【第37話】帝国の玉座をお掃除。……陛下、その「虚無」という名の煤、私が根こそぎ磨き落としますわ!
氷城の最奥、厚重な漆黒の扉が開かれた先には、星の光さえ届かぬ「絶対的な暗黒」が広がっていた。
そこは魔導帝国の心臓部、玉座の間。玉座に鎮座しているのは、もはや人の形を維持することすら止めた、数千年の怨念と魔力の澱みが凝縮された異形の存在――皇帝であった。
「……矮小なる人間どもが。我が『虚無』の前に跪くが良い。この世界は既に、救いようのない汚れに満ちている。……磨くなどと、滑稽な夢を見るな」
皇帝が指先を動かすと、空間そのものが腐食したかのような「黒い霧」が、リーネたちに襲いかかった。それは物理的な破壊ではなく、触れるものすべてを存在ごと「虚無」へと還す、究極の不浄。ジークヴァルトが放った最強の剣撃さえも、その黒い霧に触れた瞬間、洗剤に溶ける汚れのように無力化され、吸い込まれていく。
「……閣下。あちらの方、とっても『しつこい黒ずみ』を溜め込んでいらっしゃいますわ」
リーネは、ジークヴァルトの腕の中で、凛とした声を出した。
周囲の騎士たちがその圧倒的な絶望感に戦意を喪失し、膝をつこうとしている中で、リーネだけは真っ直ぐに皇帝を見据えていた。彼女の目には、皇帝が放つ「虚無」は世界の理などではなく、ただの「放置されすぎて固着した最悪の汚れ」にしか見えていなかったのである。
「リーネ。……私の剣では、あの『無』を切り裂くことができない。……だが、君の光なら、あそこへ届くか?」
ジークヴァルトは、リーネを背後から包み込むように抱きしめた。
彼は自分の全魔力、世界を滅ぼしかねないほどの巨大なエネルギーを、リーネという唯一の「洗浄装置」へと流し込むために、彼女の細い腰をしっかりと支えた。
「はい、閣下。……私、あんなに煤けた玉座は見ていられませんわ。……皆様が安心して深呼吸できる世界にするために、今度こそ、根こそぎ磨き落として差し上げます!」
リーネは、手にした『聖なる魔導モップ』の柄を強く握りしめた。
先端に埋め込まれた【伝説の洗浄石】が、ジークヴァルトから供給される膨大な魔力を吸い込み、限界を超えて明滅を繰り返す。紫金色の光がリーネを包み込み、彼女の周囲にだけは、皇帝の虚無さえも踏み込めない「絶対清浄領域」が形成された。
「ノア様、ホコリちゃん! 最後の仕上げですわよ!」
「はい、師匠! 魔力の波長同期、完了しました! ……世界のゴミ、一掃しましょう!」
「キュイイイッ!!」
弟子ノアが魔法で光の指向性を定め、ホコリ(魔獣)が周囲の余分な魔力のカスを吸い取って場を整える。
リーネはジークヴァルトと呼吸を合わせ、その全霊を込めて、モップを皇帝へと向けた。
「【神域の純浄・聖なる魔導洗浄】!!」
――ドォォォォォォォォン!!
それは、もはや光の柱というよりは、天界の激流そのものであった。
ジークヴァルトの破壊の力が、リーネというフィルターを通ることで「汚れを許さない極限の浄化エネルギー」へと完全に変換され、皇帝の放つ虚無と正面から激突した。
バチバチと、次元が軋むような音が響く。
皇帝の虚無は、リーネの光を飲み込もうとした。しかし、リーネの光は「飲み込まれる」のではなく、虚無を「頑固な焦げ付き」として認識し、一粒一粒の光子がヤスリのように虚無を削り、磨き、分解していった。
「ば……馬鹿な! 私の虚無は、すべてを消し去る絶対の闇だ! それが……ただの雑巾で……磨き消されるだと!? やめろ、磨くな! 私の数千年の執念を、そんなに簡単に『綺麗』にするなぁぁ!!」
皇帝の絶叫が玉座の間に響き渡る。
だが、リーネの手は止まらない。彼女はジークヴァルトに支えられながら、一歩、また一歩と、全力でモップを振り抜く。
「……陛下。どんなにしつこい黒ずみでも、諦めなければ必ず落ちるのです。……世界を汚して安心するなんて、そんな寂しいお掃除は、私が今日で終わりにいたしますわ!」
光の濁流が皇帝の核を貫いた。
次の瞬間、氷城全体を揺るがすような巨大なパージ音が響き渡り、皇帝の形を成していた「数千年の汚れ」が、一気に霧散したのである。不純物を取り除かれた皇帝の魂は、最後には一筋の清らかな光となって、極北の空へと消えていった。
皇帝が消滅した瞬間、玉座の間を覆っていた暗黒は消え去り、そこにはダイヤモンドのように透明で、一点の曇りもない氷の空間が広がっていた。
さらに、城全体から放たれていた瘴気が消え、極北を覆っていた黒い雲が、嘘のように晴れ渡っていった。
「……ふぅ。……スッキリ、いたしましたわね」
リーネは、使い古してボロボロになったモップを杖代わりにし、大きく息を吐いた。
彼女の頬には、激闘による汗が光っていたが、その表情は「家中のお掃除を終えた日曜日の午後」のように、清々しく、穏やかなものだった。
「……ああ。……リーネ。君は本当に、この世界を磨き上げてしまったな」
ジークヴァルトは、力尽きそうになったリーネを抱き抱えると、彼女の耳元で、誇らしげに、そして深く甘い声で囁いた。
彼がずっと恐れていた「世界を飲み込む呪い」は、もうどこにもない。リーネが作り出したこの清らかな光の中で、彼はようやく、一人の男として未来を見据えることができた。
◆
玉座の間の窓から、極北の地に、数千年ぶりの「太陽の光」が差し込んできた。
その光を浴びて、氷の城は虹色に輝き、まるでお掃除の完了を祝福しているかのようであった。
「……閣下。見てください。あんなに真っ黒だったお空が、とっても綺麗な青色に戻りましたわ」
「ああ。……だが、一番美しいのは、私の腕の中で笑う君だ、リーネ」
ジークヴァルトは、リーネの唇に、勝利と愛を誓う深い接吻を落とした。
背後では、ノアやハンス、そして騎士たちが、この奇跡の光景を前に、誰からともなく膝をつき、感謝の涙を流していた。
世界の果てにある「最大のゴミ屋敷」を丸洗いした、地味な掃除女の物語。
その伝説の遠征は、ここに最大の勝利をもって完結した。
だが、リーネにとっては、これがゴールではない。
「閣下、カステル領に戻ったら、今度はあちらの教会の屋根を磨きましょうね。……まだまだ、お掃除すべき場所はたくさんありますわ!」
「……ははっ。分かった。一生、君のブラシ捌きに付き合おうじゃないか」
二人の笑い声が、清浄な空気に満ちた玉座の間に響き渡る。
汚れなき世界で、二人の「真のハッピーエンド」は、ここからまた新しく、ピカピカに磨かれながら始まっていくのであった。




