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【第39話】領地復興・第2段階。……あら、ブラシ様、棚の裏に埃があるなんて教えてくださるのですか?

 極北の氷城から持ち帰った【伝説の洗浄石】。そのアメジスト色の結晶は、今やカステル辺境伯本邸の魔力炉の核として、静かに、しかし力強い拍動を繰り返している。

 この石が領地の地脈と接続されたことで、カステル領を巡る魔力は、不純物を一切含まない高純度の「浄化の奔流」へと書き換えられた。窓を開ければ、かつては僅かに混じっていた砂埃さえもが、リーネの魔力に触れて光の粒子へと変わり、部屋を汚すどころか、吸い込むだけで肺の奥まで洗われるような清涼感をもたらしている。


 だが、この「過剰なまでの清浄さ」がもたらした最大の変化は、リーネが日々愛用している掃除道具たちに現れていた。


「……まあ。なんて手になじむのかしら」


 朝の光が差し込むサンルームで、リーネは特注の【白銀熊のブラシ】を手に取り、その感触に驚きの声を上げた。

 極北での激闘を共にしたこのブラシは、今やリーネの魔力と完全に同期していた。彼女が指先に僅かな浄化の意志を込めるだけで、ブラシの毛先が生き物のように細かく震え、周囲の空気中に漂う微細な埃を「吸い寄せる」ようにして捉え始めたのだ。


 それは擬人化された意思などではない。

 リーネという至高の聖女が、長年慈しみ、使い込んできた道具が、主の「綺麗にしたい」という純粋な願いを具現化するための「神具」へと昇華された瞬間であった。


「師匠……。そのブラシ、もはや魔法媒体としての性能を遥かに越えていますわ。……見てください、師匠がブラシを構えただけで、あちらの棚の隅にある数年前の煤が、自ら剥がれ落ちてブラシに吸い込まれていきます!」


 傍らで熱心に記録を取っていた弟子ノアが、驚愕のあまりペンを落とした。

 ノアの目には、リーネとブラシの間に、目に見えないほど細く、しかし強靭な「浄化の糸」が結ばれているのが見えていた。リーネが軽くブラシを振るうだけで、空間の歪み(汚れ)が修正され、物質本来の輝きが引き出されていく。


「ふふ。……この子、とってもお掃除したそうに震えていますわ。……さあ、ノア様、ホコリちゃん。今日は屋敷の回廊を、徹底的に磨き上げましょうね」


「キュイ!」


 足元で、真っ白な毛並みをさらに輝かせた魔獣ホコリが、リーネの歩調に合わせて跳ねる。

 一行が回廊を進む姿は、もはや「家事」の光景ではなかった。リーネが一歩進むごとに、床のワックスの剥げが修復され、壁に染み付いた歴史の煤が消え去り、そこは一瞬にして神々の住まう神殿のような神聖さを帯びていく。


 ◆


 この「奇跡の浄化」の影響は、本邸の壁を越えて領地全体へと波及していた。

 リーネが領民たちに配り歩いた「浄化の石鹸」や「魔法のクロス」もまた、洗浄石の共鳴を受けて活性化していた。


「おい、見たか! 奥様にいただいたこのクロス、泥だらけの長靴をひと撫でしただけで、新品みたいに光りやがった!」

「うちの井戸水も、以前よりずっと甘くて冷たいわ。……洗濯をしても、汚れが自分から逃げていくみたいに落ちるのよ」


 領民たちの生活は、かつてないほど劇的に改善されていた。

 不衛生な環境から来る病は根絶され、家事に要する時間は極限まで短縮された。空いた時間で、人々はより丁寧に畑を耕し、花を植え、自分たちの住む町を磨き上げるようになった。

