【第41話】世界が黒い雪に埋もれました。……閣下、これではお洗濯物が干せませんわ!
魔導帝国の最奥、極北の氷城から放たれた禁忌の魔術『大いなる冬』。それは、単なる寒波や降雪ではなかった。
空を覆い尽くしたどす黒い雲から降り注ぐのは、触れるものすべてから熱を奪い、植物を腐らせ、魔力回路を物理的に目詰まりさせる「呪いの粉塵」――黒い雪であった。
その雪は、一度積もれば溶けることなく、粘り気のある煤となって大地を覆い、世界を巨大なゴミ捨て場へと変えようとしていた。
カステル辺境伯領の境界線。そこには、押し寄せる黒い雪の壁を、リーネが設置した【伝説の洗浄石】の結界が辛うじて押し留めていた。結界の内側は春のような陽気だが、一歩外に出れば、そこには高さ数メートルに達する「不潔な雪の断崖」が聳え立っている。
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その日の朝、カステル本邸のバルコニーでは、リーネが絶望に満ちた声を上げていた。
「……なんてこと。閣下、見てください。あんなに真っ黒なものが空から降ってきて……これでは、お洗濯物が一枚も干せませんわ!」
リーネは、洗い立ての真っ白なシーツを抱えたまま、窓の外のどす黒い空を仰いで憤慨していた。
ジークヴァルトは、彼女を冷たい風から守るように背後から抱きしめ、その肩に顔を埋めた。
「……リーネ。あれは帝国の最終兵器だ。世界中の魔導師が絶望し、各国の王たちが震え上がっている終末の予兆なのだ。……それを『お洗濯の邪魔』と断じるのは、世界で君だけだろうな」
「だってお掃除のプロとして、あんなに広範囲を汚しっぱなしにするなんて、絶対に許せませんわ! あんなに不衛生な雪が積もっていたら、皆様が病気になってしまいますし、何より……お屋敷の換気ができません!」
リーネの「お掃除義憤」は、もはや国家の危機という枠を遥かに越えていた。
彼女にとって、帝国の皇帝は「世界の支配者」ではなく、「世界中で一番マナーの悪い、不法投棄の常習犯」に他ならない。
「閣下。……私、決めましたわ。このままここで閉じこもっていても、世界中の『詰まり』は治りません。……私、あの黒い雪を全部、根こそぎ『雪かき』してまいります!」
リーネの力強い宣言に、ジークヴァルトは一瞬だけ驚きを見せたが、すぐにその瞳を誇らしげな、そして深い独占欲を孕んだ光で満たした。
「……君がそう言うのなら、私はその道を切り拓くだけだ。……世界を洗う君の背中を、誰にも、一歩も近づかせはしない」
ジークヴァルトは即座に全軍を招集した。
ハンスはリーネのために、特注の「雪かき専用・防寒お掃除エプロン」を十着用意し、バルトは「土が汚れる前に、姫様が全部洗ってくださるんだな!」と涙を流して肥料を積み込んだ。
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出発の準備が整った本邸の広場。
そこには、弟子ノアが心血を注いで開発した、これまでの馬車の概念を覆す巨大な「魔導高圧散水戦車」が鎮座していた。
洗浄石の力を増幅し、周囲数百メートルを一気に浄化する高圧ノズルが四方に備え付けられ、魔力を溜め込むための巨大なタンクには、リーネが特別に浄化した「高濃度聖水」が満たされている。
「師匠、準備は万端です! この『お掃除戦車』さえあれば、帝国の呪雪など、ただの泥水として洗い流せますわ!」
「キュイイイッ!!」
ノアがノズルを叩いて胸を張り、ホコリ(魔獣)が「空気清浄担当」として車輪の横で勇ましく鳴いた。
「さあ、皆様。世界中の淀みを通しに行きましょう! ……あ、閣下。お説教はもう、昨日三時間もお聞きしましたから、今日は短めにお願いいたしますわ」
「……ふん。ならば一言だけだ。……君の指先から、私の魔力が離れることはない。……君が世界を磨き上げる時、私は君の心臓を一番近くで守る盾となる」
ジークヴァルトは、リーネをひょいと抱き上げ、戦車の最上部にある「指揮台(という名の特製のお掃除席)」へと座らせた。
そこは、ジークヴァルトがリーネを常に腕の中に閉じ込めておける、世界で最も安全で、最も過保護な場所であった。
◆
カステル領の境界。
リーネが【伝説の洗浄石】を組み込んだノズルを、立ち塞がる「黒い雪の壁」へと向けた。
「【神域の純浄・世界一の雪かき(グローバル・パージ)】――はい、スッキリいたしましょうね!」
リーネが引き金を引いた。
――ドォォォォォォォォン!!
ノズルから放たれたのは、太陽の輝きを凝縮したような、眩いばかりの「聖水の奔流」であった。
それは破壊の光ではない。触れるものすべてから「不浄」という概念を剥ぎ取り、本来の姿へと還す、至高の洗浄エネルギー。
激流が黒い雪の壁を直撃した瞬間、不気味な煤の塊は「シュアァァァッ!」という悲鳴のような音を立てて蒸発し、下からは磨き上げられたようなピカピカの街道が現れた。
光の波及は止まらず、街道の左右数十メートルにわたって、黒い世界が「色」を取り戻していく。枯れていた木々は一瞬で新緑を芽吹かせ、凍りついていた鳥たちが、驚きと共に羽ばたいた。
「……あら、とっても滑らかに進めますわ! 閣下、もっと速度を上げてください!」
「……ああ、分かった。……全軍、リーネが拓いた『聖なる道』を爆走しろ! 遅れる者は、私が置いていく!」
ジークヴァルトの号令と共に、カステル軍の戦車と騎士団が、黒い雪の世界を「消しゴムで消す」かのような勢いで突き進み始めた。
通常なら数ヶ月かかる極北への行軍。だが、リーネの「広域雪かき」が加わった軍勢は、もはや物理法則さえも洗い流したかのような速度で、帝国の支配領域へと深く、深く食い込んでいく。
その頃。
遠く離れた帝国の前線基地では、魔法の監視網が次々と「消失」していくことに、魔導師たちがパニックを起こしていた。
「……報告します! 第1から第12までの呪雪壁、すべてが『掃除』されました! 消失ではありません、物理的に磨き消されています!」
「馬鹿な……。我が帝国の、世界を閉ざす『大いなる冬』が……ただの雪かきで突破されたというのか!?」
帝国の常識は、リーネの「お掃除第一」という情熱の前では、ただの「しつこい汚れ」に過ぎなかった。
「……閣下。あそこの村、煙突が詰まっていてとっても苦しそうですわ。……ついでに、あそこも丸洗いして差し上げましょう!」
「……ああ。好きにするがいい。……私の妻が通った後は、この世で最も美しい楽園になるのだからな」
ジークヴァルトはリーネの腰を強く抱きしめ、彼女が見せる「ピカピカの明日」を独占しながら、突き進む。
地味な掃除女が、世界を覆う最大のゴミを掃除するための伝説の進軍。
その第一歩は、凍てついた世界に、希望という名の「清々しい空気」を力強く送り込んだのであった。




