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【第46話】世界を洗ったら神格化されました。……閣下、拝まれるよりお家の汚れを落としたいですわ!

 魔導帝国の心臓部、極北の氷城から「数千年の煤」が消え去ったその翌朝。

 世界は文字通り、一変していた。

 大陸全土を覆い尽くそうとしていた不気味な黒い雲は、リーネが放った究極の浄化の光に押し流されるように四散し、空には数千年ぶりとなる、抜けるような蒼穹が広がった。

 呪いの雪に閉ざされていた極北の地には、温かな太陽の光が降り注ぎ、氷の城は今や、それ自体が巨大なクリスタルの彫刻であるかのように七色の輝きを放ち、周囲の山々を神々しく照らし出していた。


「……ふぅ。閣下、見てください。あんなに遠くの地平線まで、空気が透き通っていますわ。これなら、窓を全開にして換気をしても、お部屋が煤ける心配はありませんわね」


 氷城のバルコニーに立ち、リーネは満足げに深く息を吸い込んだ。

 彼女の背後では、ジークヴァルトが漆黒の外套を羽織り直し、眩しそうに目を細めている。彼の身体を蝕んでいた呪毒の残滓も、昨夜の「お掃除」の余波ですべて消滅し、その肌は健康的な艶を取り戻していた。黄金の瞳はかつてないほど鋭く、そして深い慈しみを湛えてリーネを見つめている。


「ああ。……だが、リーネ。君が世界を磨きすぎてしまったせいで、外は大変なことになっているぞ」


 ジークヴァルトが顎で指し示した先、城の正門前には、どこから聞きつけたのか、周辺諸国の観測魔導師や近衛騎士たちが続々と集結し始めていた。彼らは、昨日まで絶望の源泉だったこの城が、一夜にして「世界で最も神聖な場所」へと変貌したことに驚愕し、その中心にいるであろう「救世主」を一目見ようと、祈りを捧げながら跪いているのだ。


「……奇跡だ。真の女神様が降臨されたのだ!」

「これほど清らかな魔力、人間に扱えるはずがない。……おお、聖女様、我らをお導きください!」


 風に乗って聞こえてくる、熱狂的な称賛の声。

 リーネは「女神様……? 導く……?」と、困ったように首を傾げた。


「皆様、何か勘違いをなさっているのでしょうか。私はただ、あまりに不衛生なゴミ屋敷を、お掃除のプロとして片付けただけなのですが……」


「……その『掃除』が、世界の滅亡を食い止めたのだからな。……リーネ、君は今、名実ともに大陸の頂点に立つ『神』として祭られようとしているんだ」


 ジークヴァルトは、リーネの細い腰を引き寄せ、独占欲を隠そうともせず抱き寄せた。

 彼にとって、リーネが世界を救ったことは誇りであったが、同時に、これほどまでの「光」を世界中の野心家や信者たちに晒してしまったことは、耐え難い苦痛でもあった。


 そこへ、カステル家の老執事ハンスが、困り果てた様子で報告に現れた。


「閣下、奥様。……大変なことになっております。王都の国王陛下、ならびに周辺諸国の元首たちから、同時に緊急の魔導親書が届きました。……『真聖女リーネ様を、我が国の国教の象徴として迎え入れたい。専用の神殿を築き、一生を捧げて奉祀する用意がある』……とのことです」


「……専用の神殿、だと?」


 ジークヴァルトの周囲に、パキパキと空気が凍りつくような冷徹な魔圧が立ち上った。


「私の妻を、冷たい石造りの箱に閉じ込めて、置物のように飾るつもりか。……ふん。国王も、神殿の連中も、まだ分かっていないようだな。……リーネ、君はどうしたい? 王都へ行って、毎日宝石に囲まれ、何千人もの民に拝まれて過ごしたいか?」


「ええっ!? そんな、困りますわ、閣下! 拝まれるお時間があったら、私はお家の汚れを落としたいですもの。それに、神殿はとっても天井が高いですから、埃を落とすのが大変なんです。……私、そんなことより、早くカステル領に帰って、お布団を干したいですわ」


