【第42話】王都まるごと洗濯。……国王様、そんなに泣いてはハンカチが煤けてしまいますわ
カステル辺境伯領を出発してから、わずか数日。リーネの「爆速雪かき進軍」は、本来なら数週間を要する隣国『ロザリア王国』の国境を、物理的な光の奔流で突き抜けていた。
ロザリアの王都セント・ロゼに辿り着いた一行を待ち受けていたのは、かつての「花の都」とは程遠い、絶望の深淵であった。
帝国の放つ『大いなる冬』は、この肥沃な平原の都を容赦なく「黒い雪」で埋め尽くしていた。
美しい大聖堂の尖塔は煤に汚れ、広場の彫刻は不気味な黒い塊と化し、王宮の窓は分厚い呪いの氷に閉ざされている。何より、都を歩く人々は皆、寒さと飢え、そして「帝国の呪い」という名の精神的な煤に心を侵され、力なく地面に蹲っていた。
「……閣下。なんてこと。この都、とっても『深刻な換気不足』ですわ」
リーネは、馬車の窓から身を乗り出し、淀んだ都の空気を肺の奥まで感じ取って眉をひそめた。
彼女の目には、都全体を覆う黒い雪が、単なる気象現象ではなく、巨大な「放置された換気扇のフィルター」のように見えていた。
「リーネ、外に出るな。……この都の空気には、帝国の腐敗魔力が飽和している。……ハンス、ノア。騎士団を周囲に展開しろ。……不穏な影は一匹残らず排除しろ」
ジークヴァルトは、リーネを保護するように抱きしめ、凄まじい威圧感を放ちながら馬車を降りた。
そこへ、凍えきった姿のロザリア国王が、数人の近衛兵を連れて震えながら現れた。
「……カ、カステル辺境伯……。そして、救国の聖女様……。おお、よくぞ……よくぞこの死に絶えた都へ。……ですが、既に遅い。……我が都は、帝国の『大いなる冬』に心を折られ、もはや薪も食料も底を突き、明日には……っ」
国王は、その場に膝をつき、嗚咽を漏らした。
だが、リーネはその国王の前に歩み寄ると、収納袋から一枚の清潔な、浄化済みのハンカチを取り出した。
「国王様。……そんなに泣いては、お顔が汚れて、ハンカチが煤けてしまいますわ。……大丈夫です。お掃除をすれば、すべてはスッキリいたしますから」
「お、お掃除……? 聖女様、この世界を覆う呪いを、掃除と仰るのか……?」
「はい。……とっても『頑固な汚れ』ですが、お洗濯できないものなんてありませんわ。……ノア様、ホコリちゃん! 魔導散水戦車、最大出力で展開をお願いします!」
「はい、師匠! 王都全体の水脈と魔力回路、同期完了いたしました! ……いざ、ロザリア王都の大洗濯、開始いたします!」
「キュイイイッ!!」
弟子ノアが戦車のノズルを空へと向け、ホコリ(魔獣)が浄化魔力を増幅させるために巨大な綿飴のように膨らみ、都の空へと飛び上がった。
リーネは【伝説の洗浄石】を組み込んだ『超高圧魔導散水ノズル』を手に取り、都の中心にある大聖堂の頂を見据えた。
「【神域の純浄・王都まるごと大洗濯】!!」
――ズガァァァァァァン!!
