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【第49話】最高のお掃除日和。……陛下、救世主の称号より、最高級の箒をいただけますか?

 世界を揺るがした「森羅万象大洗濯」から、数日が経過した。

 魔導帝国の呪雪は跡形もなく消え去り、大陸全土には数千年ぶりとなる、一点の濁りもない蒼穹が広がっている。カステル辺境伯領の境界に架かった七色の月虹は、今やこの地の恒久的な平和の象徴として、夜ごと優しく領民たちを照らし出していた。


 だが、その「平和すぎる」結末は、別の意味での騒乱をカステル領にもたらしていた。


「……閣下。あの、門の外に並んでいらっしゃる皆様は、どなたかしら? あんなに立派な馬車を連ねて……。街道にわだちができて、お掃除が大変そうですわ」


 本邸のテラスから遠見の魔導具を覗き込み、リーネは丸眼鏡を指で押し上げながら、困ったように眉をひそめた。

 そこには、隣国ロザリア王国の国王を筆頭に、各地の諸侯や教会の高官たちが、目も眩むような金銀財宝を積んだ馬車と共に、長蛇の列を作っていた。彼らの目的はただ一つ。世界を不浄から救った「真の聖女リーネ」に拝謁し、その加護を我が国に、我が一族にと請い願うためであった。


「……気にするな、リーネ。ただの『招かれざる不純物』だ。ハンスには、一律で『奥様はお掃除の最中につき、拝謁は百五十年後まで予約で埋まっている』と伝えさせてある」


 ジークヴァルトは、テラスの椅子に座るリーネを背後から包み込むように抱き寄せ、その首筋に顔を埋めた。

 世界が浄化され、彼の内側にあった破壊の衝動は消え去った。だが、その代わりに肥大化したのは、リーネという唯一無二の光を誰にも触れさせたくないという、もはや病的なまでの独占欲であった。


「……だが、国王自らが門を叩いている以上、一度は顔を出さねば収まらんか。……ハンス、通せ。ただし、滞在時間は一分だ。それ以上は、私が物理的に『掃き出す』」


 ◆


 数刻後、応接間に現れたロザリア国王は、リーネの姿を見るなり、王冠を脱ぎ捨ててその場に跪いた。


「……おお、聖女リーネ様! 貴女こそはこの星の恩人、生ける女神であらせられる! 我が国は貴女に無限の感謝を捧げたい。王位でも、領土でも、あるいは国庫のすべてを投げ打ってでも、望むものを何でも仰っていただきたい!」


 国王の熱烈な言葉に、周囲の貴族たちも一斉に平伏した。

 だが、リーネは当惑したようにジークヴァルトの顔を見上げ、それから国王に向かって、申し訳なさそうに、けれど凛とした声で答えた。


「国王様。……そんなに頭を下げては、せっかくの綺麗な床に、お帽子の埃が落ちてしまいますわ。……私、王位も領土も、必要ありません。……もし、本当にお礼をしてくださるのなら……」


「何なりと! 伝説の宝具か、あるいは不老不死の薬か!?」


「いいえ。……世界中の職人様が作った、一番しなやかで丈夫な『最高級の箒』を、百本ほどいただけますでしょうか? それから、お掃除の時に髪をまとめるための、丈夫な麻の布も。……あとは……」


 リーネは少しだけ頬を染め、ジークヴァルトの大きな手をそっと握った。


「……このカステル領で、閣下と、家族の皆様と、お掃除の行き届いた静かな時間を過ごせれば……。私には、それ以上の報酬はありませんわ」


 静寂が、応接間を支配した。

 世界を救った大英雄が、王位を蹴って求めたのが「百本の箒」。

 あまりにも無欲で、あまりにも「お掃除バカ」なその答えに、国王は呆気にとられ、やがて噴き出すように笑い、そして涙を流した。


「……ははっ、はははは! 左様でございますか。……貴女様は、どこまで行っても、我々の想像を遥かに超える『お掃除の聖女』なのだ。……承知いたしました。世界最高の箒を、千本用意させましょう!」


