【第31話】極北への爆速進軍。……閣下、道が凍っているなら「雪かき」をすれば良いのですわ!
カステル領の境界を越え、魔導帝国の支配領域へと続く北の街道に足を踏み入れた瞬間、世界の色は一変した。
つい数日前まで見上げていた清々しい青空は、どす黒く澱んだ灰色の雲に覆われ、太陽の光は弱々しく遮られている。そして、空からは真夏であるはずの季節を否定するように、不気味な「黒い雪」がしんしんと降り注いでいた。
「……これが、帝国の放つ『大いなる冬』の萌芽か。ただの雪ではないな」
豪華な魔導馬車の車内、ジークヴァルトは窓の外を険しい表情で見つめていた。
降り積もる雪は、触れるものの熱を奪うだけでなく、微細な呪毒を含んだ「魔力の粉塵」だ。石畳の街道は瞬く間に膝の高さまで埋まり、馬たちの足取りは重く、車輪には粘り気のある泥のような汚れがこびりついている。
「閣下、進軍速度が大幅に落ちております! このままでは国境の砦に辿り着くまでに、予定の三倍の時間がかかりますぞ!」
馬車の横を並走する騎士が、凍える息を吐きながら報告する。
ジークヴァルトは苦渋の決断を下そうとした。魔力で道を焼き払うことは可能だが、それでは兵たちの体力を削り、何よりリーネを不安にさせてしまう。
だが、その時。隣に座っていたリーネが、窓枠を指でなぞりながら、心底嫌そうに眉をひそめた。
「……なんて不衛生なのかしら。閣下、見てください。この雪、ただ冷たいだけじゃなくて、とっても『油っぽい』ですわ。これでは、せっかくの街道が台無しです」
「……油っぽい?」
ジークヴァルトが問い返す間もなく、リーネはお掃除スイッチを入れていた。
彼女にとって、帝国の広域呪い兵器は「国家を脅かす脅威」ではなく、「公共の道路を汚す悪質な不法投棄」に他ならなかった。
「ノア様、ホコリちゃん! 準備はよろしくて? このままでは、お洋服も馬車も泥だらけになってしまいますわ!」
「はい、師匠! 洗浄液の粘度調整、完了しております! いつでも噴射可能です!」
「キュイイイ!」
弟子ノアが魔法の触媒を構え、ホコリ(魔獣)が窓枠に身を乗り出して、雪に含まれる「呪いの成分」を美味しそうに吸い込み始める。
リーネは収納袋から、【伝説の洗浄石】を先端に組み込んだ、長いノズル状の掃除道具――昨日、別邸で試作した『高圧魔導洗浄ノズル』を取り出した。
「閣下、窓を開けますわね。……少し、お外のゴミを掃いてまいります!」
「リーネ!? 危ない、身を乗り出すな!」
ジークヴァルトが慌てて彼女の腰を掴んで固定するが、リーネの行動は止まらない。
彼女は窓からノズルを突き出すと、ジークヴァルトから供給される膨大な魔力を、洗浄石を通して「高圧の聖水」へと変換し、一気に噴射した。
「【洗浄・道路清掃】!!」
――ズガァァァァァァン!!
