【第47話】聖域カステル防衛戦。……閣下、そんなにドロドロなお客様(悪党)は、お庭に入れるわけにはいきませんわ!
極北の遠征から凱旋して数日。カステル辺境伯領は、もはや地上のどの国とも異なる、物理的な「神域」へと変貌を遂げていた。
リーネが本邸の魔力炉に据えた【伝説の洗浄石】の波動は、地脈を伝って領土の隅々にまで浸透し、一歩その境界を越えれば、身体に蓄積された疲労や微細な毒素、果ては心に淀んだ「悪い考え」までもが、春の雪解けのように洗い流されてしまう。
街道の石畳は磨き上げられたように輝き、庭園の花々はリーネの魔力を吸い込んで、夜になれば自ら淡い光を放ち、辺りを清浄な香りで満たしていた。
「……ふぅ。今日も、お空がとっても『スッキリ』していますわ。閣下、見てください。あちらの山脈の稜線まで、お掃除が行き届いているみたいです」
本邸のテラスで、リーネは丸眼鏡を指で押し上げ、満足げに微笑んだ。
ジークヴァルトは、そんなリーネを背後から包み込むように抱き寄せ、そのうなじに顔を埋めた。呪毒から解放された彼の魔力は、今やリーネの浄化の光と溶け合い、カステル領を守る鉄壁の結界の核となっている。
「ああ。……だが、リーネ。あまりに綺麗になりすぎると、その光に惹きつけられる不届き者が現れる。……君の平穏を乱すゴミは、私が一粒残さず消し去ってやろう」
「閣下、それはお掃除ではなくて殲滅ですわ。……でも、ありがとうございます。私、このピカピカなお庭を汚されるのは、絶対に嫌ですもの」
二人の穏やかな語らいを遮るように、突然、領地の境界に設置された警告の魔導鈴が、悲鳴のような音を立てて鳴り響いた。
◆
カステル領の正門前。そこには、清浄な空気とは対極の、おぞましい「ドロドロの塊」が押し寄せていた。
それは、かつてリーネを虐げ、王都から追放された実家の父や、地位を失った汚職司祭バルガス、そして帝国の残党たちの成れ果てであった。
彼らはもはや人の形を保てず、自らの執念と怨念を「汚れ」として実体化させ、黒い泥のような不定形の化物へと変貌していた。
「……リーネ……。……その……光を……我らに……寄越せ……っ!」
「……我らだけが……不潔な泥の中で……苦しむのは……許さぬ……!」
泥の化け物たちは、這いずるたびに聖域の美しい大地を黒い粘液で汚し、枯れ木のような指先で、リーネが磨き上げた門扉を汚そうと手を伸ばしていた。その殺気は、物理的な異臭となって漂い、境界の結界に「不浄のヒビ」を入れようとしている。
「……なっ、なんてこと! 皆様、見てください、あのお行儀の悪さを!」
騎士団と共に駆けつけたリーネは、門の上から眼下の光景を見て、かつてないほど激しい義憤にその小さな拳を握りしめた。
彼女にとって、彼らが「かつての身内」であることや「世界の敵」であることなど、どうでもよかった。
「あんなにドロドロのまま、お掃除もせずに私のお庭に踏み込もうとするなんて……! あんなに不法投棄された悪意を撒き散らして、お掃除をする人の気持ちをこれっぽっちも考えていらっしゃいませんわ! 許せません、絶対に許せませんわ!!」
「師匠、仰る通りです! あんな『頑固な黒ずみ』、一滴残らず中和して差し上げましょう!」
弟子ノアが、新調された「広域散水魔導砲」を据え置き、キリリと法衣の袖を捲り上げた。
その隣では、魔獣ホコリが巨大な綿飴のように膨らみ、空気中の瘴気を吸い込もうと鼻を鳴らしている。
老庭師バルトも、リーネから預かった「浄化の魔力が宿った鍬」を構え、老執事ハンスは予備の聖水バケツを並べて、静かに、しかし冷徹な戦闘態勢を整えていた。
「ハンス、ノア。……そして騎士諸君。……リーネが、あそこを『掃除したい』と仰っている。……異存はないな?」
ジークヴァルトが漆黒の剣を引き抜くと、騎士団から地鳴りのような咆哮が上がった。
「「「奥様の聖域を汚す塵は、一粒残さず掃き出せ!!」」」
◆
泥の軍勢が、ついに境界の結界を無理やりこじ開けようとした、その瞬間。
リーネは、ジークヴァルトに背中を支えられながら、自らの分身とも言える『最高級・超高圧洗浄魔導モップ』を高く掲げた。
「皆様、後片付けは私がいたします。……心ゆくまで、この『不法投棄された悪意』を掃き出してくださいませ!」
「【洗浄・聖域一斉大掃除】!!」
――ズガァァァァァァン!!
リーネがモップをひと振りした瞬間、門の内側から、爆発的な純白の「泡」と「聖水」の激流が溢れ出した。
それは、実家の父たちが放つドロドロの怨念を、分子レベルで包み込み、中和し、物理的に押し流す、至高の洗浄エネルギー。
「ぎゃあああああああ!? 熱い、熱い! 俺の……俺の『汚れ(執念)』が剥がれていくぅぅぅ!!」
「清々しい……なんて清々しいんだ……! 俺はなぜ、こんなに不潔な格好を……っ!」
泥の化物たちは、リーネの放った泡に触れた瞬間、戦う気力さえも「精神的な煤」として洗い流されていった。
だが、彼らが溜め込んできた汚れは、あまりにも深く、しつこい。
洗い流されても、洗い流されても、奥底から新たな「悪意の泥」が湧き出し、リーネの聖域を汚そうと足掻き続ける。
「……まあ。そんなにしつこいのでしたら、こちらも『二度拭き』……いえ、『つけ置き洗い』の覚悟で挑みますわ!」
リーネは、さらに出力を上げるべく、洗浄石の核に全魔力を注ぎ込んだ。
門の前は、もはや戦場ではなく、巨大な「洗濯機」の中のような白銀の渦が巻き起こる。
ジークヴァルトが剣を振るうたびに、泥の巨塊が切り裂かれ、その断面をリーネの泡が即座に洗い清めていくという、完璧な連携。
「ノア様、ホコリちゃん! あちらの隅に隠れている『悪意の食べ残し』を見逃してはいけませんわ!」
「はい、師匠! 吸引、最大出力です!」
「キュイイイッ!!」
ホコリが旋風を巻き起こし、飛散した泥の粒子をすべて吸い取っていく。
カステル領を守るための、最後の大掃除。
それは、世界を救った聖女リーネと、彼女を愛する家族たちが、自分たちの「居場所」を磨き抜くための、最も激しく、そして最も清らかな戦いであった。
泥の軍勢が、リーネのあまりに容赦のない「洗浄」に、少しずつ、けれど確実に形を失い、消滅していく。
彼らが抱えていた数千年の怨念は、リーネの純粋な「お掃除の情熱」の前には、ただの手入れを怠った汚れに過ぎなかったのだ。
「……さあ、皆様。あと少しで、スッキリいたしますわよ!」
リーネの晴れやかな号令が、聖域の空に響き渡る。
カステル領防衛戦。
それは、真の平和を手に入れるための、最後の一拭き。
リーネの手にあるモップは、朝日を反射して黄金色に輝き、迫りくる闇を次々と光の粒子へと変えていくのであった。




