【第33話】国境の砦を「丸洗い」します。……閣下、そんなに怒らなくてもお掃除で解決しますわ!
魔導帝国の喉元、国境を守る『不落の黒鉄砦』。
そこは、幾重にも重ねられた漆黒の魔障壁によって覆われていた。帝国の魔導師たちが数十年をかけて構築したその結界は、物理的な攻撃を弾き、魔法の干渉を霧散させ、さらには「不透過の闇」となって光さえも遮断している。
近づく者すべてをドロドロとした負のエネルギーで絡め取る、まさに「不浄の防壁」であった。
「……目障りな。この程度の泥細工、私の魔力で根源から消し飛ばしてやろう」
砦を望む丘の上、ジークヴァルトは漆黒の外套をなびかせ、凄まじい「殺気」を放っていた。
極北へ近づくにつれ、リーネを狙う帝国の嫌がらせが激化していることに、彼の我慢は限界に達していた。ジークヴァルトの周囲には、黒い稲妻のような魔力がバチバチと弾け、背後に控える辺境伯騎士団の面々も、その圧倒的な重圧に息を呑み、ガタガタと震え上がっている。
「閣下……! 殺気が、殺気が強すぎて馬たちが怯えておりますぞ!」
老執事ハンスが必死に声をかけるが、ジークヴァルトの耳には届かない。彼の瞳は冷徹な破壊の光を宿し、今にもその剣で世界ごと砦を切り裂こうとしていた。
その時。
ジークヴァルトの隣で、ずっと砦をじっと観察していたリーネが、おもむろに彼の方を向いた。
「閣下。……そんなに怖いお顔をなさっては、お掃除の前に眉間に深い『皺』という名の汚れが寄ってしまいますわ」
リーネは、ジークヴァルトの逞しい腕をそっと引くと、背伸びをして彼の頭に手を伸ばした。
そして、驚愕で動きを止めたジークヴァルトの頭を、小さな掌で優しく、ゆっくりと「よしよし」と撫で始めたのである。
「よしよし。……大丈夫ですよ、閣下。……落ち着いて、深呼吸してください。……ね?」
「……っ……あ……」
一瞬前まで、世界を滅ぼさんばかりの殺気を放っていた「死神」が、完全に硬直した。
ジークヴァルトは、リーネの柔らかな手の感触、そして彼女から漂う清らかな浄化の香りに包まれ、みるみるうちに顔を耳の付け根まで真っ赤に染め上げた。
周囲に荒れ狂っていた黒い稲妻は霧散し、あれほど恐ろしかった殺気は、春のそよ風のように穏やかなものへと一瞬で書き換えられてしまったのである。
「おお……! なんという奇跡だ! 聖女様が、辺境伯様の禍々しい精神の澱み(殺気)を、撫でるだけで一瞬にして浄化された……っ!」
その光景を見ていた騎士団の面々は、感涙に咽び、その場に膝をついた。
彼らの目には、リーネの指先から「聖なる癒やしの光」が溢れ、ジークヴァルトの魂を丸洗いしたように見えていた。……実際には、リーネがただ「子供をあやすように撫でた」だけで、ジークヴァルトが猛烈に照れているだけなのだが。
「……あ、あの、リーネ。……もう、十分だ。……落ち着いたから、手を離してくれ……」
「あら。まだ少し、お顔が赤いですわよ? ……熱でもおありですか、閣下?」
「……っ、いや、これは、その……! ……とにかく、今は砦だ! 砦のお掃除に取り掛かってくれ!」
ジークヴァルトは慌てて顔を背け、激しく動揺しながらも、リーネのお掃除を促した。
リーネは不思議そうに首を傾げつつも、再び砦の巨大な黒い壁に視線を戻した。
「……そうでしたわ。……閣下、あの壁。あれは呪いというよりも、とっても粘り気のある『しつこい油汚れ』ですわ! きっと、帝国の魔導師様たちが、何年も換気扇の掃除を怠った時のように、悪い魔力を溜め込んでしまったのです」
「油汚れ……だと? あれは帝国が誇る、不透過の魔障壁だぞ?」
「いいえ。……お掃除のプロから見れば、あれはただの『こびりついた煤』に過ぎません。……ノア様、例の『魔導洗剤』の準備はよろしいですか?」
「はい、師匠! 最高濃度の聖水に、伝説の洗浄石の粉末をブレンドした『特製マジック・デグリーザー』、装填完了です!」
弟子ノアが、新開発の【魔導高圧洗浄ノズル・改】をリーネに手渡した。
リーネは、ジークヴァルトに背中を支えられながら(彼はまだ顔が赤いままだったが)、巨大なノズルを砦の黒い壁へと向けた。
「【洗浄・油分解】!!」
――シュワァァァァァァッ!!
