【第30話】遠征前のひと休み。……閣下のお説教と、ノア様の「乙女なお休み」について
高原の温泉郷アルプスに、決戦の地「極北」への遠征を決意する力強い号令が響いた翌朝。
カステル辺境伯家の別邸は、これまでにないほど慌ただしく、同時に甘やかな緊張感に包まれていた。
リーネが「世界一のゴミ屋敷を丸洗いしに行きますわ!」と宣言したことで、騎士団やハンスたちは、伝説の洗浄石を積み込むための頑丈な馬車や、冬越えのための物資調達に奔走している。
そんな喧騒を余所に、主寝室の豪奢なカウチの上では、リーネが逃げ場のない「拘束」を受けていた。
「……閣下。あの、もう三時間はお話を聞いておりますわ。そろそろ、お掃除の道具のパッキングを……」
「駄目だ、リーネ。まだ肝心なことが終わっていない。……いいか、極北は魔導帝国の本拠地だ。そこには、君の清らかな魔力を狙う野心家や、君を『魔女』と呼んで石を投げようとする愚か者が掃いて捨てるほどいる。……一歩でも私の側を離れるな。誰かが君に話しかけようとしたら、即座に私の背後に隠れろ。……分かったな?」
ジークヴァルトは、リーネを自分の膝の上に乗せて正面から抱きかかえ、逃がさないようにその細い腰をガッシリと腕で囲んでいた。
彼の瞳には、前夜の「死神」の殺気とは別の、狂おしいほどの心配性と独占欲が渦巻いている。彼はリーネの丸眼鏡をそっと外し、その潤んだアメジスト色の瞳を覗き込みながら、切々と「遠征中の禁止事項」を説き続けていたのだ。
「……他の男と目を合わせるな。……私の許可なく誰かに微笑むな。……そして、何より、汚れを見つけたからといって、私を置いて一人で突撃するな。……約束できるか?」
「……はい、閣下。……でも、閣下。そんなに怖いお顔をなさらないでください。……閣下の胸の音、とっても早くなっておりますわ。……私、どこへも行きませんから、大丈夫ですよ」
リーネは、お説教を遮るように、ジークヴァルトの広い胸にそっと手を置いた。
彼女の【神域の純浄】が、彼の内側にある「不安という名の澱み」を優しく包み込み、洗い流していく。
ジークヴァルトは、リーネの無垢な慈愛に触れ、ようやく深い溜息をついて彼女の肩に額を預けた。
「……君は、本当に……。……私の心をこれほどまでに乱し、そして一瞬で凪に変えてしまう。……リーネ、君という光を失うことが、今の私にとって唯一の『恐怖』なのだ」
二人の間に流れる、静かで濃密な愛の時間。
ジークヴァルトは、ようやくリーネを解放し、彼女の額に誓うような接吻を落とした。それは、遠征という戦いに向かう前の、騎士としての誓いでもあった。
◆
一方その頃。別邸の離れにある客室では、弟子となったノアが、これまでにない「戦い」に直面していた。
目の前のテーブルには、リーネが今朝「ノア様、今日は一人の女の子として、ゆっくりお休みしてくださいね」と言い残して置いていった、数々の品々が並んでいる。
最高級の浄化シャンプー、甘い香りのする薔薇の香油、そして――。
「……この、フリルがついた寝間着を……私に、着ろと?」
ノアは、中性的な琥珀色の瞳を大きく見開き、その桃色の生地を震える指でつまみ上げた。
彼女は、汚職に塗れた神殿を生き抜くため、自らを殺して「男装の神官」として生きてきた。自分を飾ることも、自分を労ることも、彼女の人生には必要のない「不純物」だったのだ。
「キュイ?」
足元で、真っ白な毛玉の魔獣ホコリが、首を傾げてノアを見上げている。ホコリはノアの迷いを察したのか、彼女の足元に体を擦り付け、「大丈夫だよ」と言うように優しく鳴いた。