 カステル領は今や、王都さえも羨む「世界一ホワイトで清潔な労働環境」を誇る理想郷と化していた。


 しかし、その眩いばかりの輝きは、欲望という名の汚れを纏った者たちを呼び寄せる灯火でもあった。


「……閣下。王都からの商談をご希望の方が、三名ほど門前に」


 老執事ハンスが、眉間に僅かな不快感を滲ませながら報告に現れた。

 応接室に通されたのは、派手な毛皮を纏い、指にいくつもの宝石を嵌めた商人たち。そして、没落したエルストリア家の残党と繋がりのある、強欲な中堅貴族だった。


「辺境伯閣下。単刀直入に申し上げましょう。……その、夫人リーネが使っておられる『魔法の掃除道具』、および領内に溢れる『汚れが勝手に落ちる奇跡』の技術……。これらを我が商会に独占的に卸していただきたい。……金ならいくらでも出しましょう。王都の全貴族を顧客にすれば、カステル領の数十年分の税収など、一晩で稼ぎ出せますぞ」


 商人の言葉に、ジークヴァルトの周囲の温度が、一瞬で氷点下まで下がった。

 ジークヴァルトは、隣で静かに「愛用のブラシ」を柔らかな布で手入れしていたリーネの手を、そっと握りしめた。


「……断る。……これは、私の妻がその身を削り、心を込めて磨き上げてきた『誇り』そのものだ。金で量れるような薄っぺらなものではない」


「な……! しかし閣下、これはこの国の経済を回すための……」


「……黙れ、不潔な豚共が。……貴様らが放つ『強欲』という名の悪臭が、私の屋敷を汚しているのが分からんのか。……ハンス。掃き出せ。二度とこの地の土を踏ませるな」


 ジークヴァルトの冷徹な宣告。

 商人が反論しようとしたが、その瞬間、彼らの足元を滑るように動いた「リーネの浄化魔力が宿った掃除道具」たちが、あたかも障害物を排除するかのように、彼らを物理的に門の外へと押し出した。


「……ひぃっ! な、なんだ、この雑巾は! 俺の高級なブーツを勝手に磨きやがって……っ! 離せ、離せぇぇ!!」


 商人が無様に転がりながら連れ出されるのを、リーネは少しだけ困ったように見送った。


「……閣下。あの商人さん、せっかくのお洋服が煤けていらしたのに。……せめて、背中の埃だけでも払って差し上げたかったですわ」


「リーネ。……君は優しすぎる。……あのような連中のために、君の神聖なブラシを汚す必要はないんだ。……君の光は、私と、この領地を愛する者たちのためだけに、照らされていればいい」


 ジークヴァルトはリーネを抱き寄せ、その美しい銀髪に指を絡めた。

 彼は知っていた。リーネの力が道具に宿るようになったのは、彼女が自分の持ち物を「道具」としてではなく、共に生きる「分身」として、文字通り魂を込めて慈しんできたからだということを。


「……はい、閣下。……私、この道具さんたちと一緒に、もっともっとこの領地をピカピカにしたいんです。……汚れがなくなれば、皆様の心も、もっと穏やかになれるはずですもの」


 リーネは、手の中の【白銀熊のブラシ】を優しく撫でた。

 ブラシは言葉こそ発しないが、彼女の掌に心地よい熱を伝え、まるで「明日も頑張りましょう」と応えるように、穏やかに輝いていた。


 ◆


 その夜。

 磨き上げられ、月明かりを鏡のように反射するテラスで、二人は静かな時間を共有していた。

 領地を流れるカステル川のせせらぎが、以前よりもずっと透き通った音色で響いている。


「……リーネ。世界を洗ったことで、君の伝説はさらに広まった。……これからは、今日のような強欲な連中だけではない、もっと大きな『汚れ』が君を狙ってくるだろう。……だが、私は誓う。……君がそのブラシを振るう平穏な日々を、私は死を賭して守り抜くとな」


「……閣下。それは、お掃除の後の『お茶の時間』のように、とっても楽しみな未来ですわ」


 リーネはジークヴァルトの胸に頭を預け、穏やかに微笑んだ。

 彼女にとっての「理想の王国づくり」は、まだ始まったばかりだ。

 魔力が道具に宿り、領地が聖域へと進化していく。その中心で、一人の地味な掃除女は、明日もまた、世界で一番幸せそうに雑巾を絞るのであった。


 汚れなき世界への第2段階。

 カステル領は、リーネの純粋な「お掃除愛」によって、今、本物の伝説へと塗り替えられようとしていた。


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