【第32話】凍てついた町に「お風呂」を。……閣下、汚れたパンよりピカピカのスープの方が元気が出ますわ
リーネの「爆速雪かき進軍」によって、予定を大幅に短縮して到達した帝国国境の町、ノースエンド。
そこはかつて、北方貿易の要所として活気に満ちていた場所だったが、今や帝国の放つ『大いなる冬』の直撃を受け、死の静寂に包まれていた。
石造りの家々は黒い雪に埋もれ、広場の噴水は天を突くような不気味な氷柱と化している。何より、行き交う人々の瞳には光がなく、その肌は煤けたようにどす黒く、絶望という名の「心の汚れ」が全身にこびりついていた。
「……閣下。この町、とっても『息苦しい』ですわ。お家も、お外も、皆様の心まで、お掃除が何年も滞っているみたい……」
馬車から降り立ったリーネは、冷たい風に身を震わせるよりも先に、町の広場に漂う重苦しい瘴気に顔をしかめた。
彼女の目には、人々の顔に張り付いた「絶望」が、まるで長年放置された換気扇の油汚れのように、幾層にも重なってこびりついているのが見えていた。
「リーネ、無理はするな。……ここは既に帝国の精神汚染が始まっている。……ハンス、騎士団に命じて野営の準備を。……リーネ、君は私の腕の中で大人しくしていなさい」
ジークヴァルトは、リーネを冷気から守るように厚手の外套で包み込み、周囲を威圧するような殺気を放った。だが、リーネの「お掃除魂」は、目の前の悲惨な光景を放っておくことを許さなかった。
「いいえ、閣下! こんなに不衛生なままでは、皆様の心が壊れてしまいますわ。……まずは、あちらの炊き出しの場所をお掃除しましょう。……あんなに真っ黒なパンを召し上がるなんて、お腹を壊してしまいます!」
リーネが指差した先では、町の住民たちが、泥のような黒ずんだスープと、石のように硬く、カビと呪毒が混ざったような配給パンを力なく齧っていた。
リーネはジークヴァルトの制止をすり抜け、収納袋から【伝説の洗浄石】を組み込んだ大鍋と、特注の【聖水の小瓶】を取り出した。
「【洗浄】――不純物はすべて、私の光で洗い流しますわ!」
リーネが広場の中央にある泥水の樽に手をかざすと、眩いばかりの純白の光が溢れ出した。
濁っていた水は瞬時に水晶のような聖水へと変わり、そこへリーネがカステル領から持ってきた浄化済みの野菜を放り込む。
さらに、彼女は住民たちが持っていた真っ黒なパンを、まるで汚れた布を洗うかのような手際で、浄化の霧で包み込んだ。
「ノア様、ホコリちゃん! 仕上げをお願いしますわ!」
「はい、師匠! パンの気孔に詰まった呪毒、一点集中で磨き出します!」
「キュイイイ!」
弟子ノアが魔法で熱を加え、ホコリ(魔獣)がパンから染み出してきた「どす黒い澱み」をペロリと吸い取っていく。
すると、どうだろう。
泥のようだったスープは、黄金色に輝く芳醇な香りの薬膳スープへと変わり、石のように硬かった黒パンは、リーネの浄化魔力を吸い込んで、ふっくらと焼き立てのような黄金色の「聖女パン」へと生まれ変わったのである。
「……え? なんだ、この香りは……」
「温かい……。お水が、お水が甘いぞ……!?」
震える手でスープを口にした老人が、驚愕の声を上げた。
一口啜るごとに、胃の奥から熱が広がり、長年の絶望で凝り固まっていた心が、春の雪解けのように解けていく。住民たちの瞳に、次第に本来の「生」の光が戻り始めた。
だが、その救済の光景を、憎悪に満ちた目で見つめる影があった。
住民に紛れていた帝国の暗殺者である。彼は、絶望を振りまくことで民を支配する帝国の教えを汚すリーネを、一刻も早く排除せねばならない「異物」と見なした。
(……魔女め。その偽りの光、泥の中で消してやる)
暗殺者は、音もなくリーネの背後へと忍び寄った。
彼の手には、触れただけで魂を腐敗させるという「腐食の短剣」が握られている。ジークヴァルトが騎士たちの誘導に目を離した、その一瞬の隙。
殺意が、鋭い刃となってリーネの背中に向けられた。
――しかし。
「……あら? あちらから、とっても粘り気のある『汚れ』が近づいてまいりますわ」
リーネは、振り返りもせずに呟いた。
彼女の【神域の純浄】は、もはや物理的な汚れだけでなく、向けられた「殺意」や「悪意」さえも、清浄な空気を乱す『精神的な煤』として感知するようになっていた。
暗殺者が刃を突き立てようとした瞬間、リーネがくるりと振り返った。
「そんなに殺気立っていては、お顔が真っ黒になってしまいますわよ? ……はい、スッキリいたしましょうね」
リーネが、驚愕で固まる暗殺者の顔に向かって、浄化の霧を吹きかける。
――シュアァァァァァッ!!