それはもはや、雪かきなどという生易しいものではなかった。
ノズルの先から放たれた純白の光の奔流が、街道に積もった黒い雪を、一瞬にして蒸発させたのである。
光の圧力は凄まじく、雪を弾き飛ばすどころか、石畳の隙間に詰まった数百年前の泥汚れまでをも根こそぎ剥ぎ取り、下から「新品同様」の輝きを放つ真っ白な街道を露出させた。
「……なっ、なんだ、この光景は……!?」
馬車を護衛していた騎士たちが、驚愕のあまり落馬しそうになった。
自分たちが苦労して進んでいた泥濘の道が、リーネがノズルを向けた瞬間、まるで天界へと続く「聖なる道」へと作り替えられていく。
しかも、リーネの浄化魔力が石畳に付与されたことで、馬たちの蹄は滑るどころか、逆に吸い付くようなグリップ力を得て、さらに「加速の加護」までかかっていた。
「あら、とっても捗りますわね! 閣下、もっと速度を上げても大丈夫ですわよ?」
「……リーネ。君は……君という女性は……」
ジークヴァルトは、呆然としながらも、彼女が作り出した「ピカピカの滑走路」を見て、御者に全速力を命じた。
通常、行軍といえば一日数十キロが限界だが、リーネの「雪かき」が加わった辺境伯騎士団は、まるで風に乗ったかのような爆速で極北へと突き進み始めた。
◆
その頃。街道から数キロ離れた雪山の稜線では、帝国の斥候部隊が、自分たちの目を疑っていた。
「……報告しろ! カステル軍の進軍速度はどうなっている!」
「は、はい……。通常、我が帝国の『大いなる冬』の呪雪に足を取られ、一日五キロも進めないはずですが……。……信じられません! あ奴ら、時速五十キロ以上の猛スピードで爆走しております!」
「馬鹿なことを言うな! この雪の中を、どうやって走るというのだ!」
斥候の隊長が遠見の水晶を覗き込み、絶句した。
水晶に映っているのは、一帯の雪を「物理的な光」で消し去りながら、砂煙ならぬ「浄化の光の粒子」を巻き上げて疾走する、見たこともないほど輝かしい騎士団の列だった。
「……なんだ、あの道は。……我々が数ヶ月かけて汚した街道が、あの一瞬で……あんなに真っ白に磨き上げられているだと?」
「隊長! カステル軍が国境の砦を突破しました! ……早すぎる! このままでは、我々の防衛陣地が整う前に、本拠地まで乗り込まれますぞ!」
帝国の常識は、リーネの「お掃除魂」の前では無力だった。
彼らが戦略として配置した「汚れ(呪い)」は、リーネにとっては「お掃除のやりがいがあるゴミ」でしかなく、磨けば磨くほど彼女の進む道は加速していくのだ。
◆
夕刻。予定を大幅に短縮し、一行は極北の入り口にある中継地点の町へと到着した。
そこは既に帝国の呪雪に閉じ込められ、住民たちは家の中で震え、絶望に沈んでいた場所だ。
「……閣下。ここの町、とっても埃っぽくて、お水が凍りついて可哀想ですわ」
馬車から降りたリーネは、寒さに震えるよりも先に、町の広場にある「凍りついた噴水」に目を留めた。
ジークヴァルトは、彼女を冷たい風から守るように抱き寄せながら、苦笑を禁じ得なかった。
「……分かった。ここでも『雪かき』をするのだろう? ……君の気の済むまでやるがいい。……ハンス、ノア。騎士団を休ませるな。リーネの『お掃除』を全力でサポートしろ」
「承知いたしました! ……騎士諸君、これより町全体の『大洗浄』を開始する! 師匠のブラシの邪魔をする雪は、一粒たりとも許すな!」
ノアの号令に、騎士たちは「おーっ!」と異様な熱気で応えた。
彼らは既に知っている。リーネの浄化の後を歩くことが、どれほど心地よく、誇らしいことか。
「……ふふ。皆様、やる気満々ですわね。……さあ、ホコリちゃん。まずはあの噴水から、スッキリさせてあげましょうか」
「キュイ!」
リーネの無自覚な「雪かき進軍」は、立ち寄る先々の町を聖域へと変えながら、帝国の心臓部へと向かって、さらに加速していく。
一方、王都でリーネを「魔女」と呼んで追い出した人々は、今頃になって気づき始めていた。
彼女がいなくなった後の王都が、どれほど急速に「煤け、汚れ、息苦しくなっているか」を。だが、既に遅い。
真の聖女は今、最強の夫と共に、世界の果てを丸洗いするための伝説を刻んでいるのだから。