ノズルの先から放たれたのは、眩いばかりの純白の「泡」だった。
その泡が砦の黒い壁に触れた瞬間、パチパチと弾けるような音が響き、あらゆる攻撃を弾いてきた「不透過の闇」が、みるみるうちにドロドロと溶け始めた。
泡は汚れ(呪い)を吸着して浮かせ、リーネの浄化魔力がそれを一気に分解していく。
「な……っ!? 我らが誇る漆黒の壁が、泡にまみれて……溶けていく……だと!?」
砦の屋上で指揮を執っていた帝国の将軍が、腰を抜かして叫んだ。
彼が知る「魔法の戦い」は、魔力と魔力のぶつかり合いだった。だが、目の前で起きているのは、ただの「大規模な洗剤による丸洗い」であった。
泡が流れ落ちた後には、黒鉄で作られていたはずの砦の壁が、鏡のようにピカピカに磨き上げられ、太陽の光を反射して白く輝いている。
「あら、とってもスッキリいたしましたわ! ……閣下、見てください。あんなに汚れていた砦が、新品同様になりました!」
「……ああ。……壁が綺麗になりすぎて、中の兵士たちの慌てふためく姿が丸見えだな」
ジークヴァルトは、リーネの「家事無双」ぶりに改めて脱力しながらも、無防備になった砦の城門に向けて剣を向けた。
壁を覆っていた呪いの粘液が消えたことで、砦を守っていた兵士たちも、リーネの放った浄化の泡を浴び、なぜか「美肌」になりながら、「争うなんて馬鹿らしい……お掃除しよう……」と、戦意を喪失して座り込んでいた。
「……全軍、突入。……ただし、汚れ(敵)は一人残らず、掃き出せ!」
「おーっ!!」
辺境伯騎士団が、輝く砦へと一気に流れ込む。
帝国が絶対の自信を持っていた国境の防衛線は、リーネの「特製洗剤」によって、わずか数分で完全に消滅させられてしまった。
◆
一時間後。
『不落』と呼ばれた砦は、今や『世界で最も清潔な宿泊施設』のような美しさへと変貌していた。
捕らえられた帝国の兵士たちは、リーネから「お掃除の心得」を説かれ、なぜか自分たちの鎧を一生懸命磨き始めている。
「……ふぅ。これで国境もスッキリいたしましたわね。……あ、閣下。眉間の皺、まだ少し残っていますわ。……よしよし」
「……っ、リーネ! もう、それは勘弁してくれ……っ!」
再び始まったリーネの「よしよし」攻撃に、ジークヴァルトは顔を真っ赤にして逃げ出したが、リーネはニコニコと笑いながら、新しい布を手に彼を追いかけていく。
それを見守るノアとハンスは、深く頷き合った。
「……やはり、師匠の浄化は精神にまで届く。……閣下は今、人生で一番『清らか』な顔をしていらっしゃるな」
帝国の将軍が絶望の中で自白した内容によれば、本拠地の『極北の氷城』には、この砦の千倍の「油汚れ」が待ち受けているという。
だが、リーネは「洗剤の予備を増やしましょうね!」と、さらに意気揚々とブラシを握りしめるのだった。
王都を救い、国境を洗い流した一行は、ついに世界の不浄の源泉――極北の深淵へと、その一歩を踏み出す。