純白の霧に包まれた瞬間、暗殺者の持っていた「腐食の短剣」は、不浄な成分を根こそぎ分解され、ただの錆びた鉄屑となって粉々に砕け散った。
「ぎゃあああああああ! 目が、心が、洗われるぅぅぅ!!」
暗殺者はその場に転がり、喉を掻きむしった。
リーネの浄化は、彼の脳内にこびりついていた「帝国への狂信」や「殺人への渇望」という名の執拗な汚れを、強引に丸洗いしてしまったのだ。
暗殺者は数秒後、憑き物が落ちたようなスッキリとした表情で空を仰ぎ、そのまま「……俺は、なんて不衛生なことを……」と涙を流して自白し始めた。
「……リーネ! 怪我はないか!?」
異変に気づいたジークヴァルトが、風のような速さで駆け寄り、リーネを抱き寄せた。
彼は転がっている暗殺者を塵を見るような目で見下ろし、即座に首を撥ねようとしたが、リーネがそれを押しとどめた。
「閣下、もう大丈夫ですわ。この方、すっかり『お掃除』が済んだみたいですから。……それよりも、皆様のスープが冷めてしまいます」
「……君という女性は……。殺されそうになったというのに、スープの心配か」
ジークヴァルトは、呆れたように、けれど心の底から安堵したようにリーネを抱きしめ直した。
広場に集まった住民たちは、奇跡の食事と、暗殺者さえも「一拭き」で変えてしまったリーネの姿に、もはや神への祈りさえ忘れ、彼女に向かって跪いた。
「本物の……本物の女神様だ……!」
「聖女様! カステルの聖女様! どうか、この町を、私たちをお救いください!」
住民たちの合唱が、凍てついたノースエンドの夜空に響き渡る。
その声は、リーネを「魔女」と呼ぼうとした神殿のプロパガンダを、物理的な光で塗り潰していくようであった。
◆
翌朝。
ノースエンドの町には、数年ぶりに太陽の光が届いていた。
リーネが町中の「黒い雪」を道路清掃の要領で片付け、温泉を掘り当てて「共同浴場」を作ったことで、住民たちの肌からは煤が消え、誰もが活力に満ちた顔でリーネを見送っていた。
「……ふぅ。これでこの町も、ようやく呼吸ができるようになりましたわね」
馬車に乗り込みながら、リーネは満足げに微笑んだ。
ジークヴァルトは、彼女の隣に座り、彼女の温かい手を握りしめた。
「……リーネ。君は今、帝国の支配を『お掃除』という名の力で根底から覆したのだ。……この噂が帝国の本拠地に届けば、彼らは全軍を挙げて君を狙ってくるだろう」
「閣下。……もし、たくさんの『汚れ』が攻めてくるなら、もっと大きなブラシを作らなくてはいけませんわね」
リーネの天然な、けれど揺るぎない覚悟。
ジークヴァルトは、その無邪気な強さに、改めて生涯を賭けて彼女を守り抜くことを誓った。
一方、極北の氷城。
鏡越しにノースエンドの「浄化」を目撃していた帝国の将軍たちは、恐怖に震えながら報告をまとめていた。
「……報告します。カステルの聖女は、我が帝国の『絶望』を……物理的な汚れとして洗い流し、住民を洗脳――いえ、清潔に洗脳し続けております!」
帝国の「汚れなき支配」を、「本当の清らかさ」で塗り替えるリーネの遠征。
物語はついに、帝国の防衛線――「不透過の油汚れ」が待ち受ける国境の砦へと向かおうとしていた。




