【第5話】死神辺境伯様の完全復活。お礼にいただいた「お掃除道具」が、一国を買えるほどの国宝級魔導具だった件について
カステル辺境伯邸に、かつての覇気が完全に戻った。
主であるジークヴァルト・フォン・カステルが、呪毒の淵から奇跡の生還を果たし、執務に復帰したからだ。
かつて「死神」と忌み嫌われた瘴気はどこへやら、今の屋敷はリーネの【洗浄】によって常に清らかな空気が満ち、窓ガラスの一枚に至るまでダイヤモンドのように光り輝いている。
「閣下! これまでの滞っていた案件、すべて決裁をお願いいたします!」
「騎士団の訓練メニューも、以前の三倍に戻していただきたく!」
執務室に集まった家臣たちは、皆、感極まった表情でジークヴァルトを仰ぎ見ていた。
デスクに座るジークヴァルトは、まだ少し体つきが細いものの、その背筋は鋼のように伸び、ペンを走らせる指先には迷いがない。包帯の取れたその美貌は、冷徹なまでの威厳と、どこか神聖な色気を帯びていた。
「……ハンス。会議を中断しろ。それよりも重要な案件がある」
ジークヴァルトが唐突にペンを置き、真剣な面持ちで執事のハンスを見上げた。家臣たちは「敵国の侵攻か?」「王都の政変か?」と身構える。
「……リーネへの『お礼』だ。彼女が最も喜ぶものは何だ? 宝石か? ドレスか? それともエルストリア伯爵家を今すぐ物理的に消滅させることか?」
「閣下、最後のはお礼ではなく復讐ですな。……リーネ様は、宝飾品にはあまり興味を示されないご様子。昨日も『この雑巾、もうボロボロで使いやすいですわ』と、穴の開いた布を愛おしそうに眺めておられました」
ジークヴァルトは、その言葉に胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
実家でどれほど過酷な扱いを受けてきたのか。まともな掃除用具さえ与えられず、指先を荒らしながら泥を拭っていた彼女の姿を想像し、彼は静かに怒りの魔力を漏らした。
「……分かった。世界中から、最高級の『道具』を揃えろ。彼女が、二度とボロボロの布など使わなくて済むように」
◆
その日の午後。リーネは相変わらず、裏庭でバケツと格闘していた。
彼女にとって、掃除は呼吸と同じだ。汚れた場所を綺麗にすると、心まで洗われるような気がする。それに、自分が磨いた場所でジークヴァルトが快適に過ごしてくれることが、今の彼女にとって何よりの喜びだった。
「リーネ。少し手を休めてくれないか」
聞き慣れた、心地よい低音が響く。
振り返ると、そこには豪華な木箱を抱えたジークヴァルトが立っていた。
「あ、閣下。お仕事はよろしいのですか?」
「君に渡したいものがあってな。……これを受け取ってほしい。君の献身に比べれば、あまりに地味な贈り物だが……」
ジークヴァルトが差し出した箱を、リーネはおそるおそる開けた。
中には、鈍い銀色の輝きを放つ【箒】と、透き通った青い結晶が埋め込まれた【バケツ】が収められていた。
「わあ……! なんて綺麗な……。でも閣下、私のような地味な者に、こんなに立派な……」
「地味ではない。これは、伝説の魔導職人が『星の銀』を叩き出して作った【魔導銀の箒】だ。そしてそのバケツは、底から無限に浄化水が湧き出る【聖樹の器】。君の【洗浄】の魔力と共鳴し、君の負担を最小限にするために選んだ」
リーネは、目を丸くした。
実はこの二品、王国の王宝に匹敵するほどの国宝級アイテムだ。一つで城が買えるほどの価値があるのだが、ジークヴァルトはそれを「地味な道具」として平然と妻に贈ったのだ。
「私、こんなに素敵な道具、初めて見ました……っ! ありがとうございます、閣下! さっそく試してもよろしいですか?」
宝石をもらった時よりも、ずっと輝く笑顔。
ジークヴァルトはその眩しさに目を細め、彼女の頭を愛おしそうに撫でた。
「ああ。君の好きに使うといい。君の『お掃除』は、私の誇りだからな」
リーネがさっそく【魔導銀の箒】を手に取り、庭の石畳をサッと掃いた。
その瞬間――。
キィィィン、という清澄な音が響き、箒の先から純白の粒子が舞い上がった。
リーネの【神域の純浄】が魔導具を介して増幅され、ただの掃除が「広域浄化儀式」へと変貌したのだ。
掃いた場所から汚れが消えるだけでなく、石畳の隙間にこびりついていた数十年分のおぞましい魔力の残滓が蒸発していく。さらには、リーネの魔力を浴びた庭の木々が一斉に芽吹き、季節外れの美しい花を咲かせ始めた。
「あら、とっても軽い力で綺麗になりますわ! ハンスさん、見てください! このバケツの水、とっても清らかで、触れるだけで疲れが取れるみたいです!」
リーネが【聖樹のバケツ】から汲んだ水で窓を拭くと、その水滴が飛んだ先の使用人たちの、長年の悩みだった神経痛が次々と癒えていく。
庭を通りかかった騎士団の面々も、「なんだ、この信じられないほど清々しい空気は……!」と、深呼吸を繰り返している。
辺境伯邸は、もはやただの屋敷ではなく、国を救うレベルの「聖域」へと作り替えられてしまった。
「……リーネ。君は、自分が何をしているか分かっているのか?」
あまりの光景に、ジークヴァルトが呆然と呟いた。
彼は彼女に楽をさせたかっただけなのだが、結果として彼女は、この屋敷を世界で最も安全で、かつ魔力の高い「パワースポット」に変えてしまったのだ。
「えっ? はい、いつもより丁寧にお掃除をしていますけれど……。何か、やりすぎましたか?」
小首をかしげるリーネ。その丸眼鏡の奥の瞳は、どこまでも澄み切っていて、下心など微塵も感じられない。
ジークヴァルトは、降参したように溜息をつくと、彼女を背後からそっと抱きしめた。
「いや、いい。君が楽しければ、それでいいんだ。……ただ、これからは外で掃除をする時は、必ず護衛をつけさせてくれ。君のこの力を見れば、どんな野心家でも君を奪おうとするだろうからな」
「護衛? ただのお掃除に、ですか?」
「ああ。君は無自覚すぎる。……いいか、リーネ。君は私の光だ。この光を誰にも渡したくないと思うのは、独占欲が強すぎるだろうか?」
ジークヴァルトの低い声が耳元で囁かれ、リーネの頬が林檎のように赤く染まる。
実家では「汚らわしい」とさえ言われていた自分の手が、今はこんなに大切に握られている。
「……閣下がそう仰るなら、私、ずっと閣下の側でお掃除を続けます」
「掃除だけでいいのか? 私は、もっと君と……夫婦らしい時間を過ごしたいと思っているのだが」
ジークヴァルトの手が、彼女の腰をぐいと引き寄せ、密着させる。
彼の心臓の鼓動が背中に伝わり、リーネは自分が淹れるお茶よりも熱くなっていくのを感じた。
その頃、王都のエルストリア伯爵家では、リーネがいなくなったことで「屋敷が急速に汚れ、原因不明の病が流行り始める」という異変が起き始めていた。
彼女がいたことで保たれていた「結界」が消えたことの恐ろしさを、彼らが知る日は、もうすぐそこまで迫っていた。




