【第35話】氷城の城門を「丸洗い」します。……閣下、泥をを投げるのはお行儀がよろしくありませんわ!
極北の氷城――その巨大な城壁の前に辿り着いたカステル辺境伯騎士団を待ち受けていたのは、歓迎の言葉ではなく、空を埋め尽くすほどの「どす黒い雨」であった。
城壁の上に陣取った帝国最強の魔導騎士団『黒鴉』。彼らが一斉に放ったのは、物理的な矢でも魔法の火球でもない。地脈から汲み上げられた、触れるものすべてを腐敗させ、一瞬にして不浄な粘液へと変えてしまう「禁忌の腐食泥」の弾丸であった。
「……っ、盾を構えろ! この泥に触れるな、一瞬で鎧が溶けるぞ!」
ジークヴァルトの鋭い号令が飛ぶ。騎士たちが咄嗟に魔法障壁を展開するが、その盾さえも、降り注ぐ泥の酸によって「ジジ……」という不気味な音を立てて煙を上げ、みるみるうちに薄くなっていく。
地面は瞬く間に不衛生な沼地と化し、精鋭たちの足元を泥濘が絡め取っていく。
「ふははは! 見ろ、辺境伯! 貴様らがどれほど清らかさを気取ろうとも、この数千年の怨念が混じった泥の中では無力だ! その高価な鎧も、連れている聖女とやらも、等しくドロドロに溶かしてゴミ溜めにしてやろう!」
城壁の上で、帝国の将軍が勝ち誇ったように叫ぶ。
しかし、その言葉を聞いた瞬間。
ジークヴァルトの隣で、泥がつかないよう魔法の膜で守られていたリーネの周囲で、パキリ……と空気が凍りつくような音がした。
「……なんて。……なんて、お行儀がよろしくないのかしら」
リーネの声は、いつもの穏やかさとは一線を画していた。
彼女のアメジスト色の瞳には、恐怖ではなく、かつてないほどの「教育的指導」の炎が灯っている。
「閣下。……あの方たち、お掃除をする人の気持ちをこれっぽっちも考えていらっしゃいませんわ! 泥を投げるなんて、一生懸命磨いている人に対する、最大級のマナー違反です!」
リーネにとって、これは「戦争」ではなく「悪質な嫌がらせ(汚染)」だった。
彼女は収納袋から【伝説の洗浄石】を組み込んだ特大のバケツと、ノアが改良を重ねた【魔導高圧洗浄ノズル・極】を取り出した。
「ノア様、ホコリちゃん! 今すぐ最大出力で『泡』を作りますわよ! この不作法な汚れ、一滴残らず中和して差し上げます!」
「はい、師匠! 聖水濃縮液、全開投入いたします! ……皆様、これが『お掃除の真髄』ですわ!」
「キュイイイッ!!」
ホコリ(魔獣)がバケツの中に飛び込み、リーネの浄化魔力をかき混ぜて、爆発的な勢いで「聖なる泡」を生成し始めた。
リーネはジークヴァルトに背中をしっかりと支えられながら、巨大なノズルを城壁の上空へと向けた。
「【洗浄・泥落とし(マッド・リムーバー)】――お行儀の悪い汚れは、根こそぎお帰りくださいませ!!」
――ドォォォォォォォォン!!
ノズルの先から放たれたのは、空を覆う泥の雨を凌駕する、巨大な「白銀の泡の津波」であった。
その泡が、空中で降り注ぐ腐食泥と激突する。
本来なら触れるものを溶かすはずの呪いの泥が、リーネの泡に包み込まれた瞬間、パチパチと音を立てて無力化(中和)され、ただの「清らかな温水」へと書き換えられていく。
「な……っ、我らの腐食泥が、泡に飲み込まれて……消えていく……だと!?」
帝国の騎士たちが驚愕する間もなく、リーネの「お掃除」は城壁そのものへと及んだ。
純白の泡は、数千年の煤と呪いで真っ黒に染まっていた氷の城壁を包み込み、激しい勢いで表面を磨き上げていく。
泡が流れた後には、ダイヤモンドのように透明な輝きを取り戻した、あまりにも滑らかな「氷の壁」が姿を現した。
「……あ、足元が……滑る!? うわああああっ!!」
城壁の上で泥を投げていた兵士たちが、一斉に悲鳴を上げた。
リーネが余計な「摩擦」まで完璧に掃除してしまったため、彼らは立っていることすらできず、次々と城壁から滑り落ち、下で待っていた「聖なる泡のクッション」の中へと吸い込まれていった。
「……ふぅ。これで少しは、お行儀を思い出していただけるかしら」
リーネがノズルを下ろすと、そこにはかつての「不気味な黒い城門」の姿はなかった。
磨き上げられすぎて、裏側の景色が透けて見えるほどの透明な城門。そして、泡を浴びて「美肌」になり、心がスッキリと洗われて戦意を喪失した帝国の兵士たちが、ポカンと口を開けて座り込んでいた。
「あら。門の取っ手に、まだ少し指紋(汚れ)が残っていますわね。……えいっ」
リーネが軽くブラシを振るい、浄化の風を門の接合部に送り込む。
すると、数千年の呪いで固く閉ざされていたはずの巨大な城門が、摩擦抵抗がゼロになったことで、リーネの吐息一つで開くかのように「ツルン」と、何の音もなく左右に滑り開いたのである。
「……リーネ。君の『マナー教育』は、物理法則さえも洗い流してしまうのだな」
ジークヴァルトは、抜こうとした剣を静かに鞘に収め、呆然とする騎士たちを差し置いて、リーネを横抱きに抱え上げた。
「……全軍、突入だ。……道は既に、彼女の手によって『清められて』いる。……汚れた靴で歩くのが申し訳ないほどにな」
「おーっ!!」
辺境伯騎士団は、泡がキラキラと舞う、世界で最も清潔な城内へと一気に突入した。
リーネの無自覚な「丸洗い」によって、帝国の防衛陣地は戦う前に「掃除」され、無力化されてしまったのである。
◆
城内の回廊を進む一行。
そこは、帝国が長年溜め込んできた魔力の煤が物理的な影となって蠢く、まさに「大陸最大のゴミ屋敷」の心臓部であった。
「……閣下。あちらの天井の隅、巨大な『魔力の蜘蛛の巣』が張っていますわ。……そして、あの奥の玉座の間から……とっても放置された換気扇のような、嫌な匂いが漂ってまいります」
「……換気扇、か。……それが、この世界の不浄の王――皇帝の放つ殺気なのだろうな」
ジークヴァルトは苦笑しつつも、腕の中のリーネをより一層強く抱きしめた。
いよいよ、物語の核心へ。
自らの野望のために世界を汚し続けた皇帝と、それを「最悪の家主」と断じる掃除聖女の、最終決戦(大掃除)の幕が上がろうとしていた。
「皆様、雑巾の予備はよろしいですか? ……いよいよ、一番しつこい『黒ずみ』を落としに行きますわよ!」
リーネの晴れやかな号令が、帝国の深淵に響き渡る。
彼女の指先が放つ光は、今や城全体を内側から浄化し始め、氷の城はかつてないほどの輝きで極北の空を照らし出していた。