それは、もはや魔法という概念を超えた、物理的な「光の水柱」であった。
戦車のノズルから放たれた純白の聖水が、都の空へと突き抜け、そのまま「浄化の雨」となって、セント・ロゼの街全体を優しく、しかし徹底的に包み込んだ。
黒い雪が、一瞬にして光の粒子となって蒸発していく。
石造りの建物にこびりついていた数百年分の煤、そして帝国の呪いが、リーネの放った泡と水によって根こそぎ洗い流され、側溝へと流れ落ちていく。
驚くべきは、水が触れた場所から順に、絶望していた人々の顔色が劇的に改善されていったことだ。
「……あ、温かい。……この雨、とっても温かいぞ!」
「見てくれ! 大聖堂が……大聖堂が、ダイヤモンドのように輝いている!」
住民たちが、驚喜の声を上げて家の外に飛び出してきた。
リーネが「一拭き」するたびに、都のメインストリートからは泥濘が消え、磨き上げられたようなピカピカの石畳が姿を現す。
さらには、帝国の呪雪で枯れていた広場の花壇が一瞬で新緑を芽吹かせ、凍りついていた噴水からは、虹を纏った清流が勢いよく噴き出したのである。
「……ふぅ。これでようやく、お洗濯物が干せる空気になりましたわね」
リーネがノズルを下ろし、額の汗を拭うと、そこには帝国の呪いなど微塵も感じさせない、文字通り「洗い立ての世界」が広がっていた。
ロザリア国王は、変わり果てた美しい都を呆然と見つめ、やがてその場に平伏して号泣した。
「……奇跡だ。……一晩で、一晩で我が国が蘇った……っ! 聖女様、貴女こそが……この汚れた世界を救う、真の天遣様だ……!」
国王だけでなく、騎士も、市民も、誰もがリーネに向かって膝をつき、祈りを捧げ始めた。
彼らにとって、リーネはもはや「隣国の客」ではなく、魂を磨き上げてくれた唯一無二の救世主であった。
しかし、ジークヴァルトは、その称賛の嵐に背を向け、リーネを強引に抱き寄せた。
「……リーネ。君は今、一国の運命を『お掃除』してしまったのだ。……国王。感謝するなら、今すぐ私の妻に最高の温かい茶と、乾いた服を用意しろ。……それから、あそこにまだ『磨き残し(隠れた敵の気配)』があるな。……掃き溜めに戻る準備はできているか?」
ジークヴァルトの鋭い視線の先。都の浄化に耐えきれず、建物の中から逃げ出そうとしていた帝国の潜入工作員たちが、光り輝く「清潔な空気」の中で、あまりの居心地の悪さに悶絶していた。
「……閣下。あの汚れたお考えの方たちも、まとめてスッキリさせて差し上げましょうか?」
「……いや。あ奴らは、私の『剣』で後片付けをしてやる。君は、ノアと一緒に温かいスープでも飲んでいろ」
ジークヴァルトは冷徹な笑みを浮かべ、工作員たちの元へと歩みを進めた。
ロザリア王都の「大洗濯」は、帝国の支配体制を物理的に洗い流すだけでなく、周辺諸国に「カステルの聖女がいれば、帝国は怖くない」という強烈な希望を植え付けたのである。
◆
その夜。
磨き上げられ、花の香りが漂うロザリア王宮のテラスで、リーネは満足げに空を眺めていた。
黒い雪は消え、そこには満天の星空が広がっている。
「……閣下。世界中の詰まりを通せば、どこへ行ってもこんなに綺麗な星が見えるのですね」
「……ああ。だが、君が磨いた世界が美しければ美しいほど、私は君を誰の目にも触れさせたくなくなる。……困ったものだ」
ジークヴァルトは、リーネの腰を強く抱きしめ、そのうなじに顔を埋めた。
ロザリアの救済は、ほんの序章に過ぎない。
リーネの放った浄化の泡は、今や国境を越え、帝国の「大いなる冬」を物理的に消滅させながら、本拠地へと向かって着実にその包囲網を縮めていた。
「さあ、閣下。……明日も、お掃除頑張りましょうね!」
「……ああ。……一生、君の掃除道具の手入れは、私が担当させてもらうぞ」
二人の笑い声が、清浄な空気の中に溶けていく。
地味な掃除女の「世界大洗濯遠征」は、今、歴史上類を見ない圧倒的な輝きを放ちながら、次なる目的地へと向かって加速していくのであった。




