対抗意識を燃やさないでください。……もう、相変わらず過保護なのですから」


 リーネは顔を赤らめながらも、ジークヴァルトの腕の中で幸せそうに微笑んだ。

 彼らの愛は、数年前よりもずっと深く、そして磨き上げられた鏡のように、お互いの存在を鮮明に映し出し続けている。


 ◆


 そこへ、空から巨大な白い影が舞い降りてきた。


「キュイイイッ!!」


 それは、今やカステル領の「守護聖獣」として、空を飛びながら空気中の不純物を吸い込み続けている魔獣ホコリだった。成長して巨大な雲のようになったホコリは、テラスにふわりと着地すると、リーネに甘えるように大きな頭を擦り付けた。


「ふふ、ホコリちゃん。今日もお空のお掃除、ご苦労様でした。……おやつに、浄化の金平糖を差し上げますわね」


 リーネがホコリを労っていると、門の方から賑やかな声が近づいてくる。


「師匠――っ! ただいま戻りましたわ!」


 馬車から飛び出してきたのは、世界中に「お掃除支部」を設立し、聖女の知恵を広める旅を続けている弟子ノアだった。彼女は今や、各国の国王からも畏怖される「お掃除導師」となっていたが、リーネの前では以前と変わらぬ、一人の熱烈な信奉者の顔に戻る。


「ノア様! おかえりなさい。……あら、旅路でお靴が煤けていらっしゃいますわ。……さあ、中へ入って、まずはお洗濯から始めましょうか」


「はい、師匠! ……ああっ、このカステル領の空気! やはりここが世界で一番スッキリいたしますわ!」


 ノアの到着に、老執事ハンスや老庭師バルトも顔を出し、本邸は一気に活気づく。

 引退を勧めても「掃除と庭いじりが生きがいですぞ!」と断固拒否した二人は、今もなお現役で、リーネの「お掃除王国」を支える大黒柱として元気に働いている。


 ◆


 夕暮れ時。

 賑やかな晩餐を終え、再びテラスに立ったリーネとジークヴァルト。

 二人の間には、遊び疲れてリーネの膝で眠ってしまったアルベルトが、小さなブラシを抱きしめたまま幸せそうな寝息を立てている。


 目の前に広がるカステル領の夜景。

 それは、リーネがかつて夢見た、汚れ一つない、誰もが安心して深呼吸できる「ピカピカの世界」の縮図だった。


「……閣下。世界は、こんなに綺麗になりましたわね。……私が最初にここへ来た時は、あんなに真っ暗で、煤けていたのに」


「……ああ。……すべては、君が諦めずに磨き続けてくれたからだ。……リーネ。君が私の呪いを解き、屋敷を洗い、世界を洗濯した。……だが、君が一番綺麗にしてくれたのは、私の……私の、凍りついていた心だったのだと思う」


 ジークヴァルトは、リーネの隣に座り、彼女の肩を抱き寄せた。

 

「……君と出会わなければ、私は今頃、泥の中で死んでいた。……リーネ。君のいない世界など、私にとってはただのゴミ溜めだ。……愛している。……これからも、ずっと」


「……閣下。……私、お掃除のプロとして、閣下の心が二度と煤けないように、一生かけて磨き続けますわ。……あ、でも、閣下のその独占欲という名の『しつこい汚れ』だけは……落とすのに苦労しそうですけれど」


「……フン。それは永久に落ちない汚れだと、覚悟しておくがいい」


 ジークヴァルトは、リーネの唇に、甘く、そして深い接吻を落とした。

 月明かりの下、二人の影が一つに重なり、そのシルエットは、磨き上げられたテラスの床に美しく反射している。


 地味な掃除女が、最強の死神の心を救い、世界の不浄を丸洗いした物語。

 その伝説は、今や「お掃除聖典」として世界中に広まり、人々の暮らしを、心を、そして未来を照らし続けている。


 だが、リーネにとって、一番大切なものは何も変わっていない。

 愛する人の隣で、朝日に向かって雑巾を絞ること。

 夕暮れに、磨き上げた窓から星を眺めること。

 そして、汚れを見つけたら、世界一幸せそうに笑って、「お掃除しましょう!」と叫ぶこと。


「……閣下。明日も、最高のお掃除日和になりそうですわね」


「……ああ。……一生、君の隣で箒を持とう」


 汚れなき世界のその先で。

 二人の愛は、これからも、いつまでも。

 一秒ごとに新しく、一分ごとに清らかに。

 永遠に、ピカピカに磨かれながら、続いていくのであった。


【お掃除聖女の溺愛内政・完結】


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