「まあ! 千本も! ……ハンスさん、物置の増築をお願いしなくてはいけませんわね!」


 リーネが嬉しそうに微笑む横で、ジークヴァルトは「……五百本で十分だ。残りは王都の掃除にでも使え」と、相変わらずの冷徹さで釘を刺すのを忘れなかった。


 ◆


 数日後。別邸の裏庭では、旅立ちの準備が進められていた。

 弟子となったノアが、旅装に身を包み、その手には厚い一冊の魔導書を抱えていた。その表紙には、『リーネ流・森羅万象お掃除聖典クリーニング・バイブル』と刻まれている。


「師匠……。私は、この本を携えて、世界中を巡ります。……帝国のような『淀み』が二度と生まれないよう、人々の心に、そして生活に、師匠のお掃除の知恵を広めて参りますわ!」


 男装を解き、一人の誇り高き女性として自立したノアの瞳には、かつての迷いは微塵もなかった。


「ノア様……。寂しくなりますわね。……でも、道中でお道具が汚れたら、いつでも戻ってきてくださいね。……このシャンプーの予備、持っていってください。自分を磨くことも、お掃除の第一歩ですから」


「はい! 師匠……大好きですわ!」


 ノアは、感極まってリーネを抱きしめた。

 その瞬間、ジークヴァルトの「……三秒だ。離れろ」という殺気が飛んだが、ノアは笑ってそれをかわし、真っ白な毛並みを輝かせた魔獣ホコリの頭を撫でた。


「キュイッ!」


 ホコリは、カステル領の「守護獣兼・広域空気清浄担当」として、この地に残ることになった。彼はリーネの足元に体を擦り付け、これからもこの地の空気をピカピカに保つことを約束するように鳴いた。


 ◆


 夕暮れ。

 ノアの馬車を見送り、ようやく「不純物(客)」のいなくなった屋敷に、静寂が戻ってきた。

 リーネは、磨き上げられ、夕焼けを鏡のように反射するテラスの床を見つめ、満足げに微笑んだ。


「……ふぅ。これでようやく、家族水入らずのお掃除が始められますわね」


「……リーネ。君は本当に、救世主よりも一介の掃除女でいることを選ぶのだな」


 ジークヴァルトが、テラスの椅子に座るリーネを膝の上に乗せ、その細い腰を強く、折れんばかりに抱きしめた。


「はい、閣下。……私、世界を磨くのも素敵だと思いましたが、こうして閣下の側にいられる場所を磨くのが、やっぱり一番幸せですもの」


「……そうか。ならば、生涯をかけて私の心だけを磨き続けてくれ。……あのような有象無象の王族に、君の光を一滴たりとも分けてやるのは、もう真っ平ごめんだからな」


 ジークヴァルトは、リーネの首筋に熱い吐息を吹きかけ、深い独占欲を滲ませた。

 世界から呪いが消え、平和が訪れたとしても、彼の中にある「リーネへの渇望」という名の執着だけは、どんなに浄化されても、磨かれるたびに鋭く、美しく尖っていくようであった。


「……閣下。それは、とっても落としがたい、素敵な『汚れ』ですわ」


 リーネは幸せそうに目を細め、ジークヴァルトの胸に耳を当てた。

 トクン、トクン、と。以前よりもずっと力強く、清らかな鼓動。

 

 地味な掃除女が、世界を丸洗いした物語。

 その「特別な毎日」の幕が閉じ、ここから始まるのは、世界で一番甘くて、そして世界で一番清潔な、「普通の毎日」であった。


「明日も、お掃除日和になりそうですわね、閣下」


「……ああ。……一生、君の隣で箒を持とう」


 二人の影が、夕闇に溶けるように寄り添い合う。

 汚れなき世界で、二人の「真の平和」は、今、最高にピカピカな輝きを放ちながら、明日へと続いていくのであった。


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