「……ホコリ。私は、どうすればいいのだ。……師匠は『お休み』だと仰ったが、私は掃除の素振りも、地脈の計算もしていないと、落ち着かなくて……」
ノアはおそるおそる、リーネから贈られたシャンプーの蓋を開けた。
瞬間、部屋の中に、これまでに嗅いだことのないほど清らかな、けれど温かい「安らぎの香り」が広がった。それはリーネが自身の魔力を込めて調合した、心を洗うための特製薬品だった。
ノアは、誘われるように浴室へと向かった。
お湯を使い、自分を磨く。……それは彼女にとって、神事よりもずっと神聖で、かつ恐ろしい儀式のように感じられた。
一時間後。
浴室から出てきたノアは、鏡の前に立ち、呆然と自分を見つめていた。
リーネのシャンプーで洗われた赤髪は、拘束から解き放たれ、夕焼けの光を反射して艶やかに波打っている。浄化の香油が肌に馴染み、男装を維持するために強張っていた顔立ちから角が取れ、そこには驚くほど可憐で、美しい少女の素顔があった。
「……これが、私……?」
桃色の寝間着に袖を通すと、まるで春の雲に包まれているような心地よさが全身を駆け巡った。
ノアは、ベッドに腰掛け、自分自身の柔らかな髪を指でなぞった。
ずっと、自分は汚れていると思っていた。
腐敗した神殿に身を置き、嘘を吐いて生きる自分。……だが、リーネはそんな自分の「表面」だけでなく、内側の「淀み」までをも、温かなお掃除(浄化)で救い上げてくれた。
「……私も、師匠のように。……いつか、誰かの曇りを晴らせる女性になりたい」
ノアは、ホコリを抱きしめ、初めて「自分自身の明日」のために祈った。
明日からは再び、地獄のような極北への進軍が始まる。けれど、今のノアの心には、リーネから貰った「お休み」という名の輝きが、確かな力となって宿っていた。
◆
その夜。別邸の大食堂では、遠征前の最後の晩餐が開かれた。
ジークヴァルト、リーネ、ノア、そして老庭師バルトに老執事ハンス。
かつての呪毒に覆われていたカステル家には考えられなかった、温かな団欒の風景がそこにあった。
「さあ、皆様! 私が特製の『浄化薬膳スープ』を作りましたわ。これを召し上がれば、極北の寒さなんて吹き飛んでしまいますわよ!」
リーネが大きな鍋を抱えて現れると、食堂中が芳醇な、命を活性化させる香りに包まれた。
一口啜れば、全身の魔力回路が磨かれ、活力がみなぎる奇跡のスープ。
皆が笑顔でスプーンを動かし、明日からの激闘を前に、心を一つにしていく。
「姫様、俺はこの庭を守りながら、いつでも最高の野菜を作って待ってやすぜ!」
「リーネ様、馬車のパッキングは完璧です。雑巾三千枚、確かに積み込みました」
「師匠……私、命に代えても、あなたのお掃除の道を切り拓きます!」
家族たちの言葉に、リーネはアメジスト色の瞳を潤ませ、力強く頷いた。
「はい、皆様! 準備はよろしくて? ……ブラシにオイル、そして、一番大切な『やる気』は持ちましたか?」
リーネの明るい号令。
その声は、世界を凍てつかせる帝国の呪いさえも、一瞬で溶かしてしまいそうなほどの光に満ちていた。
「……ああ。行こう、リーネ。……世界を君の色に塗り替える、最初の一歩だ」
ジークヴァルトがリーネの手を握りしめ、二人は朝日が昇る北の空を見据えた。
翌朝。
真っ白な雪を蹴立てて、辺境伯騎士団の馬車が動き出す。
地味な掃除女が、世界の果てにある「最大のゴミ屋敷」を丸洗いするための、伝説の遠征が、ついに幕を開けたのである。