 リーネの、どこまでもマイペースで、けれど切実な願い。

 ジークヴァルトは、我慢しきれないといった様子で、愉しげな笑い声を上げた。


「……くっ、はははは! やはり君は、最後まで私のリーネだな。……良かろう。ハンス、ノア。今すぐ全軍に撤収を命じろ。表彰式も、神殿の招待も、すべて『お掃除の邪魔』だと断ってやる。……使者たちが押し寄せる前に、我らは夜陰に乗じて極北を脱出するぞ!」


「承知いたしました! ……師匠、パッキングは三分で終わらせますわ!」


 弟子ノアが瞳を輝かせて叫び、ホコリ(魔獣)が「キュイイ!」と同調するように跳ねる。

 世界中が彼女を「神」として崇めようとする中、最強の辺境伯一行は、華やかな式典も伝説の称号もすべて投げ出し、静かに極北を去る道を選んだのである。


 ◆


 それから数週間。

 王都からの追手を(物理的に)撒きながら、魔導馬車はついに、緑豊かなカステル辺境伯領の境界を越えた。


「……ああ。帰ってきましたわね」


 窓から見えるのは、リーネが以前に浄化し、今や黄金の麦がたわわに実る美しい農地と、水晶のように透き通ったカステル川の輝きだ。

 領地の入り口では、老庭師バルトが率いる領民たちが、豪華な花輪を持って待ち構えていた。


「おかえりなさいませ、奥様! ……いや、女神様、聖女様!」


「バルトさん、ただいま戻りました! ……でも、女神様だなんて呼ばないでください。私、また皆様と一緒に、この領地を磨き上げるのを楽しみにしていたのですから」


 リーネが馬車の窓から微笑むと、領民たちは「やっぱり、俺たちの奥様だ!」と、王都の人々のような畏怖ではなく、家族を迎えるような温かな歓声を上げた。

 リーネにとって、この「変わらぬ日常」こそが、何よりの救いだった。


 本邸に到着すると、弟のテオドールと妹のミリーが、競い合うように玄関まで走ってきた。


「お義姉様! すごいよ、世界を洗っちゃったんだって!? 新聞に書いてあったよ!」


「お義姉様、ミリーね、毎日お掃除の練習してたの。お義姉様のお手伝い、いっぱいするね!」


「テオドール様、ミリー様……。寂しい思いをさせてごめんなさいね。……あら、でも、テオドール様。そのズボンの膝に、泥の染みがこびりついていますわ。……ふふ。お土産のお掃除道具、さっそく使わなくてはいけませんわね」


 再会を喜ぶ家族たち。その中心で、リーネは既に「次のお掃除」へと意識を向けていた。

 彼女の目には、極北で得た【伝説の洗浄石】の力を使えば、この領地をもっと、もっと素晴らしい「聖域」に変えられる確信があった。


 ◆


 その夜。

 久しぶりに戻った自分の部屋で、リーネは窓から差し込む月の光を眺めていた。

 背後から、温かな体温が重なる。ジークヴァルトが、彼女を包み込むように抱きしめ、そのうなじに顔を埋めた。


「……リーネ。ようやく、騒がしい連中から君を取り戻せた。……世界を救っても、君は私の『地味な掃除女』のままでいてくれるのだな」


「はい、閣下。……私、世界を磨くのも素敵だと思いましたが、こうして閣下の側にいられる場所を磨くのが、やっぱり一番好きですわ」


 リーネがジークヴァルトの手の上に、自分の手を重ねる。

 ジークヴァルトは、その小さな手を強く握りしめ、二度と離さないという誓いを込めて囁いた。


「……これからは、君が望むままに、この領地を磨くがいい。……君が作り出す光の中で、私は一生、君に跪き、君を愛で続けよう。……覚悟しておけ、リーネ。私の独占欲は、君が磨き上げたどんな鏡よりも、しつこく君を映し続けるだろうからな」


「……閣下。それは、とっても落としがいのある、素敵な『汚れ』ですわ」


 リーネは幸せそうに微笑み、ジークヴァルトの胸で目を閉じた。

 

 世界遠征を経て、リーネとジークヴァルトの物語は、再びカステル領というホームグラウンドに戻ってきた。

 だが、安息はまだ早い。

 リーネの放った強大すぎる浄化の力は、領地を「世界一の聖域」へと変容させ、同時に、最後の「汚れ」――聖女の力を独占しようとする強欲な者たちのどす黒い悪意を、この地へと呼び寄せようとしていた。


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