【第44話】氷城への滑走路。……閣下、凍りついた霧(埃)を磨けば、お城まで一滑りですわ!
魔導帝国の本拠地『極北の氷城』。その白銀に輝く巨躯を間近に臨む標高四千メートルの氷原にて、カステル辺境伯騎士団は、帝国の最終防衛網――『絶対零度の霧』の洗礼を受けていた。
それは単なる自然界の冷気ではない。帝国の魔導炉から排出された「使い古された魔力の粒子」が、極低温の空気中で結晶化し、視界を遮る物理的な不純物となって滞留している「死のカーテン」である。
一歩足を踏み入れれば、騎士たちの重厚な鎧さえもが数秒で凍てつき、肺の奥まで入り込んだ「魔力の埃」が呼吸を奪い、生ける氷像へと変えてしまう。
「……前が見えん。ハンス、ノア、進軍を止めろ。無理に進めば、馬たちの脚が氷柱のごとく砕けるぞ」
ジークヴァルトは、馬車の窓を叩く不気味な氷の粒を見つめ、苦渋の決断を下した。彼は自らの熱量魔法を全開にして、霧を焼き払おうとしたが、この霧は「汚れ」を含んだ魔力の塊であるため、熱を加えると逆にドロドロとした黒い蒸気(瘴気)へと変化し、視界をさらに悪化させる性質を持っていた。
だが、その時。ジークヴァルトの腕の中で、何重もの防寒着に包まれて雪だるまのようになっているリーネが、小さく鼻を鳴らした。
「……閣下。なんてこと。この霧、とっても『煤』が混じっていますわ。まるで、冬の朝の窓ガラスにこびりついた、結露と埃の嫌な塊です。……こんなに曇っていては、お城の玄関がどこか分かりませんわ!」
リーネのアメジスト色の瞳には、世界の終末を予感させる絶望の霧など映っていなかった。彼女に見えているのは、あまりに放置されすぎて「窓拭きが必要な、曇りきった世界」の惨状であった。
「……煤、だと? これは帝国の防衛結界なのだぞ、リーネ」
「いいえ。……とっても不潔な、お掃除の怠慢ですわ。……閣下、熱で焼いてはいけません。そんなことをしたら、油汚れが焦げ付いて、もっと落ちにくくなってしまいます! ……ここは『スチーム洗浄』で浮かせてから、一気に磨き上げるのが一番ですわ」
リーネは、着膨れした腕を必死に動かし、収納袋から新開発の『聖なる加熱洗浄モップ』を取り出した。
それは、伝説の洗浄石の熱伝導率を極限まで高めた金色の柄を持ち、先端には「どんな氷も一瞬で蒸発させつつ、汚れだけを吸着する」という特殊な魔導糸が束ねられている。
「ノア様、ホコリちゃん! ボイラー(魔導炉)の温度、最大まで上げてください! ……いざ、極北の大掃除・最終段階ですわ!」
「はい、師匠! スチームの圧力、臨界突破しております! ……皆様、これが師匠の『お掃除の夜明け』ですわよ!」
「キュイイイッ!!」
弟子ノアが魔導散水車の出力を調整し、魔獣ホコリが霧の中の「魔力のカス」を予め吸い取って密度を下げていく。
リーネは、ジークヴァルトに背後から強く抱きしめられ、彼の体温と絶大な魔力をバックアップに受けながら、馬車のタラップに立ち、加熱洗浄モップを地面に走らせた。
「【洗浄・強制解凍】――曇った世界は、根こそぎ磨き落としますわ!!」
――プシュゥゥゥゥゥッ!!
モップの先から、純白の熱い浄化スチームが爆発的な勢いで噴き出した。
絶対零度の霧に触れた瞬間、不純な氷の粒子は一瞬で蒸発し、その後に残った汚れ(呪い)を、リーネのモップが物理的な力で「キュッ!」と磨き上げた。
すると、どうだろう。
一寸先も見えなかった白い闇が、リーネのモップが通った跡から、真っ二つに割れていくではないか。
しかも、リーネが磨き上げた後の地面は、単なる雪原ではなかった。彼女の浄化魔力によって、デコボコだった氷の大地が「原子レベルで平滑化」され、鏡のように滑らかで、一切の摩擦抵抗を感じさせない『クリスタルの滑走路』へと作り替えられてしまったのである。
「……あ、足元が……滑る!? いや、これは……勝手に進むぞ!?」
騎士団の馬たちの蹄が、磨き上げられた氷の道に触れた瞬間、彼らは歩くのを止め、スケートのように滑らかに加速し始めた。
リーネが余計な「摩擦」という名の汚れまで完璧に掃除してしまったため、騎士団はもはや進軍しているのではなく、氷の上を「爆走スライディング」している状態となったのである。
「あら。とっても捗りますわね! ……閣下、皆様の蹄にワックス(浄化オイル)を! このままお城の門まで、一気に滑り込みましょう!」
「……リーネ。君の『お掃除』は、物理法則から『抵抗』という概念さえも掃き出してしまうのだな」
ジークヴァルトは、呆然としながらも、リーネの作り出した「ピカピカの滑走路」の先にある城門を睨みつけた。
通常なら数時間を要する難所。だが、摩擦抵抗を失った騎士団は、まるで光の矢となったかのような速度で、氷の迷宮を、霧を、そして帝国の防衛線を、一瞬で突き抜けていく。
「報告します! カステル軍、想定速度の五百倍で接近中! ……早すぎる、迎撃魔法が間に合いません! ……ああっ、彼ら、止まる気配がありません! ……城門に、城門にそのまま突っ込んできます!!」
城壁の上の帝国兵たちが絶叫する。
リーネが作り出した滑走路は、あまりに「綺麗」すぎて、ブレーキという概念さえも拒絶していた。
「……ふぅ。お外の拭き掃除、これにて完了ですわ!」
リーネがモップをひと薙ぎし、最後の霧を晴らした瞬間。
騎士団は、ピカピカに磨かれた『氷城の正門』の目の前まで、わずか数分で到達した。
急停止しようとした騎士たちが、氷の上で「つるん、つるん」と無様に、しかし軽やかに滑りながら、勢い余って城門を物理的に体当たりでブチ破るという、およそ戦記物にあるまじき突破劇が展開された。
城門の内側に滑り込んだ騎士たちは、あまりの空気の清々しさと、ピカピカに磨き上げられた床の輝きに、「……俺、今、お城を攻めてるんだよな? ……なんだか、最高級のホテルにチェックインした気分だぞ」と、戦意を喪失して呆然としていた。
「……さて、閣下。……ようやくお玄関まで辿り着きましたわ。……あとは、一番の『諸悪の汚れ』を落とすだけですわね」
リーネは、ボロボロになったモップを大切に布で包むと、ジークヴァルトの腕の中で、凛とした微笑みを浮かべた。
彼女の目には、城の奥に潜む皇帝さえも、もはや「世界で一番しつこい、後回しにしていた黒ずみ」にしか見えていなかった。
「……ああ。……リーネ、行こう。……君がこの世界を磨き終えるまで、私の心臓が止まることはない」
ジークヴァルトは、リーネを横抱きに抱えたまま、汚れ一つない城内の回廊へと足を踏み出した。
帝国の『不透過の闇』も、『絶対零度の霧』も、リーネの「家事のロジック」の前では、単なる後回しにされた掃除箇所に過ぎなかった。




