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【第36話】氷城の回廊で再会しました。……お兄様、そんなに黒ずみを溜め込んでは、跡形もなく消えてしまいますわ

 氷城の城門を「丸洗い」して突入したカステル辺境伯騎士団の前に広がっていたのは、想像を絶する不衛生な深淵であった。

 城内の壁や天井は、数千年にわたって帝国が排出してきた魔力のすすが、物理的な厚みを持ってこびりついている。それはまるで、巨大な生き物の内臓を歩いているかのような不気味な粘り気を帯び、足を踏み出すたびに「ぐちゃり」と嫌な音が響いた。


「……なんて。なんて、お掃除のしがいがない家主なのかしら。これでは、お屋敷が可哀想で涙が出てしまいますわ」


 リーネは、鼻を突く腐敗臭と魔力の澱みに、かつてないほど激しい憤りを感じていた。彼女にとって、この城は「帝国の本拠地」ではなく、「大陸最大のゴミ屋敷」そのものだった。彼女は収納袋から、ノアと共に改良を重ねた【伝説の洗浄石】を組み込んだ、新調の『聖なる魔導モップ』を握りしめた。


「リーネ、下がっていなさい。……この奥から、かつてないほど醜悪な『汚れ』が近づいてくる」


 ジークヴァルトが漆黒の剣を引き抜き、リーネの前に立ちはだかる。

 大回廊の奥から、どろりとした黒い泥を撒き散らしながら、一人の男が這い出してきた。


「……あ……ああ……リーネ……リーネェェッ!!」


 その姿に、一行は息を呑んだ。

 そこには、かつてのエルストリア伯爵家の嫡男としての面影は、微塵も残っていなかった。ロイド・エルストリア。彼は帝国の禁忌術によって、自らの肉体を「呪いと汚れの触媒」へと改造されていた。

 皮膚は剥がれ落ち、代わりに黒い粘液が全身を覆い、背中からは数多の怨嗟の声を発する触手のような泥が蠢いている。彼はもはや人間ではなく、帝国が溜め込んできた「不浄の概念」そのものと化していた。


「……お兄様。そんなにまで、自分を汚してしまわれたのですか?」


 リーネの声は、どこまでも悲しげだった。

 だが、その手にある魔導モップからは、既に隠しきれないほどの浄化の光が漏れ出している。


「……ふひっ、ひひひ! 俺は……俺は力を手に入れた! この城の、いや、世界のすべての『汚れ』は俺の味方だ! 清らかさを気取るお前を、この泥の中に引きずり込み、二度と磨けないほどに汚してやるぅぅ!!」


 ロイドが咆哮と共に、巨大な泥の波を解き放った。

 それは触れるものすべてを瞬時に腐敗させ、存在そのものを「ゴミ」へと変えてしまう、絶望の濁流だ。


「リーネ!!」


 ジークヴァルトが魔力障壁を展開しようとした、その時。

 リーネが、一歩前へと踏み出した。


「……いいえ、閣下。これは魔法でも攻撃でもありませんわ。……あまりにも放置されすぎた、救いようのない『頑固な黒ずみ』です。……お掃除のプロとして、これを見過ごすわけにはまいりません」


 リーネは、魔導モップを高く掲げた。

 【伝説の洗浄石】が、リーネの「汚れに対する絶対的な拒絶」に呼応し、太陽のような眩い紫金色の光を放つ。


「【神域の純浄・全自動一括洗浄フル・オート・パージ】!!」


 リーネがモップを一気に床へと叩きつけ、大回廊の空間ごと「一拭き」した。

 ――ドォォォォォォォォン!!

 それは、これまでの浄化とは次元の違う、概念レベルでの「洗浄」であった。


 放たれた光は、ロイドの肉体を攻撃するのではない。

 彼を構成している「汚れ」という成分、彼を動かしている「憎悪」という不純物、そして帝国が彼に植え付けた「呪い」という名の煤。それらすべてを、原子レベルで分解し、無へと還していく。


「ぎゃあああああああ!? 熱い、熱い! 俺の……俺の『汚れ』が……俺の存在が……剥がれていくぅぅぅ!!」


 ロイドが絶叫を上げた。

 だが、今の彼には、汚れを取り除いた後に残る「自分自身」がもうどこにも存在しなかった。

 あまりにも深い悪意に染まり、自ら不浄そのものとなった彼は、浄化の光に触れた瞬間、洗剤をかけられた泥汚れのように、跡形もなく溶け始めていた。


「……さようなら、お兄様。次は、清らかな場所で生まれてくると良いですわ」


 リーネがモップをひと薙ぎすると、最後の一筋の光がロイドを貫いた。

 次の瞬間、回廊を埋め尽くしていたどす黒い粘液も、異形の怪物と化したロイドも、そして彼が放っていた悪臭も、すべてがパチパチと弾ける光の粒子となって消滅した。


 光が収まった後、そこには塵ひとつ、煤の一片すら残っていなかった。

 ただ、リーネの手によって極限まで磨き上げられた、鏡のように美しい大理石の床が、どこまでも真っ直ぐに玉座の間へと続いていた。


「……終わりましたわね。閣下、お足元、滑りやすくなっておりますから気をつけてください」


 リーネは、まるでリビングの掃除を終えたかのように、穏やかな微笑みでジークヴァルトを振り返った。

 ジークヴァルトは、抜いた剣を鞘に戻すことすら忘れ、目の前の「完全なる無」となった跡地を見つめていた。……彼がどれほど剣を振るおうとも、これほどまでに徹底的に、跡形もなく敵を消滅させることはできなかっただろう。


「……リーネ。君の『お掃除』は、もはや因果そのものを洗い流したのだな」


 ジークヴァルトは、リーネをそっと抱き寄せ、彼女の温もりを確認するように強く抱きしめた。

 実家との因縁。自分を虐げ、世界を汚そうとした家族との繋がり。そのすべてが、今、リーネの手によって「一拭き」で清算されたのである。


「……さて。閣下、残るは一番の『諸悪の汚れ』……あちらの換気扇の奥ですわね」


 リーネがモップを担ぎ直し、玉座の間の巨大な扉を指差した。

 扉の隙間からは、もはや隠しようのないほどの、世界を腐敗させようとする「皇帝」の邪悪な魔力が漏れ出している。

 だが、リーネの目には、それが「世界で一番しつこい黒ずみ」にしか見えていなかった。


「ノア様、ホコリちゃん。洗剤の予備は大丈夫ですか?」


「はい、師匠! 究極の濃縮聖水、いつでも噴射可能です!」


「キュイイイッ!!」


 ホコリ(魔獣)が、戦意満々に毛を逆立てて鳴く。

 騎士団の面々は、リーネが作り出したピカピカの「聖なる道」を歩み、ついに世界の命運を懸けた最終決戦の舞台へと突入した。


 扉が開いた先。

 そこには、世界を汚し、絶望を支配してきた皇帝が、リーネのあまりに清らかな光に目を細めながら待ち構えていた。

 だが、彼の放つ威圧感も、玉座を覆う不吉なオーラも、リーネにとっては「お掃除のやりがいがある、最高に汚いゴミ」でしかなかった。


「……さあ、陛下。……世界中のお洗濯を邪魔するその『淀み』、私が今すぐ、根こそぎ磨き落として差し上げますわ!」


 リーネの凛とした号令が、帝国の深淵に響き渡る。

 世界の汚れをすべて消し去るための、伝説の大掃除。

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